THE FATES

5.無垢(12)

「なあ、梅煉はさ、あいつのこと昔から知ってるんだろ」
「あいつって?」
 梅煉は顔を上げずに言った。声が笑っている。
「あいつは、あいつだよ。瞬だよ」
 紅は視線を逸らした。初めて口にした父の名は、ひどく苦いものだった。梅煉は包丁を置いて、手を拭った。
「知ってるよ」
 料理の仕込みは終わったのか、梅煉は前掛けの紐を解き、軽く首を回した。
「今の紅より少し幼いくらいから。とは言っても、純血だから外見と実際の年齢には差があるけどね」
「じゃあさ、鬼使・瞬っていうの、わかるか」
「それ、か」
 梅煉は呟いて、小さく笑った。困らせたのだと紅はすぐに悟った。
「いや、別に無理に話さなくてもいいんだけど。大した話じゃないし」
「嘘おっしゃい。紅がどうでもいい話を、そんな切羽詰った顔でするわけないだろ。私を言いくるめようなんて、百年早いよ」
「相手を困らせてまでする話なんて、俺にはねえよ」
「どうしたんだい。今日はいい子すぎて心配だよ」
 竈に小さな鍋を置いて、そこに白い液体を注ぐ。隣から火を移して、梅煉は軽く息を吹いた。
「いい子、か」
 紅は頬杖をついて、ぼんやりと壁を見つめていた。
「茜といる時は、いつもこんなだったよ、俺」
「それは意外だね。茜さんは子供にいい子を強要する人ではなかったろうに」
「強要なんて。俺が、選んだんだよ。茜に迷惑かけたくなかったから。俺はさ、いるだけで、迷惑かけてたから」
「そんなこと……」
 ないと言い切るには、紅が置かれた境遇は複雑すぎた。
 天水王家と龍羅飛の溝は深い。更に鬼使が天水に与えた影響はあまりにも大きい。その深く大きな溝に渡された橋は、どんなものより頑丈でなければならない。だが実際は一人のただの少年で、孤独や不信で押し潰されそうになっている。希望も期待も、大きいだけでは足枷に過ぎない。
 小鍋の縁に小さな泡が浮いた。梅煉は軽く鍋を揺すった。
「確かに茜さんは、他の人よりたくさんのことを考えて行動せざるを得なかったかもしれない。でもそれは迷惑なんかじゃないんだよ」
 白い波紋が鍋の中で行き来する。
「あの人はそれすら望んであんたを産んだに違いないんだから。生まれてくる子に、どんな災難が降りかかるかわからない。でも、そんなことを心配してもきりがない。だったら子供に降りかかる灰は全て払いのける。そしてどんな悪意にも染まらず、どんな苦境にも負けない男に育て上げる。それが茜さんの幸せで、生き甲斐で、夢だったんじゃないかな」
 紅の前で茜のことを一人の母として語るのは、梅煉が初めてだった。紅は虚を突かれて返答に困った。
 茜の幸せ。茜の生き甲斐。茜の夢。
 それはずっと、紅では叶えてあげられないものだった。茜が求めるのは自分を残していった男だけで、茜が彼と過ごした時間は幸せに満ちていて、茜が見つめていたのは過去の輝きばかりだった。そこに紅が入る余地などなかった。もし茜が紅を必要とするなら、それは瞬と瓜二つの顔立ちだけ、と。
 梅煉は眉尻を下げて続けた。
「実際のところはどうか知らないよ。まあ、子供を産んだことのない私が、生意気なことは言えないんだけど」
「関係ねえよ」
 紅は苛立って強く反論した。
「そんなの、全然関係ねえよ」
「そうかい」
「当然。だって、ほら、なんていうか」
 紅は前髪を乱暴に掴んで引っ張った。
詩桜(しおう)が、いるじゃねえか」
 うまく言葉を返せない自分が歯痒かった。本当に言いたいことは、口にしようとすると消えていく。言葉と気持ちが乖離していく。胸の奥には、気持ちの滓が溜まって濁った。
「あんたは、優しい子だねえ」
 梅煉は頬を染めて潔く微笑んだ。見ている方が恥ずかしくなり、紅は俯いた。
「なんだ、それ」
「ふふ。わかんなくていいんだよ」
「なんの自己満だよ、気持ち悪いな」
「気持ち悪くて結構。私は思ったことを黙ってられない性格なんでね」
 鍋を火からおろし、温まった乳を器に移した。大きな持ち手のついた、厚みのある器だった。
「はい、あの子たちが来るまで食べないんなら、これ飲んどきな」
「あ、うん」
 灰色の器の表面に、乳白色が映えた。紅は両手で受け取り、湯気に鼻先を押し付けた。甘い香りがした。冷えた指先が熱に溶けていく。一口飲んだだけで、背中が熱くなった。胸に溜まった気持ちの澱が、包まれ、蒸発していく。
「茜は、幸せだったかな」
 ふと、不安が口をついて出た。梅煉は相槌すらなかったが、確かに聞いてくれている感触があった。
「俺が我慢して、それで茜の目に映る俺が本質から遠ざかっても、茜が幸せだったらそれで良かったんだ」
「あんたはどうなるのさ」
「平気だった。……いや、どうでもよかったんだ」
 器を置いて、中を覗きこむ。
「俺だけは、茜を悲しませるわけにはいかなかったから」
「瞬みたいには?」
 梅煉は静かに笑って言った。
「それ以外に誰がいるんだよ」
 紅は煙草入れを弱々しく握った。親指の腹で表面を撫でる。
 心に、迷いがあった。本当に勝手をしたのは瞬なのだろうか。茜に、瞬についていくという選択肢はなかったのだろうか。彼女は、自ら瞬と離れる道を取ったのではないだろうか。もしそうなら、茜は瞬と離れている間も、幸せだったはずだ。
 自分は、勝手に母を哀れんでいただけではないのか。
 茜に対する愛情は確かにあった。だが、彼女を母親として認めることは、最後まで出来なかった。これは、裏切りではないのか。
 胸に沁みていた温かみが、じわりと蒸れた。
「でも、俺は」
 紅は気付き始めていた。茜のためと言いながら、自分に言い訳する余地を作っていたのだと。未来から、自分から逃げていたのだと。
 足元に築いてきた憎悪が崩れていく。まとい続けた棘が折れていく。
「あんたは、瞬と同じことを言うんだね」
「え」
 紅は慌てて顔を上げた。襟足を汗が流れた。梅煉は壁に凭れて、遠くを眺めていた。
「自分のことはそっちのけで、大切な人のために本当の気持ちを隠すなんて」
「そんなんじゃねえよ」
 まさか、闇に芽生えた疑念を打ち明けるわけにはいかなかった。紅は器で顔を隠すようにして一気に飲み干した。
「まあ、あの子のやり方はもっと卑怯だったけどね」
 聞き馴染みのない、沈んだ声で梅煉は言った。
「誰にだって、自分の我侭があって、自分の希望があって。でも全部は叶えられないから、どこかで折り合いを付けるだろう。それが普通のことで、たまには折り合いが付けられずに爆発したりもしちゃうわけさ」
「えっと……」
「だから、恙無くいい子なんてのは、それは異常なんだよ。我侭も希望も、何もかも打ち捨てられるなんて、普通じゃないんだ。折り合いを付けることなく、自己犠牲で成り立つ人格なんて。誰かのために生きるなんて」
 梅煉の視線の先には、ここにはない何かが見えているようだった。苦しげに睨み付けて、吐息を漏らす。
「私はね、鬼使と呼ばれていた頃の瞬は、ほとんど知らないんだ。あんまり、知りたくなくて、ね」
 目を細めて笑う梅煉の眉に、悲しみがよぎった。紅は、なぜと問えなくなった。
「でも、あの子が鬼使と呼ばれるに至るまでなら、知ってるよ」
「俺が、聞いても?」
「むしろ知るべきだよ」
 強い口調で言い切って、梅煉は卓の上に酒瓶を置いた。
「え、いや、それはちょっと。つか何の流れで酒盛り」
「まあいいから、呑みなさい。私も呑むから」
 紅の前にあった器に透明の酒をなみなみと注ぐ。溢れてこぼれた分が、器の下で膨らんだ。梅煉は瓶口から直接呷る。
「まじかよ」
 豪快な梅煉の呑みっぷりをぼんやりと見上げて、紅は器に注がれた酒を舐めた。舌先が痺れるようだった。気のせいか、すでに目の前がくらくらする。
「自分が呑みたいだけじゃねえか」
「あんた、今、鏡を持ってるんだろう」
「あ、ああ。勝手に埋め込まれた、けど」
 ふらつく頭を押さえて頬杖をつく。
「それが何なんだよ」
「だったら、その話からしてあげようか」
 梅煉は酔いの気配も匂わせず、ますます冴えた眼差しで記憶を愛でた。