THE FATES

5.無垢(13)

 壁に掛けられた燭台から、砂を流すような音がする。炎が生きている音だ。油を吸い上げ、空気を飲み込み、明かりを生み出す炎の血潮と心音だ。
 (こう)は片方の耳を手で塞いだ。生まれた空間に炎と同じ音が響いた。体中で迸る血流と、休むことを知らない心臓と、冷たい光を放つ龍仰鏡(りゅうおうきょう)の鳴動が、紅を支えていた。その鼓動を聞くたびに、胸の内側が黒く濡れていく。屈辱で自尊心が滾り、敗北という過去の事実に意気が萎える。何より、この鏡がないと指一本動かせない現実が、あまりにも悲しかった。
 絆景(ばんけい)の路地で詩桜(しおう)らの喧嘩に巻き込まれ、やけになって龍仰鏡を使った。明確な発想があったわけではなく、使える確信もなく、まるで鏡に操られるように胸に指を押し当てた。見る見る指は体に食い込み、指先には鏡の縁が触れた。痛みはなかった。指先に広がる世界が自分の体とも思えなかった。戸惑いは一瞬で引き千切られ、鏡は十和(とわ)の大きな体を吹き飛ばした。
 耳を塞いでいた手を、離してじっと見つめる。今でも、この手が体に入ったのかと思うと信じられない。
 その後、何度か鏡を抜き取ろうとしたことがある。色々な角度から指を突き立ててみたが、爪の跡が残るだけで何も起こらなかった。鏡の息遣いを追い、接触しようと試みたが、やはり返ってくるものはなかった。
 日々の中で、鏡の存在を感じることはほとんどない。耳を澄まして聞こえる鏡の鼓動も先入観に過ぎないのだろう。だがどんなに不確かな感触であっても、体の中に自分の意志に従わないものがあるのは、気味が悪く屈辱的なものだった。これは、まるで凌辱だ。
 紅は梅煉(ばいれん)から聞いた話を頭の中で反芻し、小さく舌打ちした。
 埋め込まれるのが凌辱なら、抜き去られるのも凌辱ではないだろうか。
「ひどい話だな」
 紅は顔を歪めて煙草に火をつけた。煙が舌にまとわりつく。
「あいつは鏡を持ってることも知らされてなかったってことか」
「そうだね。だからかな、私が出会った頃の瞬は今よりずっと体が小さくて、顔色も悪かった気がするよ。瞬にとっては、あるはずの臓器がないようなものだからね」
「しかも強引に……」
 口に広がる煙草の苦味を酒で押し流す。呑めば呑むほど喉が渇き、潤すためにまた呑んだ。
「ひどいな」
 呟いてから、紅は自分のこぼした言葉に首を捻った。自分は今、一体誰の話をしているのか。
 ずるい、と思った。こんな話を聞いてしまっては、安易に恨み言をぶつけられない。瞬のこととわかっていても、予言などという曖昧で愚劣なものに怒りを感じた。確かな裏打ちがあるわけではなく、人の心から生まれたものでもない。ただの迷信に未来を断ち切られては、憎悪をぶつける相手すらいない。
 あえて言うなら、人の抱える恐れが人に迷信を信じさせる。予言を確からしく装わせる。縋るものを欲しがる。最後の逃げ道を用意するのだ。
 脳裏に、氷の刃のような深緑の瞳が浮かぶ。
『俺が、殺した』
 茜の死を告げる瞬の言葉は残酷だった。彼には愛を、笑顔を奪われた。その上、彼女の死まで奪われたくはなかった。己の無力が茜の死を招いたのだと、そうやって繋がっていたかった。自責の殻は、決して自分を裏切らないからだ。
 たった一言が紅の殻を打ち破った。内に向かおうとしていた感情の渦が矛先を変えた。それからは、茜の死を悼み悲しんでも、無闇に自分を責めることはなくなった。意図したわけではなく、自然に瞬を憎んだ。
「まさか……」
 紅は噎せて、激しく咳き込んだ。
「大丈夫かい。はい、お茶」
「あ、うん。ありがとう」
 掠れた声で言って、見慣れた器を受け取る。やや濃い茶を、紅は一気に飲み干した。肩で息をして、黙り込む。
 紅は気付いてしまった。あれは、瞬の優しさだったのだ。
 肘をついた手で頭を支え、紅は首を振る。思考の螺子が外れそうだ。
「くそっ」
 乱暴に煙草を消して、卓上に突っ伏す。額に触れる木の感触は、冷たく、やわらかく、芳しい。
 今さら優しさなんて、都合が良すぎる。
「ずるいんだよ」
「なんだい?」
「じゃあ、今の状態はどうなんだよ。鏡は俺のところにあるけど」
「それは大丈夫だと思うよ。あの子の意志で、そこにあるんだから。きっと繋がってるはずさ」
 梅煉は氷で冷やした布巾を紅の頬にかぶせた。火照った肌に、心地よかった。紅は顔を上げて頬杖をついた。
「あんただって、わかってるんじゃないの。だから嫌なんだろ、そこに鏡があるのが」
 言い返す言葉がなかった。梅煉の言うとおりだった。生かされている今の状況で何を吠えても、自ら負けを認めるようなものだ。
「まあ、それなりに」
「なんだい、その言い方。いいかい、大げさに言えばあんたは瞬の命の片割れを預かってるんだよ。そいつが壊されれば瞬もただでは済まないし、逆も然りさ」
「逆、って」
「そりゃ」
 視線を逸らして梅煉は声を潜めた。
「瞬にもしものことがあれば、鏡だって危ないだろうね」
 鏡の消滅は紅の命にも関わる。紅は顔を歪めて口を尖らせた。
「一蓮托生かよ」
「望むと望まざるとに関わらず、ね」
「望んでねえよ」
 低い声で言い捨てて、紅は椅子の上で膝を抱えた。
 ぼんやりと、鏡が大事なものであることはわかっていた。だが心の内を握られている気持ち悪さが先行して、瞬の真意など考えようともしなかった。
 なぜ瞬が鏡を手放してまで自分を助けたのか、紅にはわからなかった。情が生まれるには、一緒に過ごした時間は短い。絆などない。繋ぐのは血と憎しみだけだというのに。
 彼はそうではないというのか。一端の親風情を気取るつもりでいるのか。紅には重過ぎる鏡という枷を使って。
 湿った布巾が手の中で生ぬるくなっていた。顔が火照って視界が歪む。出来れば透明になって、小さくなって、誰の目にも触れないところに行きたい。
 隣に梅煉がかける。彼女は紅の前髪を優しくかき分けると、女にしては大きな手で頭を撫でた。冷たい指だ。
「あの子もね、よくそうやって膝を抱えて座ってたよ」
「え」
「うちの家の前にあった木の根に凭れて、小さくなって、顔を伏せて」
「あんまり、想像できないけど」
「だろうね」
 あっさりと言い切ると、梅煉は一言断って紅の煙草を吸った。
「きっと瞬は、あのときから一人ぼっちだったんだね。でも(えん)のために、染芙(せんふ)のために生きられたら、それでいいとも思っていたんだ。きっと」
「染芙って」
「詩桜の母親さ」
 梅煉は早口に言って、煙を吹いた。
「瞬にとって焔は憧れで、自慢の兄で、何も出来ない自分を守ってくれる唯一の存在だったんだ。だからそれに応えようと、あの子は全てを焔に捧げようとした」
「でも兄の方は知ってたんだろ。鏡の本当の持ち主を」
「そうさ。だから焔はいつも怯えていた。かわいそうなほどにね」
 漂う煙の奥を、梅煉は遠く眺めやる。
「全部ぶちまけることが出来ればよかったのにね。誰も、傷つけたくなんかなかったのに。大事にしすぎて、選びきれずに、何もかもを壊してしまったんだ。誰かのためなんて、本当に馬鹿げたことだよ」
「そう、なのか。人のために何か出来るなら、その方が」
「違うよ。誰かのためにするんじゃなくて、それは自分のためなんだよ。究極的に人は人のためになんて何もできないのさ。相手を思えば思うほど、何もね」
 梅煉の手から灰が落ちる。彼女は意志の強い黒い瞳を伏せた。紅には梅煉が泣いているように見えた。頬に涙の影はない。それでも立ちのぼる紫煙が悲しみに揺れていた。
「後悔、してるのか」
「後悔か。ちょっと違うね。だって後悔する余地がないもの。必死に、生きたから」
「じゃあ……」
「たぶん、運命ってやつを恨んでいるのさ」
 言ったそばから、梅煉は小さく笑った。紅は怪訝に思って首を捻った。
「梅煉?」
「似合わないって思ったろ。私だって運命なんて、信じてないのにね」
 腹の底から大声で笑ったかと思うと、梅煉はため息をついて髪をかきあげた。
「でもあまりにも悲しすぎると、全てを運命のせいにしたくなるんだ」
 派手な顔立ちに隠された弱さが頬にちらつく。紅は見てはいけない気がして目を逸らした。
「運命のせいにすれば、梅煉は楽になるのか」
「紅が思うようには楽にはならないよ。ただ、どこに向かわなくてもよくなる。いいも悪いも全部受け入れてしまえるから」
 何もかも捨てて逃げるならまだしも、何も解決せず、そのまま全てを呑み込むなど、紅には想像がつかなかった。希望でも絶望でも、善意でも悪意でも、愛でも憎しみでもいいから、伴う痛みがほしかった。
「私はね、生きなければならないんだ。死んだ染芙のために、残された詩桜のために、生きている私のために。だから生きることを望んで、生きることを選んで、私は今ここにいる」
 無防備な梅煉の髪が揺れる。
「傲慢かい」
「やや」
「遠慮しない。顔にだいぶって書いてあるよ」
「うん、まあ」
「よしよし」
 梅煉は満足げに笑って、煙草の火を消した。
 卓上に置かれた銀色の煙草入れが、店の明かりに照らされて赤みを帯びる。静かに、動じることなく、光を受け入れている。
 茜の苦しみを、陣矢の悲しみを、自分が晴らすと決めていた。瞬は報いを受けるべきだと思っていた。だがそもそも、そのような苦しみや悲しみはあったのだろうか。二人に瞬を憎んだことがあったのだろうか。茜も陣矢も、瞬の全てを受け入れていたのではないだろうか。だとしたら、紅の恨みは後ろ盾を失ってしまう。残るのは、子供染みた泣き言だけだ。
 大人になれば、この胸の悲しみや虚しさに振り回されることもなくなり、無力と嘆くこともなくなり、過去を断ち切ることが出来るのだろうか。楽に、なれるのだろうか。
 だとしたら早く大人になりたい。いつになったら大人になれる。どうしたら大人になれる。
『もし、この空に色が戻ったなら』
 心の奥では、いつまでも子供のままがいいと思っているのに。
 大人って、なんだ。振り回されない悲しみなど、本物ではない。無力を嘆くときこそ自らを知る。過去は全て今に繋がっている。断ち切れば、今も儚く立ち消える。
「梅煉は、きっと昔から変わらないんだろうな」
「人のこと、まるで成長がないみたいに言うんだね」
「だって、梅煉は自分を偽らないことに誇りを持ってるから」
 どんなに不様でも、どんなに勝手であっても、彼女はそれを隠そうとしない。自分の全てを受け入れて生きている。誰かのために生きることを否定しながら、彼女も誰かのために生きようとしている。
「でも俺は、自分を偽ることに、誇りを持ってた。本心なんか隠して、笑って誤魔化して、気付いていても知らない振りして。それがかっこいいと思ってた」
「過去形なんだ」
「うん。かっこ悪い。すげぇかっこ悪い」
 自分の心を曝け出すのは、弱さだと思っていた。逃げる手段だと思っていた。だが由稀(ゆうき)は違った。彼はどんなに傷ついても必ず前を向き、無謀なほどに明るかった。誰が心に触れても怯まない。彼の心はいつも開け広げで、強かった。
「変わらないまま、変わり続けたい。それって不可能なのか」
 由稀を真似るのでは、いずれ行き詰まる。自分には自分の形があるはずだ。このままではいられない。だが今の自分を捨てるのでもない。
 体の芯がかじかんでいる。まるで風にあおられた旗のようだ。糸がほつれて、色褪せて、千切れていく。
 頬に梅煉の手が触れた。促されて彼女を見る。
「願えばいい。神でも世界でもない、自分自身に願えばいい」
 真っ直ぐな梅煉の瞳を受けとめ切れず、紅は眉を寄せた。
「そんな顔しないの。紅なら大丈夫さ。あんたは賢い子だもの。優しい子だもの」
 優しく抱き寄せられる。髪を撫でられ、軽く背中を叩かれる。紅は梅煉の肩に額を押し付け、こみ上げるものをこらえた。力を抜いて、乾いた笑いをもらす。
「梅煉、ご飯のにおいする」
「そりゃ、あんたらの朝ご飯作ってたからね」
「今日のも美味しい?」
「当然でしょ。誰が作ってると思ってんのさ」
 指で耳を弾かれ、紅は首を竦めた。
「へへ。梅煉」
「よろしい」
「つか、なんで俺こんなに喋ってるわけ。酔ったのか」
「なんでだろうねぇ。お酒も呑んでないのに」
「え」
 紅は梅煉から体を離して、厨房に目を遣った。調理台の上には酒瓶が置かれている。
「呑んだじゃねえか」
「ああ、あれ。あれね、中は水だよ。果物搾って香り付けした水」
「じゃあ、この火照りは」
「うーん、気分じゃないの。呑んだぜ、みたいな」
「はめただろ」
「嫌だねぇ、この子は。人聞きの悪い」
「梅煉!」
 大声で笑いながら厨房へ戻る梅煉の背中を、紅は睨みつけた。今は恥ずかしさで顔が熱くなった。
「そういえば、あの子たち遅いねぇ。詩桜も帰ってこないし。ちょっと見てきておくれよ」
 見慣れた前掛けをつけ、梅煉は自分の肩を叩いた。
「私はこれから店の仕込みがあるから、頼むよ」
「わかったよ」
 紅は低い声で返事をして椅子からおりる。脱ぎかけていた靴を履きなおし、爪先を鳴らす。妙に体が軽かった。
「あ、ちょっと。忘れ物だよ」
 行きかけた紅が振り返ると、銀色の煙草入れが投げられた。紅は胸元で受け取り、梅煉に小さく手を振った。
 店の扉を開けると、風が頬を撫でた。紅は持っていた煙草入れを鞄に入れ、鼓動の早さで階段を駆け上がった。