THE FATES

4.鏡面(11)

 天水(てんすい)の夜は寒かった。羅依(らい)は腰にかけていた毛布を肩まで引きずり上げ、うつ伏せになって小窓を覗いた。中二階の窓から見える夜の絆景(ばんけい)は、真昼のように明るく、色とりどりに輝いていた。中でも黄金の明かりは目に痛いほどだった。真下の道に人通りはないが、一つ向こうの筋は客や呼び込みで賑わっていた。
 すぐ隣には真小太(まこた)が寝息を立てていた。羅依のわき腹に背中の丸みを押し付け、腹を上下させる。時折、思い出したように動く耳を、羅依は軽く摘まんだ。
「留守番、ごめんね」
 天水の街を獣族(じゅうぞく)の真小太をつれては歩けないので、連日部屋に置き去りになっていた。少し前ならごねて大変だったが、こちらへ来てからは従順に羅依の指示に従った。獣族は人より成長が早い。真小太はもう、子供ではなかった。触れた場所から伝わる温もりに、命の鼓動を感じる。寿命も人より短かった。
 部屋の明かりは全て消され、天井に絆景から光の筋が伸びていた。体を少し起こして、居間を覗く。向かい合って置かれた長椅子には、それぞれ由稀(ゆうき)(こう)が寝ていた。起きている時は不機嫌なばかりの紅も、寝ている時だけは整った顔が際立ち、人形のようだった。
 中二階の下には、(しゅん)の寝室があった。羅依は自分の足元を意識して、再び窓の外に目を遣った。彼のことを考えるだけで、息が詰まるほどに胸が震えた。それは喜びではなく、悲しみでもなく、愛しさでもない。気が狂いそうなほどの切なさだった。
 長く伸ばした髪の一本一本に、彼が撫でた感触を思い出す。引かれた腕に、彼の指の強さが残っている。弾かれた指は、痛み以上に疼いた。
 瞬の深緑の眼差しは、羅依を捉えることがなくなった。
 意図的に、周到に、避けられていた。その仕草はあまりにも自然で、羅依は自らの思い過ごしと何度も錯覚した。
 何か気に障ることをしただろうか。羅依は何度も振り返った。その中で何度も行き着いた答えに、刃物を飲み込むような思いがした。
 憎しみと、殺意と、血の臭いから始まった関係だった。決して触れ合ってはいけない、たとえ爪の先でも掠ったなら首が飛ぶような決意を抱えていた。それが、再会して気付いたときには、もうすでに変色していた。腐食していたのだ。
 再び目の前に現れた彼は傷だらけで、初めて会ったときに感じた、肌を切るような眼差しも狂気も、羅依を駆り立てた彼の全ての要素が抜け落ちていた。そこにいたのは、美しくも儚い、放っておけば死んでしまうような繊細な一人の男だった。深緑の瞳は、罪深いほどに艶があり、目で追わずにいられなかった。そして、もっと彼を知りたくなった。
 追うほどに、彼との距離がもどかしくなった。縮めたいと思いながらも、近付く恐怖を感じている自分がいた。憎悪という負の感情群には慣れていても、それ以外の興味を抱くことにはひどく不慣れだった。
 だが、あの海に飛び込んで、全てが変わってしまった。
 彼の悲しみに、孤独に、痛みに触れて。
 引き返すという選択肢は、なかった。
 繋いだ息に、自分の命を込めた。神がもしこの世界にいるならば、たとえ世界が滅んでも彼を救ってほしいと祈った。たった二人の世界になることを、心のどこかでむしろ夢見た。人の情動で、憎しみが最も罪だと思っていたが、そのとき羅依が燃やしていた衝動は、更に罪深いことに感じられた。再び開かれた深緑の瞳が、愛しくて堪らなかった。
 足首を真小太の尾が掠めた。くすぐったさに足を動かすと、真小太は小さく鼻を鳴らして身をよじった。頬に自然と笑みが浮かんだ。慈しむ気持ちは、穏やかな風を呼ぶ。だが瞬を思う気持ちは、灼熱の疾風のようだった。
 天水へ来て、それまで知らなかった沢山の瞬の表情を見た。瞬に関わる様々な物や人にも接することができた。天水の言葉を使って話をされると寂しい気もしたが、それもまた良かった。どれも瞬の一部なのだと思うと、淀みなく受け入れられた。
 羅依は龍羅飛(りゅうらひ)跡で弾かれた手を握った。消えない痛みを覆い隠せるように、強く強く握った。指は血の気を失い白くなったが、痛みの根源は指にあるのではなかった。誤魔化そうとすればするほど、虚しさに押し潰されそうになった。
 彼に近付きすぎた。そう思った。かつて感じていた恐怖は、本能的な警告だったのだ。海に呑まれたのは自分の方だった。
 顔を上げると、窓に自分の姿が映っていた。子供の頃から家事を手伝い、剣を握ってきた羅依の手は、他の少女と比べて、お世辞にもきれいとは言えなかった。化粧気のない顔も、特別な手入れなどしていない髪も、細くて筋肉質な腕も腹も、どれも瞬に釣り合うものではなかった。
 握り締めた手を解放する。関節が不自由で、自分の手ではないようだった。その掌に、涙が落ちた。
 憎しみを忘れ、流れに呑まれ、自分をわきまえずに浮かれた心。罰に違いなかった。でなければ、穏やかさを運ぶはずの愛情が、涙するほどに苦しい気持ちをもたらすはずがないのだ。
 掌はめぐる血潮で薄紅に染まる。次々と涙が零れた。声を殺して泣くのは、悲しいほどに慣れていた。
 ひとしきり泣き、羅依は顔を拭うと、真小太を起こさないようにそっと離れて梯子を降りた。素足を忍ばせて厨へ入ると、羅依を感知して、橙色の明かりが控えめに灯った。
 器を手に水を探すが見当たらない。さほど広くない厨の壁は一面に作り付けの棚があった。いくつか開けてみるが、そのほとんどは何も入っていなかった。台の上には茶を淹れる道具があったが、羅依には使い方がさっぱりわからない。諦めのため息をついて、器を元あった場所に置いた。
「どうした」
 背後から声がして、羅依は肩を震わせた。突然のことでもあったが、何よりその声に驚いた。彼は羅依の横をすり抜け、いちばん手前の棚を開けた。
「水か」
 中から冷たい空気が流れてくる。瞬が取り出した壜は、表面が白く曇っていた。
「あ、うん」
 羅依は居間で寝ている二人を起こさないように、小声で言った。気付いた瞬が、入り口にある小さな突起を押した。音もなく、厨の戸が閉まった。
 瞬は水の入った壜を傾けた。羅依は置いた器を慌てて取り、壜の口に添えた。
「ありがとう」
「眠れないのなら、こっちにしようか」
 壜を片付けて、瞬は台の上にあった缶を振った。茶葉の揺れる音がした。
「うん」
 俯いて羅依は答えた。両手で持った器をじっと見つめ、一気に飲み干した。瞬の顔を見ることができなかった。
 茶器を扱う音がしたかと思うと、すぐに聞きなれた火付け具の音が鳴った。前髪の間から窺うと、瞬はすでに茶器を揃え、水が沸くのを棚に凭れて待っていた。
 狭い限られた空間の中で、機械の動く音だけが低く響いた。ちらと見た瞬の横顔は清かで、橙色の明かりの中で見る瞳はいつもより濃く黒く見えた。そこに世界を隔絶するほどの美しさはないものの、却って彼が本来持ち合わせる温かさが滲み出ていた。羅依は忍び見ていたことを忘れた。彼の穏やかな眼差しを横から見つめているだけで、胸に巣食った悲しみが消えていくようだった。
「瞬こそ、どうしたんだ。眠れないのか」
「まぁ、そうかな」
 煙草の甘い香りに、茶葉の芳醇な香りが絡まる。透明な器に湯が注がれ、中で茶葉が踊った。色が染み出ていく。琥珀にも似たその色は、気高く傲慢な色合いだった。
「一人寝は苦手なんだ」
 瞬は煙草を咥えたまま、苦笑して言った。
「そう、か」
 羅依は返答に窮して、曖昧な相槌で逃れた。どうも勘が狂った。今目の前にいるのは、瞬の姿をした別人のように思えた。
 鼻先に、手を差し伸べられる。意図を汲めずぼんやりしていると、
「これだよ」
 瞬は羅依の手から器を抜き取った。掠めた彼の指は硬く、乾いていた。
「冷たい手。眠れないはずだ」
 芳醇な茶の香りに満たされた小さな部屋で、瞬の微笑みは羅依の胸に針のように刺さった。特別ではないのかもしれなかった。昼間、外の光の下で同じ微笑みを見ても、印象に残るとは限らなかった。今、この瞬間が、羅依に魔法をかけた。それまでの逡巡が嘘のように消えていく。器から立ち上る湯気のように。
 渡された器に口を付ける。湯気を吹いて冷ましながら飲む。砂糖を入れなくても甘い。そこがセイル茶より好きだった。
桟楽(さんらく)っていうところに、行くのか」
「そのうち行くことになるかもしれないが、明日明後日の話じゃない。仁支(にし)の情報は古い可能性がある。他と併せて、もう少し調べてからにするつもりだ」
青竜(せいりゅう)のことか」
「そっちが本題だからな」
 瞬は煙草以外のものを口にするとき、心底不味そうな顔をする癖があった。茶を飲むときも例外ではなかった。
「羅依」
 瞬はやや沈んだ声で言った。羅依は器から顔を上げた。
「一応聞いておくんだが、天水へ来て妙な視線を感じたことはないか」
「妙な視線……。瞬にはあるのか」
「いや、そういう意味じゃない。ほら、お前の髪は、目立つだろう」
「ああ、そういうことか」
 振り返ってみるが、思い当たる節はなかった。
「特にないよ。絆景の目にも、だいぶ慣れてきたし」
「そうか。なら、いいんだ」
 力なく笑う横顔には、言葉とは裏腹の影があった。羅依は追及しようとして、あと一歩のところで踏みとどまった。
 思えば、瞬は一度も羅依の目を見ようとしていなかった。
 気遣い、優しさ、気さくな態度。それら全てに隠されていたが、事態は何も変わっていなかった。二人の間には幾つもの鏡が据えられ、そこに結ばれた虚像と話し、心を開いていたのだ。胸の奥でからからに乾いたはずの葉から、憫然と嘆きが染み出た。一瞬でも舞い上がった自分が哀れで惨めだった。
「もし、何かあったらすぐに教えてくれ」
 瞬は煙草を消して、器に残っていた茶を捨てると、戸を開けて厨を出た。羅依は瞬の上着の裾を掴んで引き止めた。
「あたしは、何を見ればいい」
 背後の明かりが消える。怖くて、顔を上げることができない。
「どのお前を信じればいい。どれが本当のお前なんだ」
 服を握る手は震え、膝は固まった。
「あたし……」
 長椅子から、由稀の寝息が洩れ聞こえた。羅依は俯いたまま、唇を噛んだ。彼の前では絶対に泣かない。
「どれでも」
 瞬の手が、躊躇いながら羅依の肩に触れた。耳元に顔を寄せる。
「どれでも、羅依の好きなように。自由だよ」
 耳をくすぐる吐息は、あまりにも卑怯だった。
「おやすみ」
 服を掴む羅依の手をやんわりと外して、瞬は寝室に消えた。