THE FATES

4.鏡面(12)

 関所の役人から通行証を返し受けて、玲妥(れいだ)は大事に鞄に戻した。跳ねるように一歩踏み込んで、両腕を空へ向かって広げる。故郷に、帰ってきた。ラルマテアまでは馬車でまだ数日かかるが、肌に触れる凛とした風も、凍りついたように澄んだ空も、控えめに世界を照らす陽光も、玲妥が懐かしんだものばかりだった。喜びが極まり、体は綿のように軽くなった。
「お山を一つ越えただけなのに、寒いんですねぇ」
 すぐ後ろを歩く紫月(しづき)が、間の抜けた調子で言った。
「大丈夫? 紫月ちょっと薄着だけど」
「何がですかぁ。気持ちいいくらいですよぉ」
「そっか。なら良かった」
 玲妥は苦笑して歩き出す。もし明朝、彼女の体調が悪化していても、先に気付くのはおそらく玲妥だった。紫月は指摘されても気付かない可能性があった。
 精霊界へ行ったときは、玲妥の中にまだ緊張感があり、紫月との間にも勝手に壁を作っていた。葉利(はり)への接し方は節度を持って甘えることで調整できたが、紫月とはどう向き合えばいいのかわからなかったのだ。年齢は幾つも紫月の方が上だった。一見では、才女にも見えた。だが、中身は玲妥よりもはるかに幼稚で、社会的知識や一般的常識に無頓着だった。
 宮殿を出て、船着場で弓菜(ゆみな)と離れて、玲妥はじわじわと紫月を好きになっていた。
「きれいな屋根ですねぇ。どれも尖がってます」
「今はないけど、そのうち雪が降るとね、積もるでしょ。だから自然と雪が下に落ちるようになってるんだよ」
「はあぁ、なるほどぉ。すごいですねぇ」
 紫月はのんびり感心すると、立ち止まって民家の屋根を見上げた。
「そのときの方が、きっともっときれいでしょうねぇ」
 寒さに頬を赤らめて、紫月は玲妥に微笑んだ。この笑顔が、玲妥は大好きだった。同じように微笑んで、玲妥は紫月の手を取る。
「紫月、おじさん達が今からお店出すから、そこ邪魔だよ」
 露天の幌布を抱えて立つ男たちに頭を下げて、玲妥は紫月の手を引いた。
「玲妥さん、あんまり走ったら、わぁ!」
 道の真ん中で、躓く小石の一つもないのに、紫月は気持ちいいほど激しく転んだ。玲妥は頭を抱えて、苦笑した。道沿いの露天からも、朗らかな笑いが起こった。紫月は起き上がると、照れて鼻の頭を掻いた。

 宿の窓から覗く夜空は、冴えた星の輝きに彩られていた。玲妥は毛布を口元まで被って、静まる夜を眺めていた。隣の寝台からは、健やかな紫月の寝息が聞こえた。だが玲妥は眠れる気配もなく、瞬きに見とれた。昼間は気付かなかった胸の高まりが、彼女の眠りを妨げていた。
 馬車を乗り継げば、二日後の早朝にはラルマテアに着く。宿屋の女将からそう聞き、玲妥は居ても立ってもいられなくなった。目を閉じれば、育った町の風景や家の中の様子が手に取るように思い起こされた。小さな町だが、誰もが分け隔てなく愛され、守られ、光を浴びていた。生みの親がいないことで虐められたこともあったが、今から思えばそれは貴重な経験だった。玲妥の中の、育て親に対する愛情が増した瞬間でもあった。
『二人は青竜(せいりゅう)と繋がってたんだ。俺たちは青竜たちの都合で生かされてきたんだよ』
 無意識のうちに、ため息が零れた。
 由稀(ゆうき)の不安を強気に払いのけた玲妥だったが、兄の気持ちは痛いほど理解できた。自分自身にも、彼と同じ悲しさがあった。
『ただ私は、可能性を見ていたいだけ。どんなに小さな可能性も無視したくないの』
 前向くことを心に決めて、ここまで来た。一緒に過ごした日々の、温もりと愛を信じて息を繋いだ。だがその意識過剰は不安の裏返しであることを、玲妥は感じていた。
 心のどこかで願っている。青竜の話など全くのでたらめで、家に帰れば二人が変わらぬ笑顔で迎えてくれると。
「まだ起きてるんですか」
 突然の紫月の声に、玲妥は肩を震わせた。振り返ると、紫月は眠気の欠片もない笑顔で手を振っていた。
「びっくりした。てっきり寝てると思ってたから」
「はい。寝てましたよぉ」
「そ、そか」
「ちょっぴり、緊張ですか?」
「うん、まぁそんな感じかな」
 玲妥は体ごと紫月の方を向いて、よれた毛布を引き寄せる。
「おかしな話だよね。少し前まで暮らしてた場所なのに、緊張なんて」
「そんなことないですよぉ。どんな気持ちも、自分の中からわきでて来たものは全て自然なものなんです。ただちょっと、認めるのがしんどいだけですよぉ」
 玲妥には紫月の言葉が何より自然に思えた。彼女に言われると、本当にそんな気がした。
「紫月、故郷は」
「うーん、それがよく覚えてないんです」
「そうなんだ」
 軽率に踏み込んだ話をしたことに玲妥は後悔し、伏し目がちに言った。
「ごめんね」
「どうして謝るんですかぁ。いいですよぉ」
 紫月は首を振って、毛布の中から玲妥に手を伸ばした。指先が前髪に触れて、撫でた。
「前に、私が梗河(こうが)屋で働いてたって話、しましたよね」
「うん」
 頷いて、玲妥は梗河屋の船を利用したときのことを思い出した。一般常識に疎い紫月だったが、梗河屋の船のことや橙亜(とうあ)の地理に明るいことを不思議に思い問うたところ、まるで思い出したように梗河屋にいたことを明かしたのだった。あまりの印象の落差と衝撃に、玲妥はそれ以上を聞こうとしたことはなかった。
「私のいちばん昔の思い出は八つのときで、亜須久(あすく)さんが梗河屋に来たときのことなんですよ」
「あーちゃんが」
「はいぃ。私はまだ小さかったからわかんなかったんですけど、大きな人たちがみんな騒いでたんです。若が子供の部下を持ったって」
「若って」
「今の総長の、周防(すおう)さんですよぉ。でねぇ、私も少しするとなんとなくですけど、それがすごいことなんだなって思うようになったんです。だからいちばん昔の思い出は、ちょっとびっくりなことから始まってるんですよぉ。そういえばそのときに」
 紫月ののんびりとした口調を、玲妥は難なく遮る。
「ねぇ紫月、船に乗ったりして、嫌じゃなかった? もしくは、もっと橙亜の街を見たかったとか、そういうのはないの」
「へ。どうしてですかぁ」
「だって紫月にとっては橙亜が故郷みたいなもんなんでしょ。だったら特別な感情があって普通だもん」
「ふぅん。確かにそうですけどぉ」
 そう言ったきり、紫月は眠るように考え込んでしまった。
「し、紫月?」
「はぁい。そうですよねぇ。言われてみれば確かになぁと思います。さすが玲妥さんはすごいですねぇ」
「そういう話をしてるんじゃなくてさぁ」
 玲妥は肩透かしを食らって、苦笑した。紫月は玲妥が笑ったと思い、満面に笑みを浮かべた。
「多分ね、私すごく玲妥さんに同調してるんだと思うんです。だから、起きちゃったんだと思うんです。わくわくするような、どきどきするような、ちょっと怖いような不思議な気持ち……。とっても鮮やかな刺繍みたい」
「紫月……」
 紫月は幼少時に梗河屋に拾われ、本人ですらその出自を知らない。厨房の下働きをこなしながら、長じてからは仕事や船の吉凶を占う一員でもあった。彼女は右手で触れたものの心を読み、左手で触れたものの傷を癒す力を持つ。そのため、間者と疑わしい者の詮索なども任されていた。
「長く過ごした場所が故郷だったり、大好きな人のいるところが故郷だったり、ふらっと立ち寄った街が肌にあって故郷になったり。色々あるほうが楽しいじゃないですかぁ。だから、今の私の故郷は玲妥さんの故郷なんですよぉ」
 無邪気な紫月の笑顔は、玲妥の心を解放していく。背中から、急に眠気が襲ってきた。
「ありがとう、紫月」
 目をこすりながらでは失礼だと思いながらも、そうしなければ話しながら寝てしまいそうだった。
「そうだ、紫月。ついでに聞いちゃうんだけど、あーちゃんとは知り合いだったの?」
「はいぃ。そうですよぉ。梗河屋でのお話とかしたことないですけどねぇ。私に特別なお仕事を持ってこられるのは、大体が総長付きの亜須久さんでしたからぁ」
「そう、なんだぁ……」
 玲妥の丸い瞳は、すでに半円になっていた。それを見て、紫月は自分の毛布をはねのけた。
「玲妥さん、そっち行ってもいいですかぁ」
「え、うん、別に構わな……い、よ」
「やったぁ」
 歓喜の声を上げて、紫月は玲妥の寝台に足元から潜り込んだ。
「ひゃっ、くすぐったい」
「はいぃ。そりゃもぉ、くすぐりましたからぁ」
 紫月は毛布から顔を出して、玲妥を背中から抱き締めた。
「夜がどうして暗いか、知ってますかぁ」
「ううん、知らない。どうして」
 背中から伝わる紫月の体温が嬉しかった。眠れない夜はよく安積の寝台に潜り込んだことをふと思い出した。
「色んなものを曖昧にしておいてもばれないために。だから、むきになって気持ちを整理したりしなくていいんですよぉ」
 玲妥にはそれが咄嗟の作り話であることがすぐにわかった。だが紫月の優しさから出たその話は、夜の光のように瞬いていた。
 紫月の左手が玲妥の顔を撫で、玲妥は瞼をゆっくりと閉じた。すぐに、夢を見たこともわからないほどの深い眠りについた。

 馬車を乗り継ぎ、早朝に到着したこともあって、ラルマテアの大通りはまだ静寂に包まれていた。夜が明ける前から車を走らせてくれた御者に運賃を多めに渡すと、手持ちの金は二人の朝食分にも満たなかった。それでも気にしなかった。家に帰るのだから。
 人気のない大通りは、風が通り抜けて一層寒かった。玲妥は上着の前を合わせて、目を眇めた。広場近くに設置された掲示板に、由稀の賞金首の張り紙はもうなかった。
 空は白み、通りの向こうから朝が染みてくる。光の中に、見慣れた家壁が埋もれていた。玲妥の足は急いて速くなった。小走りになりながら、何と言って扉を開けようか悩んだ。家ではその日最初の一言はおはようと決まっていたが、どうしてもただいまと言いたかった。
 家の前まであと少しのところで、玲妥は足をとめた。
「どうしたんですかぁ」
 後ろから追いついた紫月が間の抜けた声で言った。だが、玲妥には届かない。
「嘘よ」
 呟いて、持っていた荷物が手から抜け落ちた。ゆっくりと店に近付く。だが、その扉は板が打ち付けられ、空きと書かれた紙が貼り付けられていた。
「そんな……」
 覚悟がなかったわけではない。だが、現実に目の前にあるということは、玲妥の想像以上に過酷なことだった。
 息を止めて、涙を堪える。心が少し空っぽになった。
 近付いてくる足音があった。町の人なら、何か知っているかもしれない。そう思って玲妥は振り返った。視線の先にいたのは、真冬に着るような分厚い外套を羽織った男だった。目深に被った頭巾を手でやや持ち上げると、混じりけのない銀髪が風に揺らいだ。
比古(ひこ)!」
 玲妥は声を上げて、走り出した。胸に飛び込んで、服を掴む。
「ねぇ、これはどういうこと! 何か知ってるんでしょ、教えてよ。マスターとママはどこに行ったのよ!」
「玲妥、そんなに怖い顔したら、美人が台無しだ」
「ごまかさないで」
 比古の胸を叩くが、玲妥は激情を持て余していた。これほどの衝動は、経験したことがなかった。
 妙に落ち着いた様子で、比古は玲妥の髪を撫でた。
「寂しいなぁ。俺だって久しぶりに玲妥に会うのに」
 言いながら、比古は背後を振り返った。
「やっぱり俺では敵わないよ、安積(あづみ)には」
「え」
 顔を上げると、比古の後ろから一人の女が姿を現した。玲妥は彼女の眼差しに触れて、我慢していた涙を堪えられなくなった。慈悲深い、朝日と愛の微笑み。
「玲妥、会いたかった」
「ママ!」
 泣きながら飛びつくと、懐かしい母の匂いがした。