THE FATES

5.無垢(20)

 並んで歩くと、詩桜は一層小柄に感じられた。早歩きする詩桜にあわせても、普段と変わらないくらいだった。
 詩桜を見ようとすると、彼女の頭のてっぺんばかりが見える。肩のあたりで、髪が揺れている。彼女の髪は深い艶を湛え、由稀の衝動をいつも煽った。
「なに」
 視線に気付いた詩桜が由稀を見上げた。由稀は慌てて前を向いた。
「え、いや」
「見てたでしょ。何か言いたいことがあるなら言いなさいよ」
「言いたいこと。あー、詩桜ちっちゃいなあ、って。いてっ」
 由稀は脇腹を殴られ体を曲げた。詩桜は眉間に皺を寄せて由稀を睨みつける。
「言っていいことと悪いことがあるでしょ」
「別に悪い意味で言ったんじゃなく」
「小さいって言われて誰が褒められてると思うのよ」
「うーん、そう言われりゃそうだけど」
 胸の前に腕を組み、由稀は首を傾げた。自分が言いたかったことは、違う気がした。自分は確かに好意をもって言ったのだ。もっと彼女に伝わる形で言い直したいと思いはするが、適当な言葉が見つからない。由稀の頭の中は「小さい」が氾濫した。
「そういや、うちの妹も小さいって言ったら怒ってたな」
「でしょうね。どうしてそこで学習しないのよ」
「学習か。でもほら、怒りながらも、ちょっと喜んでたかもしれないし」
「なんでそう思うの」
「あー、なんで? なんでねぇ。うーん、なんとなく、かな」
「それじゃ理由にならない!」
 詩桜はきっぱりと言い切ってから、乾いた笑い声をもらした。
「緊張感ないなぁ。もう」
「あれ。褒められた」
「ほんと馬鹿。由稀の馬鹿。今がどういう状況かわかってないでしょ」
 潜めた声で強く言い、詩桜は由稀の袖を引っ張った。
「え、ああ、うん。ていうか、友達に会いに行くんだろ」
 気後れしない由稀の笑顔に、詩桜は肩を落とした。
「あのねぇ、ただ友達に会いに行くだけなら、私はこんなに苦労しないわよ。仕方ないな。色々と知らないみたいだから教えてあげる」
 詩桜は嘆息して、じっと前を見据えた。
絆景(ばんけい)は天水の表と裏を繋ぐ門のようなところよ。表の住人が立ち入りを禁止されることはないけれど、そこは絆景でありながら絆景ではないの。絆景の裏の姿は、絆景の門を抜けた人にしかわからない。絆清会は、その門番のような存在よ」
「門番。じゃあ俺たちは今、その門をくぐろうとしてるのか」
「私はそうだけど、由稀は微妙かな」
「どういうこと」
 由稀の問いに、詩桜は窮した。歩く速度が落ちて、前を行く十和(とわ)との距離が徐々に開いていく。
「だって、由稀たちは瞬と一緒にいるから」
 か細い声で呟き、詩桜は由稀を見上げる。
「瞬は、この街において特別な存在だから」
「それは……、鬼使のことを言ってるのか」
「もちろん、それもある。でも、それだけじゃない」
 詩桜の薄灰色の瞳が、逡巡に揺れる。底から時折、やわらかな若葉色が顔を出した。
「瞬は絆景を最初に仕切った、最初の総統だから……」
「つまりそれって、今の絆景を作り上げたのは、瞬ってことか」
 言葉を選んで由稀は問う。詩桜は小さく頷いた。
「そう、聞いてる」
「そっか。じゃあ俺は、すでにくぐってたってことか」
「うん、まあ……」
 詩桜が黙り込むので、由稀も仕方なく沈黙した。
 振り返ると、距離を保ちつつ清路が歩いていた。由稀の視線に気付いたようだったが、手を上げることも、表情を変えることもしない。
 絆景の裏の姿、それを詩桜から聞き出さずとも、由稀は薄々と勘付いていた。冴え冴えとした街の視線も、閑散とした昼間の景色も、夜には極彩色に塗り上げられた虚飾の輝きも、全て一つの存在に帰結する。
 氷のように研ぎ澄まされた眼差しと、捉えどころのない虚無の心と、煌びやかな美しさ、それらを持ち合わせた人物を、由稀はよく知っている。瞬がこの街の形を作り上げたというのなら、それはどんな真実よりも実感できた。
 だが、だからこそ由稀は、詩桜の表現に納得しかねた。
 絆景の裏。裏というのはぬるい表現だ。ここは天水の暗部なのだ。だからこそ瞬が作り上げたものであるのだ。
「あんまり驚かないね」
「そうだな。違和感ないし。たとえ伝聞でも、そこまで確からしいことならきっと真実だろうし。あと、正直なところ言うと、それを聞いても俺にとってのこの街は何も変わらないかな」
「その適応力には頭が下がるわ」
「ありがとう」
 由稀は心からの感謝を込めて微笑んだ。詩桜は口を何度かぱくぱくと開けて、結局何も言わずにため息をついた。
「話、元に戻すけど、そういう場所なんだから、会わせてやるって言われて、はいそうですかって信じるわけにもいかないの。本館に連れて行かれて、始末されちゃうかもしれないんだから」
「いわゆる口封じってやつ」
「そうよ。目障りな鼠を処分するようにね」
「でもそれは、あんまり現実的な話じゃない気がするけど……」
「どうして」
「だって、俺らを始末したところで、あいつらには何の得もないだろ」
「と、得……? それはだって、いつもいつもうるさいから……」
「むしろ損なはずだよ。だってあの清路って人は、知ってるはずだろ。俺たちと瞬に繋がりがあるってこと」
「あ、そうか」
 詩桜は見落としに気付いて、手を叩いた。
「あいつ、紅のこと知ってたよね。龍羅飛ってことも、前から。瞬が水輝城(みずきじょう)にいたのは非公式なことだけど、絆景の総統なら知っていて当然よね。それだけ情報があれば、二人の関係を繋ぐのは容易なこと」
「それに俺や羅依のことも知ってるはずだろ。こっち来てから、俺たち相当注目浴びてるから」
「そっか。そうだよね」
 安心して頬を緩めた詩桜だったが、すぐに次の疑問にぶつかり顔を曇らせた。
「じゃあ、どうして」
「え」
「どうして、果南(かなん)に会わせてくれる気になったんだろう」
「ああ……それはたぶん」
 言おうとして、由稀は口を閉ざした。横目に詩桜を盗み見る。青褪めた顔を見て、由稀は彼女の既知を悟る。
 絆清会が、清路が詩桜の願いを聞いたのは、鬼使・瞬との線を繋ぐためとしか考えられなかった。それも瞬の身内に恩を売る形での線だ。
「どうしよう由稀。瞬に迷惑かからないかな」
 詩桜の鈴のように可憐な声は、かわいそうなほど震えていた。
「きっと大丈夫だよ」
「いい加減なことばっかり」
「そんなことない。瞬のこと信じてたら、そんな心配する必要はないよ」
 力強い由稀の言葉に、詩桜は目を丸くした。由稀は不意に恥ずかしさを覚えて、前髪を引っ張って顔を隠した。
「あいつには不可能なんてない気がするんだ」
 神の定義が全知全能なら、瞬の能力も神に近い。だが地上に産み落とされた神は、人と同じように苦しみ嘆く。全知全能だからこそ、瞬の悲しみや孤独は深いのかもしれなかった。
 突飛な自分の考えに、由稀は苦笑をもらした。
「ま、なんにせよ大丈夫だって」
「どうしてそこまで断言できるのよ」
 呆れ果てた詩桜は深いため息をついて、由稀に言葉の先を促した。由稀は胸を軽く叩いた。
「だってほら、俺がついてるから」
「はあ?」
 きれいに整った眉を歪めて、詩桜は由稀を見上げた。由稀は彼女の不審の眼差しを、満面の笑顔で受け止める。
「なっ」
「あー、もういい!」
 詩桜は声を張り上げて地団駄を踏んだ。
「由稀とは会話が成立しない! まともに口きいた方が疲れる」
「まあ、そう言わずにさ。俺、他にも詩桜に聞きたいことたくさんあるんだから」
「だったら、こっちが話したくなるような態度とってよ」
 立ち止まった詩桜を振り返り、由稀は考え込んだ。視界の隅に映る清路が、にやにやしながらこちらを見ている。
「じゃあ、はい」
 そう言って由稀は手を差し出した。詩桜は首を傾げて掌を覗き込む。
「なに、これ」
「手」
「見たらわかる。どういうことかって聞いてるの」
「繋いだら俺の考えてることが、もうちょっとわかりやすくなるかなーって思って」
「ばっ、馬っ鹿じゃないの!」
「迷子になってもいけないし、一石二鳥?」
「この一本道でどうやって迷子になるって言うの。ふざけないでよ、子供じゃないんだから!」
 詩桜は顔を真っ赤にして怒り、大股で歩いて由稀を追い越していった。
「ていうか、子供でも迷子にならないわよ」
「あ、ちょっと、詩桜」
 由稀は慌てて彼女を追い、また並んで歩く。だが詩桜は絆清会本館へつくまで、一言も話そうとはしなかった。