THE FATES

5.無垢(17)

 不意に、今が本当にここにあるのか疑わしく思えた。由稀は清路から見えないように拳を強く握ったが、それが全て純なる自分の感覚であるとは言い切れなかった。意識が浮遊感を伴い、体から乖離していく。自分の手綱から離れた体は、指一本動かすだけでもひどく重い。
 離したはずの詩桜の手が、由稀の拳に触れた。強く握ってくる。由稀は詩桜の小さな手を握り返した。途端に体が軽くなる。その時由稀は、身を案じて緊張していただけではなく、詩桜の意に反しているかもしれないと心配していたことに気付いた。氷水をかぶったように頭が冴え渡る。
「俺たちを消したところで、そっちに目に見える形での損はない。でもそれは、お前たち自身を貶めることになる。そうは思わないか」
 怖れても仕方がない。いざという時など、来てから考えればいい。必要な信頼なら、すでにこの手のうちにある。
「ああ、そうか」
 清路の腕が動いた。由稀は身構えて一歩下がる。
 堅い木の実を割るような、乾いた音を立てて清路は指を鳴らした。
「君がうちのを可愛がってくれた少年だね。会えるとは光栄だ」
 清路は由稀に手を差し出し握手を求めた。由稀は迷ったが、その手を取ることはしなかった。清路は気に留めない様子で、背後の愈良を肩越しに振り返った。
「この少年が、先日厄介になった子で間違いないかな。愈良」
「は、はい。確かにそいつらですが。そ、総統、あれはこいつらがあまりに子供なので、手加減したまでのことです」
「嘘ばっかり。その子供にしめられて本気でひぃひぃ言ってたのは、どこの誰よ」
「黙れ!」
 詩桜の憎まれ口に、愈良は顔を赤くして怒鳴った。さらに詩桜は舌を出して睨みつける。愈良は掴みかかろうとしたが、清路の手前と思い出し堪えた。
「しかし総統。そのような情報を、一体どこから」
 震える声で愈良は清路に尋ねた。清路が愈良のさらに向こうを見遣る。
「悪いな愈良。俺が報告したんだ」
 返事があったのは十和からだった。愈良は口を開けて唖然としたのも束の間、すぐに眉を吊り上げて声を張り上げた。
「十和! お前はどうして総統を煩わせるようなことをいちいち言うんだ。あ、いやその、総統」
 愈良は弁解のため清路に向き直るが、彼の興味は元よりないようだった。
「紅の友人とはね。しかも、仲間の少女は鬼使の女か」
 風に消えそうな小さな声で呟く。清路は喜悦とも諦念ともつかない笑みを口元に浮かべていた。
 清路は俯いて肩を揺らした。
「これが縁というものかな」
「そ、総統?」
 訝しげに愈良は清路の顔を覗きこむ。
「だとしたら、俺はついている」
 鋭く濁った瞳が、細くしなる。腹の底から笑い、清路は天を仰いだ。声は壁に反響していくつにも重なる。やがて雲が光を遮るように、清路は笑いをおさめた。
「いいだろう。お友達に会わせてあげるよ」
「え」
果南(かなん)なら、絆清会の本館にいる。ちょうどこれから帰るところだ。ついてくるといい」
「本当にいいの」
 詩桜は目を何度もしばたかせて、由稀のかげから清路を見上げた。
「それで気が済むなら」
 清路はやわらかく微笑んで頷いた。それを見て、由稀にも事態が飲み込めた。
「良かったな、詩桜」
「うん、ありがとう。由稀のおかげだよ」
 そう言って詩桜は由稀の腕に抱きついた。突然のことに由稀が絶句すると、詩桜も我に返って素早く手を離した。
「おい、小僧。これ」
 十和は片言の昔言葉で言って、持たされていた籠を由稀に返した。
「あ、ごめん。忘れてた」
「じゃあな」
 つぎはぎだらけの顔が、引き攣ったように笑う。見慣れると愛嬌のあるいい笑顔だった。由稀は短く返事をした。
 十和は詩桜の背中を軽く押し、先を行く愈良の後に続いた。歩みに合わせて、詩桜の朽葉色の髪が波打つ。やわらかな、そよ風のように髪に触れたい。腕に、詩桜の体の感触がよみがえる。由稀は彼女の名を呼ぼうとして、ためらった。これ以上の介入は親切心を越えるとわかっていても、彼女を一人で行かせるのは不安だった。由稀は指先に触れる籠の編み目を撫でた。
 違う。
「俺は」
 ただ、彼女と一緒にいたいと思った。
「詩桜……」
 呼びかけは囁きにも満たない。届くはずがない。引き止めてはいけない。届いてはいけない。
 だが、もしそれでも。
 彼女が拾い上げてくれるなら。
 繋いだ手のやわらかさ、吸い付くような肌、生きている温もり、今がここに在るということ。それらが掌によみがえり、脈打っている。心の腕が彼女を欲した。耳の底で歌声が響く。由稀は慎重に息を吸い込んだ。
「……詩桜」
 名を呼ぶと不思議と寂しさが募った。
 振り返れ。振り返れ。
 この眼差しを掬い上げてくれ。
「詩桜」
 由稀の体を、強い風が突き抜ける。
 長い髪を揺らし、詩桜が振り返った。
 天水の空を覆う憂愁の空色の瞳が、由稀を捉えた。肩越しに見せた小さな唇が、由稀の名を呼ぶ。水底の小石が、落ち葉のひとひらが、草原に咲く一輪が、少女の手に拾われた。掬い上げられ、存在を救われていく。由稀は背中が燃えるような震えを感じた。
「紅、これ頼む」
「お、おい」
 由稀は紅に籠を押し付けて、詩桜を追った。たった十数歩の距離がもどかしい。地を蹴る爪先から、現実感が失われていく。まるで、飛んでいるようだ。
「俺もついていくよ」
 追いついて、肩を軽く叩く。
「何言ってんの。由稀には関係ないって、さっきも言ったじゃない」
「聞いた。でも俺が行きたいから」
 由稀は満面の笑みを浮かべて言った。
「はぁ」
 詩桜は呆れて言い返すこともできない。
「大丈夫。詩桜の邪魔はしないから」
「もう……好きにしたら」
 詩桜は俯いて口ごもった。由稀が顔を覗き込もうとしても、すぐに顔を背けて、見せようとしない。
「詩桜、もしかして怒った?」
「お、怒ってなんかないわよ。呆れてるのよ。ほんとあんたって馬鹿」
 思わず顔を上げた詩桜の前には、寝癖のままの由稀が笑っていた。詩桜は小さく吹き出した。それを見て由稀はさらに目を細めた。
「そ。馬鹿だから。俺」
「由稀! おい、どうすんだよ、これ」
 後ろから紅の怒声が響いた。由稀は振り返って、羅依(らい)と紅に手を振った。
「おう。先にメシ食っててくれよなー」
「当たり前だ!」
 紅は大声で応えて、遠ざかっていく由稀の背中を眺めた。
「なに、あいつ」
「さぁ……」
 羅依は首を捻って苦笑した。
「俺にどうしろって言うんだろう」
 呟いて紅は腕の中を見下ろした。持ってみると、見た目よりも重い籠だった。揺らすと食器のこすれる音がする。
梅煉(ばいれん)さんに渡せばいいと思う。詩桜がお皿を回収してるって言ってたから」
「なんだ。じゃあタダ働きかよ」
 肩を落として、紅は起動したままのスウィッグを振り返った。踏み出した足が思わず止まる。スウィッグの横には清路が立っていた。操舵部分に手を置いて、凭れかかっている。
「何してんだよ」
 眼鏡越しに清路を睨みつけて、大股でスウィッグに足をかける。紅は持っていた籠を足元の金具に固定した。
「羅依、ここ乗れよ。んで、籠が落ちないように見張ってて」
「あ、うん」
 羅依は見つめてくる清路をちらと気にしながら、紅の言うようにスウィッグの後部に立って、両足で籠を挟んだ。
「紅」
 清路が低く嗄れた声で呼んだ。スウィッグはすでに地上から浮いている。清路はスウィッグの行く手を阻む場所に立っていた。
「ちゃんと掴まってろよ、羅依」
「こうか?」
「ばっ、くすぐったい。考えろよ」
「ご、ごめん」
「こうだよ」
 紅は羅依の手首を取って、自分の腰に巻きつけた。背中に羅依の温もりが伝わる。この温もりを自分も同じように持っている。同じ空気を吸って、同じように自分も今を生きている。紅はその実感を信じると決めた。
 目の前に立つ清路を見据える。
 ここは、過去だ。置いてきた世界だ。
「どけよ」
「だったら、俺の問いに答えろ」
「何だよ」
 紅はいつでも走り出せるように、スウィッグの回転数を上げる。底から排気が噴き出し、細かい砂が舞い上がる。風に髪が乱された。冷たい花の香りが忍び寄る。清路は紅の耳元に唇を寄せた。
「鬼使の息子ってのは、どんな気分だ」
 清路は歯茎が見えるほど口を歪めて笑った。
「え、今なんて」
 紅は好奇心に誘われて清路を見つめ返した。底の見えない日陰色の瞳が紅を絡めとる。
 羅依の肌を、斬りつけるような風が掠めた。悪い予感が胸のうちに吹き溜まる。
「紅、早く行こう」
 このままここに留まれば、紅が壊されてしまう気がした。だが紅は羅依を無視して身を乗り出した。
「清路は知ってるのか。鬼使のこと」
「ああ、なんだ。知らないのか。だからそんなに暢気な顔で生きていられるんだな」
「どういうことだ」
「教えたら、答えてくれるのか」
 鈍い輝きを湛えた清路の瞳が、紅を弄んで嘲笑う。
「紅っ」
 羅依の厳しい声に、現在へ引き戻される。紅は音が鳴るほど奥歯を噛み締めて、スウィッグを急発進させた。
 首筋に触れる羅依の髪から、甘い果実の香りが立つ。それでも記憶に咲いた冷たい花の香りは消えなかった。