THE FATES

5.無垢(4)

 浅い眠りから覚め、久暉(ひさき)は寝転んだまま天井を見つめた。
 傷は塞がり、肉体を取り戻しはしたが、まだ万全とは言えなかった。昼間でも睡魔は容赦なく訪れ、起きている間も頭は茫洋として頼りなかった。
 額に手を乗せて、体温を確かめる。温かい。指先の冷たいところで更に触れる。ひやりと気持ちよかった。熱は次第に行き渡り、額と指の境目が縫い合わされていく。当然の感触が、久暉にはまだ信じられなかった。
 時折、ふと考える。『ここ』を離れていた間、この体はどのくらい温かかったのだろうか。冷たかったのだろうか、と。
 静かに自分の呼吸を聞く。それは、孤独の音に似ていた。
 戦いの中で、死を想像しない日はなかった。斬られる覚悟もとうに出来ていた。だが本当の死は、久暉の想像も覚悟も超えたところにあった。
 刃が突き刺さった瞬間、久暉は体が空っぽになっていく錯覚に襲われた。鋭い刃先が皮膚を裂き、肉を掻き分け、血を呑み、骨を砕いたとき、痛みよりも先に世界との隔絶を感じた。世界との繋がりを内包していた体が、解放されることで孤独になっていく。それは肉体的な痛覚を超えた、存在としての衝撃だった。
 視界は歪み、音は反響し、言葉は口の中で千切れ、駆け寄ってくる青竜(せいりゅう)の手を掴むこともままならなかった。
 赤黒い空を仰ぎ、それが最期の景色となる、そのはずだった。
 気付くと手足の自由はなく、そもそも動かせるような体がなく、がんじがらめの暗闇で懸命にもがいていた。眠ることも、休むことも、死ぬこともできない、地獄のような場所だった。
 地獄なら、全部知った気でいたのに。
 世界から切り離され、それでもなお生きていることは、孤独と無力という折檻のようで、叫びを上げることも出来ず生かされることには、無垢な世界の悪意を感じた。
 途切れても繋がっている。否、繋げられている。そこに久暉の意思が入り込む余地はない。
 肉体から解放された精神はどこまでも自由だと考えていたが、違っていた。空腹や性欲や、肉体が抱えた本能に支配されない、精神としての純粋なる存在は、確かに自由ではあった。だが、この形で享受する自由は、同時に不自由でもあった。願いも祈りも未来も仲間も、手が届かない世界にある。久暉はいつしか求めることをやめた。
 何ものも志向せず、何事も思考せず、どれだけ月日が経ったのかもわからなかった。意識から感覚という記憶が薄れ、久暉は存在しているということも忘れかけていた。
 変化は日が昇るようにゆっくりと、だが確実に訪れた。
 あるとき、音が聞こえるようになった。それは由稀(ゆうき)を呼ぶ声だった。
 あるとき、目の前に世界が広がった。それは由稀が見つめる世界だった。
 あるとき、芽生えた気持ちがあった。それは由稀の心の色だった。
 寂しさも、悔しさも、嬉しさも、由稀が感じるものは全て自分のことのように感じられた。由稀が体全体で感じ取る世界は清新で、華美なものではなかったが美しかった。久暉は由稀の見つめる世界に引き込まれ、共感した。それが久暉の世界になったのだった。
 内から眺めているだけで充分だった。だが鬼使(きし)に出会い、由稀の悲しみは増えるばかりとなった。守らなければならない、そう思った。由稀の世界が侵されることは、久暉が再び光を失うことでもあった。無茶を承知で体を支配し、戦うことを選んだ。由稀を守りたい気持ちからではあったが、久暉の独善であることは否めなかった。どんなに由稀と共鳴しても、久暉が由稀になることはできない。共感しても、共有はできない。
 久暉は由稀と対面する未来を夢見た。
 向かい合って、目を見れば、共鳴や共感では知り得ない、由稀の深層を知れる気がした。
 白く輝く神殿で、由稀は真っ直ぐすぎる眼差しで久暉を見つめた。
『俺は何も許してねえ』
 そう言った由稀の体は震えていた。自分のことのように感じられた由稀の感情も、久暉には想像するしかできなくなっていた。
 遠い。ある種の心地よさと寂しさが久暉を包み込んだ。他者であることを、突きつけられた。
 器にされたことを嘆いているなら、由稀が許す必要などなかった。恨まれて当然のことをした。許してもらおうなどとは考えていない。
 自分に、許される未来などない。
 強く深い、黒い瞳は、出会った頃の青竜を思い出させた。
『貴様に俺の何がわかる。この罪と痛みを』
 森の中で出会った青竜は、絶望に支配されて死を望みながら、それでも黒い双眸に生きる強さを湛えていた。この命を背負うなら、決して負けてはいけない。そう思った。自分が負けるときは、この男の命も終わるのだと心に言い聞かせた。どんなに弱気になっても、それを表に出すことは憚られた。自分は常に毅然としていなければいけなかった。
 久暉は胸元の傷跡をさすった。今も変わらない青竜の忠誠が、久暉には不可解だった。
 なぜだろう。自分は確実に負けたというのに。しかも彼の目の前で。
 外から馬の嘶きがした。琉霞(るか)が帰っている。久暉は寝台からおりて、外に出た。弱い光でも眩しく感じる。目の前が一瞬真っ白になって、壁に手を付いた。風はざらつき、青いにおいがした。澱みはあるが、それでも久暉には清浄に感じられた。
 裏手の厩へ回り、琉霞の姿を探すが見当たらなかった。厩には引き締まった脚をした鹿毛の馬が一頭繋がれていた。鼻の頭を撫でると、大人しくして耳を揺らした。眼差しは穏やかで慈悲に溢れている。
「主に似るのかもしれないな」
 ひとり呟いて、久暉は琉霞の顔を思い浮かべた。
 比べて自分は、仲間をまとめる人物として、主として相応しいだろうか。由稀の中で過ごした空白の日々を、埋めることはできるだろうか。時間に取り残された幼い姿で、皆の信頼を繋ぎ止めることはできるだろうか。
「あ、久暉くん」
 厩の裏から、琉霞が牧草を抱えて現れた。天水(てんすい)で牧草は貴重なものだった。琉霞は腕いっぱいの牧草を馬の足元に置き、服についたぶんも払って落とした。
「起きたんだね。おはよう」
「つい、さっき」
 絹糸のように細い彼女の髪に牧草が絡まっていた。久暉は控え目に手を伸ばし、摘まんで除いた。
「今日はね、いい食材があったの。これで久暉くんも元気になるといいね」
 琉霞は底なしに明るい笑顔で言った。久暉は顔を曇らせた。
「すまないな」
「え」
「俺たちが厄介になっているせいで、負担も大きいだろう」
「そんなことないよ」
 馬の首を撫で、琉霞は静かに微笑んだ。
「一人の食事は寂しいから。言わないで、厄介なんて」
 彼女の微笑みに、影はない。しかし久暉には却って彼女が悲しく映った。
「なら、いいんだ」
 話を合わせて、口元だけで笑みを真似る。胸の奥が引き絞られそうになった。
凍馬(とうま)は今どこに」
「わからないけど、もしかしたら瞬に会いに行ったのかも」
「なぜ」
「なぜって」
 琉霞は久暉を振り返って、不思議そうに首を傾げた。
「だって、二人は友達だから。帰ってきたら、おかえりなさいって言いに行くわ」
「しかし鬼使は――」
 言いかけたところに、強い風が吹いた。不自然な風だった。
「凍馬くん」
 嬉しげな琉霞の声の先に、淡い光が生まれた。塊は次第に大きくなり、中から凍馬が歩み出た。
「あれ、もしかして邪魔だったかな」
 一段と爽やかに笑って、凍馬は光を消し去った。久暉は眉を寄せて黙り込んだ。顔を逸らしても、頬に凍馬の視線が刺さるようだった。
「瞬に会ってきましたよ」
「元気にしてた?」
「どうかな。相変わらず不健康だからね」
「そっか。だめな子」
 伸びやかに言って、琉霞は家の中へと入っていった。久暉は琉霞の背中を見送って、彼女の情動に追いつこうとする。しかしどんな想像をしても、それは琉霞ではなかった。