THE FATES

5.無垢(8)

 隙間から染みる風は、少し冷たい。久暉(ひさき)は力を抜いて青竜(せいりゅう)の腹の上に座り込んだ。
「なぜ、そこまで俺を過信する」
 問いは懇願に近かった。
「お前には関係のない話だろう。斎園(さいえん)のことなんて、竜族のお前には……」
 青竜が半身を起こしたので、久暉は続きを飲み込む。真っ直ぐ見つめてくる青竜の瞳は、悲しげに揺れていた。
「視野が狭い振りをして、私を失望させないで」
「お前の望みなど」
「あなたは絶望を希望に変えられる人だ」
「まさか」
 久暉は鼻で笑った。しかし青竜の真剣さは動じない。
「悲しいことに、どんなに美しい空の下であっても、人は争うことをやめないのです。そう、まるで摂理のように、本能のように、戦争を繰り返す」
 青竜が久暉に出会う前、竜族は俗界と戦争を繰り返していた。一時はアルス大陸の東側を切り取ったが、海を越えての遠征は竜族の屈強な兵士でもつらいものだった。国力は次第に衰え、王は進むべき道を見失った。
「狂ったように、何度も同じ罪を犯すのです」
 それは人の歴史における伝染病のようなものだった。理由もきっかけもそれぞれにあったが、そこにどれだけの必然性があったかなど、誰にも判断できない。
「過信などではありません」
 青竜は明瞭に言い放った。
「私たちは勝ってきた。勝つことで未来へと光を紡いだ。そして私は、あなたが起こした数々の奇跡を見てきた。不可能が現実に変わる瞬間を、この目に焼き付けてきたのです。断じて過信などではありません。言わせないでください。これは確かなものに裏打ちされた信頼です。久暉様、あなたは最後の勝者になるのです」
 口振りは終始落ち着いていた。だが端々に青竜の昂りの飛沫が見えた。
「あなたになら、変えられる」
「だったら慶栖(けいす)、確からしさなんてどこにある。どんな世界に行けば見つかる。戦いの中で、絶対なんてものはない。奇跡などと軽々しく口にするな。お前は知っているだろう。俺が今までどれだけ多くの仲間を守りきれなかったか。死なせてきたか」
 目を閉じると、戦いの中で散っていった仲間の顔が思い出される。せめて青天のもとへ連れていってやりたかった。せめて故郷の家族に会わせてやりたかった。せめて亡骸を弔ってやりたかった。荒廃した斎園の大地に呑まれていくことを、久暉は不憫に思った。
「皇室を潰そうと決意した気持ちに嘘はない。皇子として中にいたからこそ、奴らの腐敗も矜持のなさも知っている。このままではいけないと強く感じている」
「でしたら、何の問題がありますか」
「悪を壊すために犯していい罪などない」
「戦って繋いだ平和は偽りと、そう仰るのですか。そんな陳腐な正義、闇を知らない子供の寝言ですよ」
「なぜだ。それでは竜族と同じではないか。民が疲弊するまで戦い続けた竜王と、無知を振りかざして皆を巻き込んだ俺に、一体どんな差がある。同じだ。人の人生を身勝手に捻じ曲げて、何が正義か。そうだろう!」
 声を荒げて久暉は青竜の胸を叩いた。
「戦いだけが手段ではないはずだ。他にも道があるはずだ。斎園の民を、皇室の圧政と呪われた大地から解放する手立てが」
「では、話し合いでもするつもりですか」
 久暉を見上げる青竜の目には、冷笑が滲んでいた。
「それは――」
「そんなことは無駄だと、あなたが一番わかっているくせに」
 久暉には返す言葉がなかった。
「我々が見た夢は、そんな砂糖菓子のようなものではなかったはずですよ」
 深いため息を洩らし、青竜は眉を寄せた。
「散っていった命に心を痛めるのは、あなたの優しさです。その優しさが皆を惹きつけるのですから、私に否定は出来ません。ですが優しさは同時に弱さでもあるんですよ」
「よわさ……」
「全ての弱さを排除することはできません。ですが、目に余るあなたの優しさは、私が斬り捨てる」
「慶栖」
「あなたは私に言った。この世界は勝つか負けるかだ、と」
『まずは俺を負かしてみろ』
「命を預ければ世界は自分たちのものになる、と」
『そうすればこの世界、お前のものだ』
 青竜は久暉の腕を掴み、激しく揺らした。
「私は見たいのです。あなたのものになった世界を。あなたが描く斎園を、竜樹を、未来を、この目で!」
 魂を削るような懇願に、久暉は胸を打たれた。出会った頃から変わらない、強く真っ直ぐな瞳に、久暉は手加減を忘れた。
「だから、竜族への罪も許されると言うのか」
 空色の瞳が一層冴えた。青竜は一瞬怯んで詰まったが、顎を引いて堪えた。
「そうです」
「本気で言っているのか」
「当然です」
 青竜の声には一片の迷いも感じられなかった。
「新世界の礎として、彼らの命は無駄にはならない」
「お前は間違っている、慶栖。そんなふうに世界を手に入れても、誰も認めてくれない。憎しみを繋いではいけない。でないと、次には俺たちが標的になるだけだ。それでは何も変わらない。繰り返してしまう。お前には、なぜそれがわからない」
「方法なんて、結果が得られればそれでいいじゃないですか。我々にはもう、選んでいる時間も、選べるような選択肢も残されていないんですから」
 青竜は吐き捨てるように言って、久暉の腕から手を離した。
 無邪気に正しさを求めているわけではなかった。久暉自身、青竜の意見もよくわかっていた。だが求めることを放棄してしまうと、踏み越えてきた全てに申し訳が立たない。せめて、迷い続けるだけでもしたいのだ。
「では、どうすればいいのです」
「それは……。それは、より多くの正しさを求めるしか」
「正しさなんて、救いにならない」
 強い風に垂れ幕がめくれた。背後からの弱い光を受けて、青竜の尖った鼻に陰が落ちる。長く伸びた前髪の隙間から、ぎろりと目が動いた。
「私にとってはあなたの存在こそが正しさなんです。あなたが求める正しさなんて、取るに足りない。むしろ邪魔なだけ。だというのに、私の正義はあなたの不義。あなたの正義は、私の不義」
 伏し目がちになって、青竜は笑った。
「なんて皮肉な話でしょうね」
 厚手の幕が、煽られて大きな音を立てる。
「気が咎めるなら、全て私に押し付ければいい。絶たれた命への贖罪は、私が負いましょう。何も言わず、私に任せてくださればいいのです。あなたを苦しめる瑣末なことは、何もかも私が取り除きます」
 青竜は魂を削り、言葉を繋げる。肉体も精神も生命も、存在するために必要な何もかもを、すり減らしながら生きている。
 何のため。たった一人、久暉のためだけに。
 たとえ世界中の誰もが久暉を非難したとしても、青竜だけは存在の全てをかけて久暉を擁護するだろう。久暉にはそれが考えるより早く感じられた。だが彼がなぜそこまでするかが理解できない。何が青竜をそこまでさせるのか。