THE FATES

5.無垢(21)

 絆清会で本館と呼ばれている屋敷は、絆景の中心から少し離れた場所にあった。外観は他の家と変わったようなところはなく、絆景特有の四角くかち割ったような飾り気のない建物だった。
「元々は料理屋だったのを、清路さんが買い取って改修したんだ」
「へえ、そうなんだ」
 門を入り、玄関までの道を歩く。両脇には大小様々な岩が無作為に置かれていた。大きいものは大人がしゃがんだくらいで、小さいものは岩というよりも石だった。何か文字が彫られているようだったが、由稀には読めない。足元には敷石が連なり、建物の入り口へと繋がっていた。
「不便じゃないのか。ここだと絆景からちょっとあるし」
「分館があるから平気さ」
 十和は肩越しに振り返って、歯を見せて笑った。昔言葉が通じて嬉しいようだった。
 先頭を歩いていた愈良(ゆら)が玄関扉の前で立ち止まり、厳しい目つきで由稀を見た。
「武器の類は、預からせてもらう」
「え」
 通訳を頼もうと、詩桜を振り返る。彼女は敷石の途中で立ち止まり、居並んだ岩を見つめていた。小ぢんまりとした横顔に、不釣合いな渋みが走った。
 由稀に気付いて、顔を上げる。
「あ、何」
「こいつが何て言ってるのか、知りたいんだけど。どうかしたのか」
「ううん。何でもない」
 ごまかすように笑って、詩桜は由稀に駆け寄った。
「通訳なら、その人でも出来るのに」
 十和を指差して詩桜は首を傾げた。
「いや、一応。用心?」
「なるほどね。たまにはきちんとしてるのね。で、何なのよ、眼鏡」
「俺の名前は眼鏡ではない! 愈良だ!」
「あー、はいはい。そういうのいいから、何よ」
 愈良は詩桜に咬みつかんばかりの形相で彼女を睨み、歯を噛み鳴らした。
「小僧が持っている武器の類を預からせてもらう」
「由稀、武器になるものは持ってたりするの」
「武器? ああ、あるよ」
 由稀は腰に挟んだ借り物の短剣を取り出した。腰に差している分にはわからないが、手に持つとあらためてその重みを感じた。
「意外。ちゃんとそういうの持ってるんだ」
「そりゃまあ、一応。て言っても、これ羅依のなんだけど」
 由稀が話している間に、愈良は由稀の手から短剣を奪いとり、鞘から出して眺め回した。
「ふん。小僧のくせに、なかなかいいものを持っているな」
「詩桜、あれ借り物だって言ってくれる」
 由稀は愈良の表情に不安を感じ、詩桜に縋った。詩桜は膝を曲げて愈良の視界に入り込む。
「ねえ、ちょっと。それ借り物だそうだから、せこいことしないでよ」
「失敬だな。俺はこんなに堂々と盗んだりはしないぞ。甘く見るな」
「ごめん、意味わかんない」
 詩桜は脱力して、大きく肩を落とした。
「おい、少年」
 後ろにいた十和が、由稀の首筋を見て声をかけた。
「そいつは何だ」
「なに」
「首にかかってる細い紐だ」
「ああ、これか」
 由稀は服の中から紐を引き上げた。先には羽根がついている。
「お守り。妹がくれたんだ」
「そうか」
 十和は由稀の肩や腕、背中などを軽く触って他に武器がないのを確認した。
「よし、大丈夫だろう。いいぞ」
「ちゃんと見たんだろうな」
 ぶつぶつと呟きながらも、愈良は扉を開け、顎をしゃくって入るように示した。詩桜は由稀の袖を掴んで警戒していたので、由稀は詩桜に先んじて中へ足を踏み入れた。
 扉を入ると、左手に嵌められた窓から外光が滲んで、薄明るかった。床に敷かれた絨毯は毛が長く、汚れた靴で歩くのは気が引けた。正面には真っ直ぐ廊下が伸び、右手の引き戸は開け放たれていた。立ち止まって中を覗くと、元あった食卓や椅子が壁際に寄せられ、あいた場所には箱が無造作に積み上げられていた。普段から使われている様子ではない。
「本館って言うわりに、閑散としてるんだな」
「そうだね。私も意外」
 後ろから覗き込んでいた詩桜が小声で呟いた。
「おい、置いていくぞ」
 由稀らを追い越して前を歩いていた十和は、二人がついてきていないことに気付いて振り返った。
「ねえ、この部屋は」
「ああ、そこはたまにしか使わないんだ。あまり気にするな。増築部分はややこしい造りになっているから、はぐれて迷子になるなよ」
 十和は手をひらひらと振って、再び歩き出した。
「あいつ、今なんて?」
「あんまり使ってない部屋なんだって。食事会でもするのかしら。厨房も奥にあるみたいだし」
「それだけ?」
「何よ。それだけよ」
「なんかもっと喋ってた気がするけど」
 由稀が詩桜の顔を覗きこんで言うと、詩桜は困惑して顔を歪めた。
「増築部分はややこしいから迷子になるな、ですって」
 早口に告げて、詩桜は先に歩き出す。
「ねえ、詩桜」
「手は繋がないからね!」
「いや、それもいいけど、そうじゃなくて」
 釘を刺され、由稀は踏み出す足が一歩遅れた。詩桜のやや後ろをついて歩く。
「あのさ、果南って子のこと教えてよ」
「え」
 肩越しに振り返って、詩桜は顔を曇らせた。
「どうしてそんなこと」
「だって、知っておきたいだろ。詩桜がそこまでして会いたいと思う友達のこと。その子と会う前に、詩桜の口から」
「だから、それがどうしてかって聞いてるの」
「難しいこと聞くんだなぁ。でも、ああ、きっと詩桜と同じ気持ちになりたいからだな」
 由稀は詩桜に追いついて、笑顔で詩桜を見下ろす。
「詩桜の喜びを、俺も感じたいから」
「変なこと言うのね」
「そうかな」
 考え込む由稀を見て、詩桜は呆れたように笑った。
「いいよ。なんか嬉しいから話してあげる」
 廊下は突き当りまで行くと左右に分かれていた。左手で十和が立ち止まり待ってくれていた。分かれ道から絨毯はなくなり、由稀は少し気が楽になった。
 硬質な靴の音が廊下に響く。詩桜は両手を強く握り合わせて口を開いた。
「果南は同じ博路に住んでいた子で、元は遊牧の民だったの。でも天水の気候が随分変わってしまって、市街に住むようになったって言ってた」
「気候って、昔からこうじゃないのか」
「違う。五十年近く前までは、工場が休みの日には空は青く澄んで、漣の空とまで謳われたほど、穏やかで、爽やかで、清々しい気候だったの」
「そうだったのか……」
 今の薄灰色の空で慣れた由稀には、漣の空を想像することは難しかった。
「出身は違っても長寿の一族同士だから、気兼ねがなかった。置いていかれるような寂しさもなかった。それに、好きな食べ物が一緒だったり、別々に買い物したはずなのに同じものを買ってたり。好きな人だけはいつも違ったけど」
 詩桜は後ろ手に組んで、肩を竦めて笑った。前を見つめる眼差しに、深い愛情が灯る。
「まるで双子みたいに思ってた」
 頬に長い睫毛の影が落ちる。
「果南ね、好きな人がいて。でもその人は天水の各地を回ってる行商だから、滅多に市街には帰ってこられないの。行商が市街に入れる時は決まってるから、彼が来るときには、いつもお弁当を作って会いに行ってた」
 詩桜は俯いて黙り込んだ。
 廊下の窓から、本館正面にあった岩の群が見えた。今の由稀にはそれらが墓に見えた。
「許せないの、私は」
 すぐ前を歩いていた十和の肩が、少し揺れた。だが彼は口を挟むことはしなかった。
「絆清会も、果南のお父さんも、私自身も」
 詩桜は震える声で言った。泣いているのではない。彼女は憤っているのだ。
「背が高くて、手足が長くて、きれいな黒髪と繊細な木肌色の瞳を持っていて、明るくて、優しくて、誰よりも真っ直ぐで、家族のために一生懸命で」
「素敵な友達だな」
「うん、私が言うより何倍も何十倍も素敵な子よ」
 詩桜はまるで自分が褒められたように、否、自分が褒められた以上に嬉しそうに笑った。
 だがその微笑みも、砂地に水が捌けていくように一瞬で消えた。
「だから……、だからそんな素敵な娘を、たった一人の娘を! 金の足しにするみたいに売ったあの子の父親を、私は心底軽蔑したわ」
「売った。それはつまり絆清会に、ってことだよな」
「そう。方々に借金があったみたい。とても返せるとは思えない、気が遠くなるような額のね」
 舌打ちをするように、吐き捨てるようにして詩桜は話し続ける。
「でも、私も、果南の事情に気付いてあげられなかった。何も知らなかった。知らされなかった。それは私が未熟だから。果南にとって私は守るべき存在だったから。同罪よ、私も」
「詩桜……」
「もし、私に力があったなら。果南が何の心配もせず頼れるくらい、私が強かったなら。きっとあの子は私に打ち明けてくれたはずで……」
 語尾は消え入るようだった。詩桜は弱さを振り切るように首を振った。
「だから、許せないの。私――」
「詩桜は強いよ」
 由稀は詩桜の言葉を遮って、静かに言った。
「え……」
 詩桜は気の抜けた声を出して由稀を仰いだ。
「何言ってるの」
「だって、今こうやって果南に会いに来た」
 由稀は人差し指を立て、足元を指した。
「誰に頼ることなく、自分の力で」
「でもそれは、由稀が掛け合ってくれたから」
「ううん、そうじゃない。詩桜が頑張ったからこそ、巡ってきたことなんだよ」
 由稀は言葉を噛み締めてゆっくりと声に乗せる。自分の中にある感情を余すところなく詩桜に伝えたかった。躊躇いながら詩桜の頭に手を乗せると、彼女は今にも泣き出しそうな顔で由稀を見上げた。
 廊下から窓が消え、壁には燭台が掛けられていた。炎とすれ違い、息が詰まりそうになる。だが由稀は、濡れたように艶めく詩桜の髪に見とれて、息を忘れた。赤い揺らめきと熱が由稀の背後から迫る。詩桜の瞳にも燃えるような煌きが宿った。
「ありがとう、由稀」
 彼女の視線の先にいると思うだけで、体の先が痺れるようだった。不自然なほど素早く、彼女の頭から手を離す。指先にはまだ彼女の髪の手触りが残っている。由稀は詩桜から見えないように手を後ろに回して、強く握り締めた。