THE FATES

5.無垢(3)

 か細く高い音がして、煙草に小さな火がついた。甘い香りが部屋に染みる。
 瞬の措置により、凍馬(とうま)は《気波動(きはどう)》を取り戻した。だがこれはあくまで一時的なものだった。出来るだけ早く琉霞(るか)の元へ戻らなければ、凍馬は彼自身を保てなくなる。瞬は恐怖に似た焦りを感じていた。
「凍馬、お前には青竜(せいりゅう)の使った術が何か、わかるのか」
「いや。聞き出そうとはしてるんだけどね、なかなか頑固な人だよ」
 凍馬は瞬から少し離れて寝台に腰かけた。両手を組んで、足元を見つめる。
「でも聞き出せたとしても、俺には使えないかもしれない」
「まさか」
 瞬は鼻で笑った。
 蓮利朱(れんりしゅ)は治癒に秀でた一族だ。中でも琉霞と凍馬の姉弟は、屈指の術者である。久暉(ひさき)を治したのは、《気波動》の希薄な青竜が使った術だ。信じられる話ではない。
「問題は《気波動》の強さじゃなくてね。言うなら、そう、性質の問題だ」
「性質? あれは治癒だろう。お前に合わないわけが」
「いや、術者の血統と言えばいいのかな。きっと俺より瞬の方が使えると思うよ」
 凍馬は顔を上げ、潔く微笑んだ。
「瞬も気付いてるんだろ、龍羅飛と竜族の符合には」
「ああ……」
 瞬は凍馬から視線を逸らし、手元の煙草を見つめた。あまりにも小気味好いので、思わず笑みが浮かんだ。威張ることも衒うこともなく、当然のように気付いている凍馬が小憎らしかった。いつから、と喉まで出かかって、やめた。瞬は前髪をかき上げて、平静を装った。
「そもそも、天水とアミティスで言語体系が共通していることも妙だ。両者に何らかの繋がりがあったなら、それも頷ける」
「もし竜族と龍羅飛が元は一つだったとしたら、あの術も元は龍羅飛にあったものということだ」
「俺にそこまでの断定はできないが。まぁ、そういう可能性もある」
「歯切れ悪いなぁ。俺のためにも言い切ってよ」
 屈託なく笑い、凍馬は胡座をかいた。足首を強く押さえる。服越しに、背中の骨が浮き出て見える。
「あれが最後の望みなんだよ」
 声は落ち着いていたが、却って激情が零れるようだった。瞬は凍馬の横顔をじっと見つめた。
「琉霞の術返しは、そんなにひどいのか」
「お前が知ってるときに比べて、随分進行したよ。顔半分と腹を残して、ほとんどが爛れてしまった」
 凍馬の手に静かに力が篭る。迸る感傷に熱はなく、むしろ触れれば切れる氷のようだった。
「今からでは、俺がこの世から消えても、術返しを防ぐことはできない」
 凍馬の魂を引き止めた反魂術は、代償として術者の体を徐々に蝕むものだった。そのため、蓮利朱では固く禁じられている。琉霞は当然それを知りながら、術を施した。
 凍馬は寝台から立ち上がり佇んだ。その姿には闇など窺えない。渦巻くような執念も皆無だ。だが、それこそが凍馬の闇と執念の表出だった。瞬は凍馬を見上げて、無言になった。かけるべき言葉は、喉の奥で燻っていた。瞬は煙草の煙を吐き出し、言葉も同じように簡単に吐き出せればいいのにと、上の空で考えた。
「姉さんを犠牲にしながら、それでも俺は世界に残って良かったと思ってる。後悔したことはないんだよ」
 凍馬の声は軽やかだった。
「それが姉さんにとってもいいと思ってたけど」
 肩にかかった綾紐が、胸の前に滑り落ちる。凍馬は小さく笑った。
「どうなんだろうね。結局は、俺の願望でしかないわけだ。姉さんも喜んでくれてる、とか」
 微笑みは悲しげではあったが、投げやりなものではなく、慈悲に溢れていた。凍馬は顔を上げた。
「こんなこと、いつまで続くのかな」
 爽やかに呟いて、窓に触れる。指先で景色を撫でる。
「お前も、こんな気持ちなのか。瞬」
 問いながら、凍馬は答えを求めているようではなかった。瞬は黙って凍馬の背中を見つめる。どれが嘘でどれが本当か。いくら探しても見つからないなら、そもそもそんな線引き自体が間違っている。全て凍馬の真実なのだ。たとえそこに繋がりや整合性がないとしても、それらは確かに凍馬の抱えた闇で、慈悲で、愛で、罪深さであった。
 傷ついた瞬の元に必ず駆けつける凍馬と、決して傷跡を消さない凍馬は矛盾しない。闇は慈悲を併せもち、愛は罪深さでもあった。
 体中に刻まれた傷跡は、全て凍馬が治し、残したものだ。その一つ一つに、凍馬の闇も慈悲も愛も罪も何もかもが詰まっている。引き攣れた皮膚が、二人の絆だった。
 瞬は凍馬を見つめた。この手で貫いた、彼の背中を。
『瞬。俺はお前を恨みはしない。むしろ礼を言うよ。ありがとう』
 掠れた声で凍馬は言った。抱きかかえた手が、血でぬめり滑った。瞬はふと、初めて人を殺したときのことを思い出した。
『なぜ。なぜだ、凍馬』
 瞬は友の真っ青な顔を覗きこんだ。凍馬の視線は虚空を漂った。
『はは、相変わらず不粋だなぁ。これだから俺が行き過ぎてしまうんだ。最後の俺の理由くらい、好きに考えなよ』
 凍馬は血を吐き、笑っていた。光が失われていくその只中で、いつものように笑っていた。
『探って、勘繰って、想像して、そうやっていつまでも俺を忘れるな。刻み込んで、忘れないで』
 麦色の瞳に、灰色の空が映る。
『嗚呼、瞬。まだお前と生きていたいよ』
 そして彼は今も笑う。
「悲しいことだね」
 凍馬は笑って、全てを過去へと流しやる。
「こんなに遣り切れない気持ちを、お前はもっとずっと幼い頃から。だからこんなものを見て、憎悪と復讐の生命を繋いでいるんだね。途切れないように。囚われて、塞がれて、疎み、求めるために」
 指先に景色を捉え、凍馬はゆっくり首を振る。
「でも、お前の見つめる先は間違ってる」
 肩越しに振り返って凍馬は目を細めた。瞬は凍馬の微笑みに癒されていく。彼は常に現在の糸を手繰り寄せ、未来を見ていた。
「結蘭、か」
 手元の煙草から、音もなく灰が落ちた。脳裏に、色褪せた記憶がよぎる。
 曇り空の下、足元の草は露に濡れ、結泉の水面は揺れていた。舐めるような眼差しと、圧倒的な妄執が瞬を絡め取った。
『欲しいものは、手に入れるためにあるのよ』
 瞬が確かに思い出せるのはそれだけだった。あとは記憶が断片的にあるだけで、はっきりとしなかった。
「何をしたの。随分恨まれてるよ」
「そうみたいだな」
「覚えてないのか」
「よくわからないんだ」
「俺がお前を拾う前のことだろう」
「ああ」
 瞬はほとんど吸わなかった煙草をもみ消し、手の中で火付け具を転がした。次を吸う気にはならなかった。
「龍眼かもしれない」
「なるほど。最後の純血だしね」
「染芙が言っていたんだ。龍眼をもらう、と」
「それはつまり結蘭の言葉というわけか」
 凍馬は窓に背を預け、腕を組んだ。
「おそらく染芙も、俺と同じように追い込まれたはずだ。俺で失敗した後だし、結蘭は相当染芙を追い詰めたんじゃないか」
「だが染芙は昔、俺や兄さんを命がけで守ってくれたんだ。そう簡単には落ちないと思うが」
「自分の擁護をするつもりはないけどね、結蘭の罠は本当に周到だったよ。そう動かざるを得ない状況に、いつの間にか陥っている。たとえ染芙でも、自分より大切なものを楯にとられたら」
「染芙の大切な、もの」
 口に出して、瞬は思い至った。
詩桜(しおう)……」
「誰。詩桜って」
「染芙の娘だ。兄さんとの間の」
 舌の上に苦味が走った。瞬は凍馬に悟られまいと、顔を逸らした。
「ああ、そう言えば前に聞いたね」
 凍馬はにこやかに言った。
「子供が危ないとなれば、母親はなんだってするだろう」
「結蘭の手が届きにくいように、詩桜が幼いときから染芙とは離れて暮らしていたんだが、無駄だったということか」
 火付け具の蓋を勢いよく閉める。金属が擦れ合う音が、頭の中でいつまでも響く。
「染芙は兄さんを殺したとも言った。龍眼も奪ったと」
「まさか」
「そう。嘘だった。梅煉に確認したら、兄さんは自殺だった」
 瞬は胸に手を当てた。そこにあるはずの龍仰鏡は、今はない。だが鏡の鼓動は確かに感じられた。それは瞬にとって亡き兄の鼓動でもあった。
 凍馬はゆっくりと息を吐き出し、小さな声で呟いた。
「わからないね」
「え」
「いや、子供を楯に取られていたなら、どうして染芙は茜さんを助けたんだろう。そんなことをして娘に何かあったら、いや、もう二度と娘に会えなくなるんだよ」
 そこまで瞬は考えたことがなかった。染芙の行動に疑問を感じたことはない。もし自分が染芙の立場でも、同じことをしたかもしれないからだ。
 だが染芙は、最後まで可能性を諦めない人だった。希望を捨てない人だった。どんなに無謀とわかっていても、全てを救おうとする人だった。
 なのになぜ、自分だけが救われたのだろう。
「罪滅ぼし、かもしれないね」
 凍馬はやや掠れた声で言った。少しして瞬は、凍馬が憚りながら言ったのだと気付いた。
「だからお兄さんを殺したと、嘘までついたのかもしれない。償う者が、相手に気負わせてはいけないからね。彼女は瞬の中にある楽しかった思い出を、全て消し去りたかったんじゃないかな」
 眉を下げて凍馬は笑う。
「あまり成功したようには思えないけどね」
「どういうことだ」
「どうもこうも、当の本人はそういうことも含めて、一切を忘れようとしてたんだから。瞬にとって染芙は、いつまでも淡い想いのまま――」
「邪推はやめろ」
「へぇ。照れてる」
「誰がだ。話が脱線してる」
 瞬は凍馬を睨みつけた。
「そんなに怖い顔するなよ。これで線は繋がったんだからさ」
「ああ。まあ、そうだな」
 新しい煙草を口に咥えて、瞬は火付け具をじっと見つめた。鼻先を夕焼けの匂いが掠めた。土の湿った手触り、馬の艶やかな毛並み、草のやわらかさ、見上げた紫の空と、明滅する星の生命、疑うことを知らない明日への希望。
 生まれて初めての、そして最後の友人は、また明日も遠駆けをしようと言って笑った。
 胸の奥にずっとあった重石が、砂の城のように消えていく。誰に背負わされたものでもない十字架をようやく下ろす。瞬は凍馬の笑顔を見上げて、癒されていく過去に別れを告げる。
 だが癒されるだけでは弔われない思いがあった。償いたい。そう思った。
「もし、例の術式の仕組みがわかったら、琉霞に使うのか」
「そのつもりだよ。俺はそれ以外のことに興味はないから」
「そうか。わかった」
 火付け具の蓋を勢いよく開ける。
「ねぇ瞬、それは俺を見逃してくれるって理解でいいのかな」
 凍馬は窓から離れ、瞬の前に立った。瞬は目を上げて凍馬を一瞥し、煙草に火を移した。
「さぁね」
「そっか。ありがとう。でも、恩に着たりはしないよ」
 そう言って凍馬は瞬の頭を小突いた。凍馬の手の感触は、昔と違って心細いものだった。
「凍馬、お前は自分を責めることはあるか」
「ないよ」
 返答に迷いはなかった。
「なぜだ」
「言っただろう。俺は後悔したことがないって。悔やむことがないのに、どうやって責めるのさ」
 凍馬の体を光が覆い始める。瞬は煙草をふかして、薄い唇に笑みを浮かべた。
「そうか。それもそうだな」