THE FATES

5.無垢(11)

 スウィッグの整備を待ち、(こう)梅詩亭(ばいしてい)へ向かった。(まこと)の店とは目と鼻の先だった。地下へ続く階段にスウィッグをとめる。鍵を抜き、腰から下げた鞄に入れようとして、紅は動きをとめた。金具を外して鞄を開く。中には財布と煙草入れと、七色に煌く六角柱の水晶があった。紅は見ない振りをして、鍵を放り込んだ。
 梅詩亭の看板はまだ出されていない。階段の両脇に置かれた角灯に、明かりはない。紅は、ささやかな光すらない薄暗い階段をゆっくりと下りた。濃灰色の壁が暗がりに後押しされて迫ってくる。爪先から垂れ流した影は、階段に染み込み淡くなる。闇と、馴れ合うようだった。
 研究所がないと知ったとき、帰る場所を失って途方に暮れた。城へ帰れと言われても、そこに自分の居場所はない。向けられる笑顔は敵意と嫌悪ばかりだ。研究所だけが唯一自分でいられる場所だったのだ。だが、紅が抱えた寂寥感は、それだけではなかった。
 眼鏡の端に光が射した。振り返ると、子供らがからになった壜で空を覗いていた。幼い頃、紅も同じことをした。濃い青の壜で覗けば、空は青く揺れる。少年らは順番を競い、空を仰いだ。
『幸せなんて、そんな感情はないんだ』
 紅はかつて菱乃(ひしの)に向けた言葉を思い出した。研究室にただ一つの小さな窓からは、夕天橋と工場区の建物が見えた。
『だからお前にも組み込んでないし』
『夢見ることも許されないわけですね』
 背後で菱乃の忍び笑いがした。紅にはなぜそこで笑えるのか理解できなかった。怪訝に思い振り返ると、菱乃は服を着て実験機器を片付けていた。
『私は成長型の擬似知能ですよ。あなたの設計が私の全てだなんて、そんな思い上がりは止して下さいね』
『じゃあ、どうして今笑ったのか説明してみろ』
 紅が菱乃を睨みつけると、彼女は手をとめて髪を耳にかけた。
『それは、この空に漣が寄せ返したなら教えて差し上げますよ』
 優雅に見える微笑みも、見慣れれば規則的で冷たい。だが、氷漬けにした花のようにいつまでも美しかった。それは彼女が機械である美点だった。彼女だけは何があっても揺らがない。縋らない。裏切らない。
 子供らが高い声で笑いあいながら、駆けていく。道には青い壜が残された。
 紅は鞄の膨らみに手をかけた。水晶の輝きは、紅に彼女の微笑みを彷彿とさせた。煌びやかに華やかに咲くことも出来るというのに、彼女は静かに冷ややかに、ただじっと座して世界を見つめている。
 鞄の中に手を滑り込ませる。指先に届くなめらかな質感が、紅の背中を這い上がる。確かにここに菱乃がいる。紅はそう感じた。触れ合った場所から、菱乃の眼差しが感じられた。見つめられている。彼女の視界の中にいる。紅はただそれだけで、全ての苦しみから解き放たれる心地がした。何も失ってはいないという思いが、紅の心を平らかにした。
 (あかね)が亡くなった今、研究所など必要ない。むしろ役目を終えて気持ちがいい。彼女さえ、菱乃さえいてくれたら、紅にはそれでよかったのだ。
『彼女、突然来て、言ったんだ。心柱を抜いてほしいって』
 真の言葉が気にかかった。心柱を抜くということは、人に置き換えれば仮死に近い。生きながら死んでいる状態だ。
 菱乃は成長型の擬似知能ではあるが、心柱に関する判断は許可していなかった。つまり、禁止事項より上位の命令が菱乃に働いたことになる。紅は水晶から手を離し、再び階段を下り始めた。
 ただ一つ、思い当たる命令があった。
『じゃあ今日からは、漣の空に関する事項は最上位命令だ』
 戯れに言った言葉を、菱乃は真に受けたのだろう。彼女にとって責任者である紅の言葉は絶対だ。菱乃は漣の空に関する情報を得て、それを守るために心柱を真に預けた。彼女は自分が廃棄されることも知っていたのだ。
 心柱には菱乃の頭脳が、精神が、魂が刻まれている。これさえあれば、彼女の思考や記憶を引き出し、再構築することも可能だ。しかしそのためには、研究所にあった高度な知能回路が必要になった。城になら相応の設備はあるが、央宮(なかみや)がそうそう許可を出すとは思えない。陣矢(じんや)に手間をかけさせたくはなかった。
 紅は深いため息をついた。
 瞬の部屋にある知能なら、性能的に不足はない。紅は使ったことはないが、由稀(ゆうき)らが使うのをいつも横から見ていた。柔軟で正確で、丁寧なつくりをしている。悔しいが、瞬が作った知能回路は今まで見たどれよりも優れていた。
 なぜ、彼はいつも先にいるのか。なぜ、いつも目の前に立ち塞がる。
『人格だ人生だと喚く前に、自分で生き方決めてみろ』
 何も知らないくせにとは言えなかった。誰のせいと責める気も殺がれるほど、瞬は追い詰められていた。どんな風に責め立てても、手応えがない。救われることもない。紅は温め続けた憎悪を持て余した。今のままでは、この苦しみのひと欠片すら報われない。
 もし、自分がごく普通の家に生まれていたなら。王家でもない、龍羅飛(りゅうらひ)でもない、仲のいい両親と兄弟がいて、家族揃って食事をするような家に生まれていたなら。紅は自由に未来に夢を見て、気侭に好き嫌いを口にして、たまには両親に感謝したりしたのだろうか。たとえば真の息子のように、明るく健やかになっていただろうか。確かに少しは夢など持ったかもしれない。気まぐれに親に贈り物などしたかもしれない。だがそれは紅が知る自分ではなかった。
 ずっと、自分の境遇を恨んできた。なぜ自分ばかりが不幸なのかと嘆いてきた。だがいざ違う自分を想像してみると、そこに違和感を覚えた。それでは自分を証明できない。そんな安易な幸福では足りない。
 瞬に勝たねばならない。彼を越えなければ、未来に光など見つけられそうにない。否、未来すら掴めない。
 しかし一体何をすれば彼に勝ったことになるのか。
鬼使(きし)・瞬。それが彼の異名です』
 陣矢の言葉を思い出す。これまでにも何度か聞いたことのある名だった。
 思えば自分は、瞬のことを何も知らない。憎しみばかりが先走って、彼を正面から見ようともしてこなかった。
 ただ恨み言を繰り返すだけでは、何も変えられない。
 階段を下りきって、扉に手をかける。凛とした鈴の音が響いた。
「おや、おはよう」
 厨房に立つ梅煉(ばいれん)がそう言って顔を上げた。紅は扉を閉めて眼鏡を外した。
「おはよ。あれ、由稀は」
「まだ来てないよ。一緒じゃなかったのかい」
 大きな鍋がぐつぐつと音を立てている。素朴で優しい香りがする。
「用事あったから俺だけスウィッグで」
 いつものように卓に座ろうとしたが、ふと厨房に接した長卓の席にかけた。いつもは瞬が座っている場所だ。鞄から煙草入れを取り出しつつ、店の中を見渡す。椅子が高いので、景色が違って見えた。
「どうする。先に紅の分だけ作ろうか」
「ううん。あいつら待つよ」
 微かに笑って答える紅を見て、梅煉は目を丸くした。
「どうしたのさ。今日は随分とご機嫌なんだね」
「そう、かな」
「そうさ。いつもなら、なんにも言わずにぶすっとして、煙草吸ってるだけだもんね」
「別に。喋ることもねえし」
 紅は手に持った煙草入れを開けずに、そのまま置いた。
 梅煉は丸い肩を揺らして野菜を切っていた。器用にまとめられた豊かな黒髪も、はっきりとした目鼻立ちも、年齢を感じさせる頬の笑い皺も、そのどれもが紅をひどく安心させた。紅はなぜ瞬がこの席に座るのか、わかった気がした。