THE FATES

5.無垢(9)

 久暉は頭を抱えて体を丸めた。
「俺に何を求めているんだ」
「え……」
「俺のためにお前が罪を背負うことはない。俺はそんな、世界を手に入れるなんて大それたこと、最初は、考えてなど……」
 久暉は小さく首を振った。心が喘いでいた。今の久暉には、世界を手に入れると豪語したことが、遠く感じられた。
「何を言うんですか、久暉様。背負わせてください、この青卑竜慶栖に」
「俺はただ、少しでも明るい世界に行きたかった。母が言った、神に愛されし世界を見てみたかった。清い風を、澄んだ水を、肥えた土を、輝く命を」
 綻びだした心はひどく脆かった。久暉は青竜の上から飛びのき、後ずさった。人の温もりが怖い。いつか失われるものと思うと、いま伝わる心地すら疑わしくなった。もうすでにこの感触はなく、記憶に惑わされているのではと不安になった。
「なぜ、そうまでする。なぜそこまで俺に」
 炎のそばは、呼吸が苦しい。久暉は肩で息をした。
 青竜は体を起こし、地面に片膝をついた。握り締めた拳で心臓を一つ叩く。
「あなたに、夢を見ているからですよ」
 風がおさまり、舞い込んでいた細かな光は再び閉め出された。
「あの森で、私はすでに死んだのです。私のためだけの生は終わっているのです。あとは、あなたのためだけに使われる命。それが私の我儘、そう、我儘なんですよ。あなたのためなんかじゃない。お願いですから、私のために私を使って」
 青竜は何度も胸を叩いた。重い音が響くたび、久暉は胸を掻き毟られる思いがした。幼さとは、無垢とは、何と罪なことだろう。安易な気持ちで人の命を背負った。そうしなければ絶たれていたかもしれない命であったとしても、浅はかで薄っぺらな正義感など、暴力よりもたちが悪い。夢をばら撒いた代償は、思いのほか大きかった。
 部屋に染み付いた乳のにおいが、現実に薄い膜を作る。久暉は呆然として青竜を見下ろした。青竜は拳を久暉に差しだし、掌をひらいた。
「私を使ってください。何度言えば伝わりますか。確かに最初は、小さな子供のささやかな願いだったかもしれない。ですがそれはきっかけにすぎない。あなたは行動を起こしていく中で、自分だけの願いを皆のものとした。苦しみ喘ぐ民の希望になった。未来を夢見ることを教えたのです。そんなこと、誰にでもできることではありません。あなたにはその資質があった。相応の神格があった。あなたにとって世界を見据えることは、決して大それたことなどではありません。あなたにならできる。そしてその覇業、私にも手伝わせてください」
 手を取れば、温もりがあることは知っている。乾いていて、触れると少し痛い心がそこにある。孤独に疲れた久暉の魂は、青竜の手を切に求めていた。だが久暉は流されることを怖れた。
『自分の志のために死にたいの。それとも、あの片腕のために生きたいの』
 なぜ、生きるか死ぬかしか選べない。
「あなたが命ずれば、私は鬼にも悪魔にもなれるのです」
 青竜に迷いはない。だからこそ、この手を取ればもう戻ることは出来ない。
 今からでは、この世界で静かに暮らすことすら願えないのか。
「それは、俺にとっての鬼や悪魔にもなるということか」
 小さな歯を覗かせて久暉は嘲笑を浮かべた。肩の震えをとめようとするが、ひどくなるだけだった。
「それは……」
 青竜は久暉の引き攣った顔を見て、息を呑んだ。これまで久暉の苦悩や悔恨をいくつも見てきた。だが、こんなにも剥き出しの歪みに向き合ったことは、いまだかつてなかった。
「久暉様」
 久暉は顔を背け、垂れ幕の隙間から空を睨みつけていた。
 歪みの根源を探そうとして、青竜は過去の自分を不意に思い出した。杖を奪って飛び出した。森は深く、道だけでなく自分をも見失った。全てを終わらせようと、杖を握り締めた。
 あの日の自分と、目の前にいる久暉が、なぜか似ている気がする。
 あらためて考えれば、似ても似つかない。強さも優しさも痛みも、青竜では敵わない。だが、直観が消えない。
「私を恨んでおいでなのですか」
 言葉がなめらかに滑り落ちていく。思考を超えて知った歪みの根源に、青竜は愕然とする。
「竜族のこととは無関係に、あなたは……」
 世界への憎しみが、自分への苛立ちに変わり、やがて世界に対する絶望と諦めになる。その瞬間を青竜もかつて感じたことがあった。
「あなたは、死ぬつもりだったんですか」
 久暉の頬が凍った。青竜は不躾に口にしたことを後悔した。
 空に広がる灰色の雲は、徐々に白みを帯びていく。夜が明けていく。一日の中で最も日の光を感じるときだった。久暉は胸元の刻印に、服の上から爪を立てた。
 ずっと、光を求めて戦ってきた。広い世界を望んでいた。だが久暉は知ってしまった。光は求めるものではなく、本来ただそこにあるものだと。
 久暉は垂れ幕を跳ね上げて外に飛び出した。なんでもいい。縋りつけるものがほしかった。風に途切れる嘶きに誘われ、久暉は厩へ向かった。
 強い風に、厩がぎしぎしと鳴っていた。小さな柵が揺られて音を立てている。足元では砂が軋み、草を食む馬は時折鼻を鳴らした。
 光に満ちた世界では決してない。光の枯渇した世界だ。だが、ここには確かに生活があった。掠れた絆であっても、確かに世界と繋がっている生活があった。
「俺は、ただ」
 堅牢な石造りの部屋で、母と侍女とで過ごしていた。幼い久暉には未来を望むことも憂うことも実感できなかった。だが漠然と、この毎日が続けばいいと思っていた。やがて母が死に、侍女が母の遺髪を握らせ逃がしてくれた。あなたは染まってはいけない。この空の色になってはいけない。
 光のもとへ。
 そう言って背中を押した荒れた手は、同じ手で部屋に油を撒いて火をつけた。
「ただ、普通に」
 馬に寄り添い、頬をあてた。うっすら汗ばんだ毛並みの下から、温もりが立ちのぼる。生きているという確からしさが伝わってくる。
 そうだ。これが、光だ。
「久暉様!」
 背後からの声に、馬が耳を動かした。
「久暉様、本当に私を恨んでおいでなら、私を責めてください。罵って、蔑んでください。それであなたの心が救われるなんて、そんな思い上がりはしませんから。お願いです、久暉様。あなたは悪くないのです。全て私がしたこと。どうか私を責めて」
 声を聞くだけで、懇願する青竜の顔が思い浮かんだ。彼をこのまま放っておくことはできない。光への足を断ち切るなら、青竜を殺してやらねばならない。
「全て諦めることも視野に入れろ。俺は、負けたのだ」
 久暉は鬣を撫でて、馬の瞳を見つめた。
「お前も見ていただろう」
「ですが……」
 言いよどむ青竜を肩越しに見遣って、久暉は馬の背に跨った。鬣を握ると、馬は前足を軽く鳴らした。
「今更お前を責めても詮無いこと。もう、終わったんだ。忘れるんだ、全て」
「それは命令ですか! あなたは本心からそう願っておいでなのですか」
「預かっていたお前の命も返そう。受け取れ」
 久暉は物を投げる素振りをし、馬の腹を軽く蹴った。
「久暉様」
 青竜は横を通り抜けていく馬上の主を見上げた。空色の眼差しは真っ直ぐ前を向いている。それはあまりにも真っ直ぐすぎて、見る者が恥ずかしくなるほどだった。青竜は顔を逸らして俯いた。
「厭世でも、疲弊でも、慈悲でも、陶酔でもなく、本当に、心からですか」
「慶栖」
 呼びかけに、青竜は顔を上げる。幼いままの久暉の背中を見つめ、返事すらできない。
 馬上で久暉が振り返る。弱々しい朝の光の中で久暉の空色の髪は、神々しく濡れて見えた。青竜は、全て諦めるという言葉の意味を感じ取った。
 久暉は小さな笑みを浮かべた。
「俺も、死んだのかもしれない」
 全て。それは久暉の命を諦めるということ。
 青竜は走り去っていく馬の姿が、地平に霞んで見えなくなるまで、その場に立ち尽くした。