THE FATES

5.無垢(18)

 絆景(ばんけい)を抜けると、通りは人で溢れていた。真っ赤なスウィッグはそれを避けるために何度も角を曲がって、裏道を進んだ。
 風を切る音が耳を占める。羅依は紅の背中に寄り添って、ある種の無音の世界にいた。街の喧騒も静寂も、この世界とは無縁で、羅依の思考はとりとめなく移ろった。何ものも干渉せず、何ものにも依存せず、どこにも属さず、しかしあらゆる存在と繋がっている状態は、あまりにも自由で、制限がないために戸惑いも多かった。感じることはたくさんあるというのに、そのどれについても考察は不完全で、結果として、どれも自然のまま残った。
 額に紅の後ろ髪が触れる。やわらかい髪質で、羅依は思わず嫉妬した。
 顔を少し上げて、紅を窺う。スウィッグに取り付けられた鏡に映る、眼鏡越しの紅は、機械のように単一で、無色で、寄り添うことをやめれば途端に透明になってしまいそうだった。
 触れ合った場所から、紅の傷が流れ込む。全身が震えていた。まるで子供のようだったが、うまく泣けない子供は悲惨だ。
 羅依は清路(せいじ)という男を思い返す。水辺に咲く花の瑞々しく潔い、そして冷たい香りのする男だった。階段へ落ちたとき、羅依に怪我がなかったのは彼がとっさにかばってくれたからだ。あの暗さでは容易にできることではない。服の上からでは華奢に見えたが、実際は相当引き締まった体をしていた。
『絆景の上層部は、君の話題で持ち切りだよ』
 どれほど本気なのだろう。彼が語る言葉のどこまでが真実で、さらにどんな意図があるのか、羅依には全くわからなかった。ただ話せば話すほど、彼に絡め取られてしまうことだけは、よくわかった。本能的な恐怖が芽生えた。不意に鬼使とまみえたときのことを思い出した。鬼使は相対する者の意識や生命だけでなく、存在まで脅かす。清路も程度は違えど、同じ匂いがした。
 紅の服を強く握る。別れ際、清路に何と言われたのかが気になった。あんなに動揺する紅は初めて見たし、あんなに喜ぶ紅も初めて見た。紅にも心から嬉しいことがあるのかと、意外に思った。普段の紅は、何に対しても興味を持つことがなく、無志向であることを自らに課しているように映る。
 だからこそ、今この背中が悲しすぎた。
 由稀ならこんなときでも紅を元気にできるだろう。梅煉なら優しく抱きとめてやれるだろう。だが自分には何もできない。何かしてあげようと思うことすら、彼の反感を買う気がした。
 悔しくて、服を握った。紅の肩に顔を押し付ける。悲しい背中は、瞬とよく似ていた。
 羅依の手に、紅の手が触れた。指の間に指を当て、ゆっくりと差し込んでくる。気付けばスウィッグの速度はすっかり落ちて、街並みは見慣れた博路(はくろ)のものになっていた。
「ちょっと、苦しいかも。腹」
 肩越しにやや振り返って、紅は呟いた。
「あ、ごめん」
 羅依は慌てて手を緩めて、掴み直した。顔を上げると、道の先に灯りのない梅詩亭(ばいしてい)の看板が見えた。知らず気持ちが和らいだ。
 流麗な字で書かれた梅詩亭の看板は、明るい時間の博路には不似合いだった。だが建物や景色が似通っているこの通りで、看板はなくてはならないものである。ひっきりなしに屋号の変わる表通りと違い、博路は老舗が多い。看板を目印にすれば、迷うことはなかった。
 深みのある赤いスウィッグは看板の横にゆるゆると停まり、緩衝用の白い煙を噴き出して着地した。
「おつかれ」
 紅はスウィッグの画面をいくつか操作して、鍵を抜いた。胸に響くような低い作動音もぱたりと消える。羅依は紅から離れて、先にスウィッグを降りた。
「ありがとう」
「別に。一人で乗るのも誰か乗せるのも、変わらないし」
「そか」
 羅依は乱れた前髪を撫でるようにして整え、足元にあった籠に手を伸ばした。
「聞かないのか。清路のこと」
「え」
 籠に触れた手をとめて、顔を上げる。見上げた先の紅は、眼鏡を軽く上げて、隙間から羅依を見おろしていた。決して溌剌とした表情ではない。だが彼は絶望してはいなかった。羅依は籠を持たずに体を起こし、肩に落ちた髪を払った。
「友達、だったのか」
「ああ。俺にとって唯一の、年下の友達だった」
「年下……?」
 羅依の目には、清路は自分たちよりずっと年上に見えた。紅はずらしていた眼鏡を元通りかけて、スウィッグから降りた。しゃがみこんで、籠につけた金具を外す。
「俺が天水を離れるまでは、十歳にも満たないガキだったよ」
 左右前後の金具を押すと、固い音がして突起が下がった。何もかも機械仕掛けのスウィッグが、荷物の固定だけが手動なのは、羅依には滑稽に思えた。
「どんなに大人びていても、まだ、子供で」
「そうか。天水とアミティスの時間差が」
「同い年の奴なんかはすっかりおっさんになってて、俺と変わらない年頃の息子がいた。表通りも俺が知ってる頃とは随分違う。俺がいない間に、それだけの時間が流れてる。清路が俺を追い抜いてても不思議なことじゃない」
 紅はそのままその場に座り込んだ。頭をスウィッグに凭れかける。
「それでも、違和感が消えないんだ」
 そう言って、紅は力なく笑った。羅依は居た堪れなくなり、スウィッグの上に腰かけた。脚を揃えて抱え込み、斜め前の紅を横目に見た。紅はややうな垂れて、肩をスウィッグに押し付けていた。口元が無理矢理笑う。
「期待とか、希望とか、未来とか。そういうものに夢見た記憶はないんだけどな」
 体格のわりに大きな手を広げて翳す。
「心のどっかで、清路は変わってない気がしてた。いや、違うな。もう、会うことがないと思ってたんだ。だから大人になった清路なんて想像したこともなかった」
 紅はその隙間から空を覗いて、舌打ちした。
「生きてて、驚いた」
「どういうことだよ」
 膝に頬杖をついて、羅依は紅の手を眺めて言った。
「まるで生きてたのが都合悪いみたいに」
「そう。都合が悪いんだよ」
「なんだ、それ。友達だったんだろ」
「ああ、友達だった。でもあいつが生きる世界は、俺とあまりにもかけ離れてて」
 手をおろし、眼鏡を外す。壁を向いて座る紅に、萌ゆる新緑を見られる心配はなかった。
「今から思えば、ごっこだったかも。友達ごっこ」
「まさか」
「いいや。そうなんだよ」
 紅は外した眼鏡を頭に乗せて、あっさりと首を振る。羅依にはもう一度否定することは出来なかった。