THE FATES

5.無垢(5)

「姉さんのことを、思考で追っても無駄だよ」
 背後にいた凍馬が、琉霞の消えていった扉を見つめて言った。久暉は凍馬を振り返り、見上げる。幸福とは程遠い眼差しがあった。
「まるで風のような人だからね。どこまでも追いつけない」
「だが、それでも彼女なりの筋道があるのだろう。それがわかれば……」
「そんなの、あれのことが好きってだけだよ。うちの家系は、物好きだからね。あんな面倒で鈍くて暗い男のどこがいいんだか」
 凍馬は快活に笑ったが、急に声を潜めて眉を寄せた。
「ほんと、どこがいいんだろ」
 呟きはあまりに赤裸々で、久暉は相槌にすら詰まった。秘められるべき囁きを聞いてしまった気がした。強い風が髪を揺らし、凍馬の移ろうような眼差しが隠される。
「凍馬……」
「あ、いや。ごめんね。それより体は大丈夫なのか。眠る前は、随分と青い顔をしてたけど」
「大丈夫だ。迷惑をかけて悪い」
「別に。むしろ、そういうことをわざわざ言う方が、どっちかと言うと迷惑だよ」
 にこやかな微笑みに嘘は見い出せない。
「同じことを言うんだな、琉霞と」
「うちの家系は厄介が好きなんだよ」
「確かに、物好きだな」
 久暉は苦笑して首を振った。この姉弟はお人好しなどではなく、意図的に苦難へ身を置こうとしていた。まるで贖罪のように。
 久暉は鼻で笑って口を曲げた。
「だが、物好きは賢い。常識に囚われない。自由で、無限で、強いと思う」
「そうかな。随分と買い被るんだね」
「俺の周りにも物好きがたくさんいた。扱いは難しいが、どれも頭の切れる優秀な奴ばかりだ。偏りはあっても、それぞれの方向が寄り集まれば、どんな作戦だって不可能はないように思えた」
 決していい思い出ばかりではない。それでも記憶が輝いて見えるのは、全てが過去になってしまったからかもしれない。自分の中から、戦という野性が消えかけている。このまま、ここで一生が終わっても、それならそれでいいと思っている。
「確かに、君の言うとおりかもしれない。物好きは無限の力を持っている。一見ではわからないような、底力をね」
 凍馬は馬に歩み寄った。だが馬は怯えて後ずさる。凍馬は眉を下げて笑った。
「たとえば君の片腕は、とんでもない術を使った。普段の彼の力からは想像もできないような大技を」
「詳細なら俺は知らない。前にも言ったはずだ。知りたいなら慶栖(けいす)に直接聞いてくれ」
「でも、君にしかわからないこともあるんだ」
 そう言って凍馬は目を細め、風音の中で囁いた。
「そうやってずっと、何も知らないでいるつもり?」
「え」
 久暉は体を一歩後ろに引いて、凍馬の顔を見つめ返した。変わらず穏やかな笑顔を浮かべる彼の顔には、どんな表情も読み取れない。凍馬は久暉の動揺を置き去りにして続けた。
「君は何も知らなさ過ぎる。それは青竜への信頼の証かい。上に立つ者が全てを知る必要はないのかもしれない。俺にもそういう理屈は理解できるけど、君の場合はそれだけでもないんだろう」
 すぐに違うとは言い返せなかった。久暉は黙って凍馬を睨みつけた。凍馬は取り合わずにゆっくりと首を振った。
「君は知りたくないんだ。真実なんて、希望なんて、未来なんて。その体から離れたときに、君の魂は、君の拠るべき志は、折れて死んでしまったんだろう」
 やわらかい微笑みの中の、麦色の瞳だけが冷たい。心の奥が見透かされていく。久暉は負けまいとして空色の瞳に力を込めた。
 吸う息がざらつく。灰色の空は深みを増して鈍った。
「もう、君の中では全て終わってしまったんじゃないのか」
 風が、行く手を失い立ち消えた。
 久暉は目を瞠って立ち尽くした。凍馬は愉しげに続ける。
「そうじゃなきゃ、おかしいんだ。そうだろう。君は青竜に聞きたいことが山ほどあるはずだ。主従の絆を守るためにも、知らなければいけないことが」
「なぜ、お前にそのようなことを言われなければならない」
 声を振り絞って久暉は掠れた声で言った。凍馬はその問いを予想していたのか、嬉しそうに指を鳴らした。
「いいね、そういう意地の張り方。嫌いじゃないよ」
「質問に答えろ」
「つまり図星なわけ――」
 凍馬が全て言い切る前に、久暉の腕が凍馬に伸びた。久暉は胸倉を掴み上げ、厩の壁へ勢いよく押し付けた。
「答えろと言っている」
「動き、早いんだね。驚いた」
 久暉が睨み上げると、凍馬は諦めた様子で両手を上げた。
「だって君は見ていたんだろう。由稀くんの中から、竜族が滅び行くのを」
「妄想で話してもらっては困る」
 口元に乾いた笑みを浮かべて久暉は言った。凍馬は息苦しさなど感じさせない、平然とした眼差しで久暉を見下ろす。
「嘘をつくなら、もっと上手につきなよ」
「なんだと」
「それにこれは妄想じゃないよ。あのとき、君が由稀くんの体を支配して鬼使と対峙したとき、あいつは君の中に滅び行く街を見ている。奴の観想結界は、悔しいけどかなりのものだ。見間違いなんていう可能性は低い。事実なら、竜族のこととしか考えられない。ねぇ、どうして由稀くんに教えなかったの。あそこまで彼を支配できるなら、彼に自分の見聞きしたことを告げるなんて容易かったろうに。罪悪感や愛着があるなら、多少無理をしてでも話すべきだったんだ」
「由稀の体を支配すれば、由稀の魂に負荷がかかる。それを避けたかった」
「あれだけ派手にやっておいて、よく言うね。まぁいいや」
 久暉を見下ろす凍馬の肌に赤みが差した。
「結構、苦しいんだよね、これ」
 凍馬は久暉の腕を指差し、力なく笑った。久暉は不承ながら手を離した。
「死人が息苦しいとは、おかしな話だ」
「俺も、そう思うよ」
 よれた服を整え、凍馬は朗らかに笑った。久暉は返す言葉を奪われた。
「ねぇ君はさ、一体どうしたいの」
「どう、とは」
「自分の志のために死にたいの。それとも、あの片腕のために生きたいの」
 真っ直ぐ見つめられ、久暉は思わず目を逸らした。足元からは輪郭の曖昧な影が伸びる。
 長く、自分の意志など考えたことがなかった。仲間のため、由稀のため、そればかりを考えてきた。いざ心と向き合ってみても、この影のように輪郭の滲んだ弱々しい揺らめきがあるだけだった。
 凍馬は久暉の肩に手を乗せた。
「死ぬなら潔く片腕を連れて逝くがいい。でも生きることを選ぶなら、君は由稀くんの中で眠っていた時間を取り戻すべきだ。知っている事実だって、もう一度君の目で、耳で、感情で判断するんだ」
 微笑みはないが、肩に伝わる掌は温かかった。
「変な男だ。お前は」
 ため息と共に呟いて、久暉は静かに凍馬の手を払った。
「術式のことが知りたいだけではないのか」
「人の心の奥の奥をつい覗いてしまう、悪い癖があってね」
「それは癖とは言わんだろう」
 久暉は苦笑して凍馬を見上げた。凍馬は他人事のように肩を竦めた。
「物好きだから、ね」
 黒髪を彩る鮮やかな綾紐が、風に揺れて笑った。