THE FATES

5.無垢(1)

 細かな振動が部屋を包んでいた。棚に積み重ねられていた本が、耐えかねて床に落ちた。
 凍馬(とうま)の体は実体を持たない。彼の存在を打ち消すには、楔である琉霞(るか)が力を失うか、凍馬自身が《気波動(きはどう)》を激しく消耗するしかない。
 しかし部屋には、無尽蔵に《気波動》が満ちていた。枯れるなどという想像が虚しいほどだった。瞬は展開していた力を呼び戻し、指先に集めた。たとえ相手が凍馬であっても、選んだ未来を手放すつもりはない。未来を繋ぐには、一撃で終わらせる他になかった。強い衝撃を与えて、その隙を衝く。長引けば、どちらもただでは済まない。龍仰鏡(りゅうおうきょう)が手元にないため、扱える《気波動》には限界があった。無駄撃ちは出来ない。
 凍馬は瞬の思惑を見過ごして、穏やかな笑みを浮かべた。
「あの時を思い出すよ」
 凍馬は小さく呟いて、窓の外へ視線を投げた。
「初めてだったよね。俺たちが互いに剣を向けたのは」
「そうだな」
 瞬は集めた力を押し隠して言った。景色を眺める凍馬の横顔に、あの日の面影はない。
 いや、あの日に彼の面影がなかったのだ。
「お前は覚えているのか、あの時のことを」
「もちろん。自分が死んだときのことくらい、覚えているよ」
 振り返る凍馬の顔に、笑顔はなかった。瞬の脳裏に、凍馬の死に顔が思い出された。振り払おうとしても、どこまでもついてくる。打ち消したはずの罪悪感が、息を吹き返す。瞬は口を歪めた。
 あの日、不穏な術を感じて駆けつけると、先遣隊はほとんど壊滅していた。砂に散った赤い斑点の向こうには、凍てつくような笑顔の凍馬がいた。
『来てくれると思ったよ。この世界を統べるお前なら』
 彼の周りには強力な結界があった。兵士の遺体を人柱にしたもので、容易に破れるものではなかった。地の底には、更なる術の気配があった。瞬の操作した時間流が、強引に歪められようとしている。天水の時が、未来へ舵を切ろうとしていた。
『忘れたのかい、瞬。俺は蓮利朱(れんりしゅ)。未来を司る一族だ』
『蓮利朱では、時間操作を禁じているはずだが』
『それは龍羅飛(りゅうらひ)でも同じことだろう。同罪になった、ただそれだけのことさ』
 そう言って凍馬は足元に落ちていた長剣を、瞬の元へ投げた。瞬は剣を一瞥して顔を上げた。
『なんのつもりだ、凍馬』
『遠慮せずに、使ってよ』
『随分、余裕なんだな』
『そう見える?』
 聞いたことのない、冷たい声だった。
『単に、丸腰の相手とやるのが、趣味じゃないだけだよ』
『なんだと』
『いいね。そうやって、存分に激情的になって。いつだってお前は冷静すぎる。それは深い諦めのせいだろう。もっと執着しろよ、生きていることに。でないと、甲斐がない』
 黒髪の隙間から、凍馬の麦色の瞳が覗く。その目は、静かに笑っていた。
『封印は完璧だ。鬼使(きし)と恐れられたお前も、今の力では俺に敵わない』
 結界が弾け、中から凍馬の《気波動》が溢れ出た。とっさに結界を張る余裕もなかった。糸のような細さで、刃のように鋭く、《気波動》が全身に襲いかかった。それは針の雨のようだった。
 あの日、瞬の体を貫いた《気波動》の傷跡は、今はもうない。王族付きの術者が治療し、全て消してしまった。あっけない、そう思った。どんなに血を流しても、どんなに叫びを上げても、全て最初からなかったものとして消し去られてしまう。小さな傷一つにも、無二の歴史が刻まれているというのに。
 やや薄暗い部屋の中で、青白い光が明滅する。それに合わせて凍馬の《気波動》が時折光り、七色に見えた。
 細い糸が、蜘蛛の巣のように空間を繋ぎ合わせていた。なおも蠢き、密になり、塞がっていく。記憶の中の痛みが蘇る。瞬は斬り付けられているような錯覚に陥った。それは凍馬の仕業ではない。自分で招いた妄念だ。瞬は知らず怖気づいていたことに気付いた。
 血を流すことも、凍馬に殺されることも、本意ではないが怖くはなかった。だが、あの日の凍馬にだけは二度と会いたくなかった。あの日の凍馬は、穏やかな微笑みを思わず疑うほど残酷で、息衝く殺意に濁りはなかった。
 なぜ。その言葉ばかりが頭の中に巡った。
 なぜ彼はここへ現れた。なぜ彼はあの日に死んだ。なぜ彼は死んでなお生きることを選んだ。なぜ彼は瞬にだけ厳しい。なぜ彼は瞬にだけ優しい。
 なぜ、彼はいつでも笑う。
 知りたい。
 力を集めた指先が揺らぐ。凍馬と出会ってからの長い時間が、瞬の中を駆け巡った。
 全ての瞬間に嘘はなかった。凍馬の穏やかな笑顔も、ともに駆けた草原の匂いも、突き刺した剣の感触も、全て瞬の中で確からしさをもって息衝いていた。だが、それら全てを繋げる線は、一つとしてなかった。
 瞬には凍馬の心が見えなくなった。
「あの時のお前は、まるで別人のようだった。結界の人柱も、俺への攻撃も。正気を失った、そう思った」
「それはつまり、俺が誰かに操られていたとか、そういう風に考えてるの」
「そう考えるのが、妥当だ」
「妥当か。うまいこと言うね。そうか、だから念入りに俺の体を燃やしたんだ。俺の意思と関係なく肉体が暴走するのを防ぐために」
 床から凍馬の《気波動》が吹き上げる。瞬はとっさに結界を張り、衝撃に耐えた。凍馬は特別、戦闘能力に優れているわけではない。だが、彼が放つ《気波動》は隅々までが巧妙な罠で構成されていた。結界で防いだとしても、何が起こるか瞬にも想像がつかなかった。
 封印を受けた自分と、肉体を失った彼では、どちらに分があるのか。考えても詮無いことだ。だが負ける想像だけはしない。圧倒的な力で押し切り、青竜の居場所を聞き出す。瞬はそれだけを考えようと努めた。
 噛み締める顎が軋む。少しでも力を抜くと、音が鳴るほど震えそうだった。瞬の中から、凍馬を殺したときの感触が消えない。腕に響いた骨の硬さ、掌を濡らした血の温かさ、粘り、目の前で光を失った凍馬の瞳。
 自分は彼を、二度殺せるだろうか。その覚悟を持てるだろうか。
 蜘蛛の巣は蠢いていた。凍馬は髪に結んだ綾紐を一つ解き、おもむろに指に巻きつけた。
「瞬、お前は火に焼かれたことがあるか」
「いや……」
「そっか。痛いことはお前の方が詳しいかと思ってたんだけど」
 綾紐から火が吹いた。凍馬は片腕に炎を纏う。
「すごく熱かったよ。今でも覚えてる。忘れるわけない。こんなにも苦しかったことを」
 炎は腕を包み、肩まで伸びた。瞬の後ろ暗さが、炎を大きく見せる。記憶と現実が綯い交ぜになる。瞬はひどい目眩を覚えた。
「まさか。だって俺が火をかけたとき、お前は、もう……」
「お前もよほど慌ててたんだな。本気でそう思ってたとは意外だよ。まぁ確かに、生と死の狭間にいたからね、それも仕方ないのかな」
 失望の微笑みは、炎の明かりを受けて寂しく揺れた。
「完全な死には、まだ間があった。ちょうど姉さんに魂を掴まれたときでね、意識ははっきりとあったんだ。体はゆっくりと死を受け入れようとしていた。生きようと思えば生きられたのかもしれない。でも、あの時の俺には、生を想像することすら出来なかった。いびつな感覚さ。死にゆく肉体は、自分の体と思えないほど居心地が悪いものだったよ。ねぇ、瞬。俺は自分の死臭まで嗅いだんだ」
「そんな、こと」
 ひどく喉が渇き、瞬は舌に残る湿りを飲み込んだ。皮膚を焼くような緊張と、血潮から滲む焦り、そして咎めの炎が瞬を苦しめた。
「やめろ、凍馬」
 なおも炎は凍馬の上で踊る。
「おかげで、今も炎を熱く感じる」
 凍馬の痛覚は、肉体の記憶に拠る。そのため、肉体が経験していない触覚や痛覚は再現することが出来なかった。
「こんな痛み、知りたくなかったね」
「やめてくれ!」
 瞬は堪え切れず、集めていた力を解放した。細い光が宙を走る。部屋を満たしていた凍馬の《気波動》が、乱暴に引き千切られて霧散する。あとには白い靄が立った。