THE FATES

5.無垢(6)

 天水(てんすい)の鈍い夜明けを眺め、久暉(ひさき)由稀(ゆうき)の中から見た銀世界を思い出していた。陽光を受けて輝く朝は、刺さるような冷たい空気と相まって鋭敏で、毎日が真新しいものに感じられた。それに比べて、天水の夜明けは変化がなく鈍重であった。
 寝台からおりて、靴紐を結ぶ。片方を終えて、ため息が漏れ出た。
 眠れない夜が続いていた。
『自分の志のために死にたいの。それとも、あの片腕のために生きたいの』
 凍馬(とうま)に言われた言葉が、頭から消えない。紐を結ぶ手がとまった。
『もう、君の中では全て終わってしまったんじゃないのか』
 すぐに否定しきれない自分がいて、凍馬にはそれすら見透かされているようだった。何を言っても言い訳に思えた。
『そうやってずっと、何も知らないでいるつもり?』
 揺さぶられた。たった一言で、術中に嵌まった。
 自分で全てを知る必要は、久暉も感じていなかった。むしろ有害だとも考えていた。仲間に任せることで、組織としての纏まりが生まれた。わざわざ聞き出さずとも、伝わるものがあった。しかしそれは、皆とずっと同じ時を過ごせたからこそ出来たことだ。
 由稀の中に隔離されていた十五年余りは、久暉にとって大きな溝となっていた。
 今の久暉には、青竜(せいりゅう)の意図も、仲間の気持ちも、何もわからなかった。考えれば考えるほど久暉自身の希望で歪んだ。
 紐を結び、踵を打ち鳴らす。目にかかる髪をかき上げ、久暉は勢いよく立ち上がった。外に出て、腕を高く上げて体を伸ばす。灰色の空はまだ濃い。青天の瞳を、鈍い決意が行き来した。
 青竜に尋ねることの、返ってくる答えへの恐れが拭いきれなかった。
 後方の部屋を振り返る。隙間からは炎の影がちらついた。久暉は歩み寄って、入り口の垂れ幕を上げた。
 部屋の隅で青竜が片膝を抱えて座っていた。眠っているのか、久暉に気付く様子はない。炎が風に揺れて、青竜の顔が見え隠れする。久暉は幕を下ろして部屋に入った。中央には煉瓦が組まれ、赤々と燃えている。炎を挟んで青竜の向かいに座った。敷かれた絨毯の下には、やわらかい感触があった。端をめくると牧草が敷き詰められており、その下には黒い土があった。時折隙間風が入るが、中は動物の乳の匂いが充満していた。
 久暉は青竜と同じ体勢を取って、じっと寝顔を見つめた。昔に比べて輪郭は尖り、唇の色も濁っていた。手の甲には血管が浮き出て、爪は乾いて艶もない。久暉は自分の手を炎に翳し、子供のように小さな影に嫌気が差した。青竜の手もこんな時があったはずだ。それを今のようにしたのは自分だ。彼に背負わせたものの多さに、久暉はあらためて愕然とした。
 眠っている青竜には、起きているときの冷たさも激しさもない。明日の光を疑わない、穏やかな寝顔だった。思えば久暉は青竜の寝顔をほとんど見たことがなかった。この穏やかさが起きてからも続く、そんな日がいつか来るだろうか。
 薪が爆ぜる。脚を抱える青竜の指先が震えた。
 いつか、ではない。夢見る未来が今でもいいのだ。
慶栖(けいす)
 掠れた声で呼びかけると、手が小さく動いた。
 すでに失われたはずの命、元の道に戻るだけが全てではない。生まれ変わって、違う道を歩いたっていいはずだ。久暉は答えを青竜に賭けた。もし彼が久暉の未来に気付いたなら、躊躇う理由は立ち消える。
 おもむろに瞼が開き、黒い闇の眼差しが覗く。視線は炎の揺らめきを追う。青竜は赤く千切れる炎の穂先に、人影を見とめた。
「久暉様……」
 顔をあげ、身を乗り出す。目覚めて、眉間には深い皺が刻まれた。
「申し訳ありません、気付きませんで。起こしてくださればいいのに」
「いや、よく寝ていたからな。起こすのが憚られた」
「そうでしたか」
 青竜は外していた釦を留めて襟元を整えた。両手でざっくりと髪をかき上げると、たちまち寝顔の面影はなくなった。青竜は今もまだ戦いの世界に生きている。久暉の未来は儚く断たれた。
「お前も眠るんだな。意外だった」
「私を化け物か何かとお思いですか」
 喉で笑って青竜は立ち上がる。
「何か飲み物を貰って来ましょう」
 返事を待たずに出て行こうとするので、久暉は強く手を引いた。
「頼んでいない」
「ああ、それもそうですね」
 口元に薄い笑みを浮かべて、青竜は久暉のそばに座った。
「どうされたのです。このような時間から私をお訪ねになるんですから、何かあったのでしょう。まさか私の寝顔を盗み見しに来たわけでもないでしょうし」
 青竜は早口にまくしたてて、言い終わると決して視線を合わせようとしなかった。久暉は青竜の横顔を穴が開くほど睨みつけた。頬に緊張が見られる。
「何を慌てている」
「いえ、決してそのような」
 軽やかに笑おうとするが、目が沈んで笑っていない。青竜は乾いた唇を軽く舐めて引き結んだ。
「白状、しましょうか」
「是非してもらおう」
 久暉が腕を組んで顎を逸らすと、青竜は一つ息をついた。
「夢を、見たんですよ。また、あなたを喪いかける夢を」
 伏し目がちになって青竜は炎の中心を見つめた。
「しかも気付くと、私があなたの背に剣を突き立てていた」
 燃え盛る中央は色を失っては高まり、震えるほどに濃く混ざった。
「吐き気がしました。内臓が全て抜け落ちるのではと思うほど体に力が入らない。自分の感触や感情であるにもかかわらず、どれも自分の意識からはとても乖離したところにあった。自分が立っている足元すら覚束なくなり、私は強い恐怖を覚えました。けれど同時に、妙な心地よさも感じていました。酒を飲んだときの高揚感にも似た、あの種の快さです」
 青竜は顔色一つ変えずに話した。久暉にはそれが怖かった。暗い炎は青竜の顔に濃く深い陰を描く。尖った顔が、より際立った。
「すぐに剣を抜き、止血を試みました。けれどあなたの血は溢れるばかりで、一向にとまる気配はない。やがて大地に川がうまれ、広がり、深まり、私たちは大河に呑みこまれた」
「川の水は俺の血だろう。赤いのか」
「いいえ。とても澄んだ清流でした。それに水の中だというのに息苦しくはないんです。あなたの傷口もみるみる塞がっていって、そこで目が覚めた。悪い夢だったと気付いて顔を上げると、目の前にあなたがいたのです。一瞬、夢の続きかと思いました」
「そう、か……」
 絨毯に胡座をかき、久暉は背中を丸くした。前髪が炎の風に煽られる。肌に押し当てられた熱は、綿のようにやわらかく、水飴のように粘っていた。
 夢はただの夢でしかない。だが久暉は青竜が見た夢に、彼の苦悩を垣間見た。苦しみもがいていたのは自分だけではない。残され、待っていた側の孤独を久暉は知らない。
 過ぎ去った孤独の傷を舐めあうことは無意味だ。自分たちには語り合った理想が、目指すべき未来があった。それらは今もなお久暉の中で輝いてはいるが、標本のように過去の輝きを針で固定されているようでもあった。再び歩み出すために、久暉は青竜の共犯になる必要があった。
「慶栖、それはお前の達成感か。それとも罪悪感か」
「と、言いますと」
 青竜は思考を伴わずに説明を求めた。思惑のない素直な声だった。久暉は猫背のまま青竜を一瞥して、肩で息をついた。
「どうしてこんなことをした」
「こんなこと、ですか」
「なぜ天地(あまつち)の杖を使ってまでして、俺の命を繋いだ」