THE FATES

5.無垢(22)

 角を曲がると、上り階段があった。愈良と十和が下で待っていた。
「遅い。俺はお前らのように暇じゃないんだ。さっさとしてくれ」
 眼鏡の曇りを布で拭きながら、愈良が顔を上げずに言った。由稀はまた睨まれるかと身構えたが、愈良は眼鏡を拭き終えたあとも視線を合わせようとはしない。
「この階段を上がった先の部屋だ」
 十和が詩桜に鍵を握らせた。詩桜は十和を見返したが、十和もまた小さく笑うだけだった。
「詩桜、行こう」
「うん」
 後ろ髪を引かれつつ、詩桜は階段に足をかけた。由稀は踊り場で詩桜を待ち、彼女が上がってくると、あとに続いた。
 踊り場の窓には色のついた硝子が嵌め込まれ、階段は赤や黄や青に染まっていた。差し込む光が弱いため、それぞれの色彩は強くない。色と色の境界が滲んで、まるで夢でも見ているような浮遊感が由稀を包んだ。手に、青が乗り移る。不意に過去の自分を思い出した。階段の中ほどで振り返って、窓を見遣る。枯葉の形に似た赤や黄の硝子が、青の硝子を取り囲むようにしてある。青の硝子はたった一枚で、やわらかな雫の形をしていた。まるで涙のようだった。
 階段を上がりきると、目の前に扉がただ一つあるだけだった。
果南(かなん)、果南。中にいるの」
 呼びかけても返事はない。詩桜は受け取った鍵を胸に当てて、深い息を吐き出した。
「開けるよ」
 鍵を鍵穴に差し、息を止めて回す。鍵は軽い音を立てて外れた。
 扉を開くと、中から冷たい花の香りがした。それほど広い部屋ではない。白い壁は壁材に砂が混ぜられているようで、光の加減できらきらと光った。床には毛足は短いもののやわらかな感触の絨毯が敷かれている。部屋の奥には壁一面の窓があり、また天井も半分は窓になっていた。
 天水であることを忘れるほど、明るい部屋だった。
 足元には所々に花が落ちていた。白く大振りな花だ。まだ新しい花だが、茎も葉もない。花の部分だけが絨毯の上に散らばっている。由稀は一つ拾い、嗅いでみた。凛とした冷たい香りがする。
「果南……」
 詩桜が掠れた声で呟いた。彼女の視線の先を追って由稀も顔をあげる。窓際に少女が一人座っている。ほのかに日焼けした肌は健康的で、癖のない黒髪が神秘的に映る。道を歩けば思わず振り返るような瑞々しさがあった。だが由稀は彼女を直視することが出来なかった。少女には両脚の膝から下と、片腕の手首から先がなかった。窓を背にして座る少女の面差しは虚ろで、視線は焦点があっていない。由稀の手の中で花が潰れる。
 詩桜は悲鳴を上げた。
「果南!」
 詩桜は果南に駆け寄り、床に膝をついた。果南の座る椅子は、両側に大きな車輪がついている。よくよく絨毯を見ると、わずかに轍が残っていた。
「何よ、これ……。こんなことって」
 果南に残された右手を握り、詩桜は嗚咽を漏らした。涙が粒になって手元に落ちる。由稀は二人のそばに呆然と立ち尽くした。憤りや悲しみは湧かなかった。ただ目の前のことが現実として受け入れられずにいる。これまで感じたことのない奇妙な感覚が頭の中を巡っていた。なぜ自分の前にこのような痛ましい少女がいるのか、理解できなかった。
 喉を揺らすような短い笑い声がした。
「お嬢さんが果南に会いたいと言ったんだ。気は済んだか」
 部屋の入り口には、清路が立っていた。詩桜は果南の手を抱いて振り返り、清路を射竦めた。
「許さない」
「勘違いされては困る。絆清会はむしろ彼女を助けたんだ」
「そんなの、騙されないから。じゃなきゃ、誰がこんなことするのよ」
「わざわざそんなことをして絆清会に得はない。事情を知っているなら、少し考えればわかることだろう」
 清路は壁にもたれて煙草に火をつけた。濃い煙が部屋に漂う。徐々に拡散し、花の香りが掻き消されていく。
「不老長寿だか何だか知らんが、愚かな」
 鼻で笑う清路を前にして、詩桜は言い返すことができなかった。金で買った少女の脚を切り、屋敷に住まわせることで、彼らが金銭的に得をすることは確かにない。
 果南の虚ろな眼差しが、時折の瞬きで揺らぐ。よく見ると、胸が呼吸で上下していた。由稀の体を戦慄に似た震えが襲った。
 彼女は生きている。確かにここに生きているのだ。
 ようやく果南の生命を嗅ぎ取り、由稀は事態の深刻さに思い至った。
「誰がこんなことをしたんだ」
 由稀はしゃがんで、包帯が巻かれた左腕を優しく撫でた。果南と目線を合わせようと覗き込む。変わらず虚ろな眼差しだが、心なしか先ほどよりも潤んでいる。
「痛くない? 大丈夫?」
 手首をさすり、由稀は囁くように問うた。手があるはずの場所をふんわりと握る。芽生えた悲しみや湧き立つ怒りや、それを越えた何ものかが胸のうちで渦巻く。喉の奥には込み上げるものがあった。由稀は唾を飲み込んで堪える。ここで泣いてはいけない。
「果南は売春以外ならなんでもすると言った。それがあまりに健気なんで、俺は絆景でもなるべく堅気に近い店を選んで、そこの給仕として住み込みで入ってもらった。博路にあってもおかしくないような、真っ当な店だ。お嬢さんなら、わかるね」
 詩桜は返事をしなかったが、それは明らかに肯定と取れた。清路はしばらく詩桜の背中を見つめて、深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した。
「だがそれが仇となった」
「仇って」
「俺としたことが、果南にあてられて絆景の本質というものを一瞬見落とした」
 清路は眉を歪めて微笑んだ。
「お嬢さんが絆景をどう理解しているかわからんが、ここは表の住人が足を踏み入れていい場所ではない」
 煙草を持つ手で、絨毯に撒かれた花を拾う。
「どんなものにも、表と裏があり、光と影がある。何かが存在するときには、その均衡が取れているということ。絆景は、闇を押し隠す天水王家の影の部分だ」
 清路は花を覗き込み、そこに煙草の灰を落とした。
「影はどんなものでも覆い隠す。何だって飲み込んでしまう。ほら、外からでは灰なんて見えないだろう。光から弾き出されたものが影へ逃げ込み、表から追われたものは裏へ潜む。拒むことはできないんだ」
 持っていた花を投げて由稀の元まで転がす。花の芯は黒く汚れていた。
「絆景はどんなに煌びやかに見えても、そこには拭いきれない闇が潜んでいる。狂気が蠢いている。それが時折、楔を切られて浮かび上がってくる」
「もったいぶるのね。それは私たちに対する思いやりかしら」
「それならそれでもいいが、ただ俺が話したくないだけなんだ」
「まさか」
 詩桜は慣れない嘲笑で清路を煽る。由稀には清路が嘘をついているようには見えなかった。
 清路は眉間に皺を寄せ、ゆっくり煙草を吸った。
「絆景が抱える狂気は、底が知れない。この街で育った俺にも、まだ理解ができないが……」
 歯の隙間から煙が洩れる。
「人を、殺したがる奴らがいる。そこに悦びを見い出すんだそうだ。わかりやすく言うなら、人をいたぶり斬り裂くことで勃つような奴らだ」
 由稀は背中から肩にかけて、総毛立つのを感じた。
「狂ってる」
 人を傷つけることは、由稀にとって恐怖でしかない。人だけではない。他の生き物ですら、痛みに呻く姿など見たくはない。だというのに、それが快感に繋がるなど狂気でしか説明がつかない。果南を前にしては、想像することすら憚られた。
 横目に詩桜を盗み見る。血の気の引いた顔で、小さな唇を固く引き結んでいた。気丈に振舞おうとしているが、若葉色の瞳はひどく揺らいでいた。思えば龍眼という存在も狂気じみている。歪は絆景だけのものではない。ここは天水の凝り固まった澱をも引き受けているのだ。
「娼館はそれを警戒して、名簿の客にしか女を付けない。新規は紹介のみ。一見では敷居を跨ぐことすら出来ない。少なくとも、俺の目が届く範囲の店はそうやって自衛している」
 清路は壁から離れて、隅に置かれていた机上の灰皿へ煙草を押し付けた。
「偶然、十和が通りかかって命だけは取り留めた。だが手と脚は、もうどうにもならなかった。蓮利朱(れんりしゅ)出身の術師にも診てもらったが、無くなったものを作るのは無理だと言われた」
「犯人は」
「俺は絆景を憎み、絆景を愛している。絆景を乱すものには、死あるのみだ」
 清路の頬が引き攣る。少しして、彼が笑ったのだと由稀は理解した。
「そんなこと、知らなかった……」
 詩桜は床に座り込んでうな垂れた。椅子に頭を押し付ける。清路は両手で髪をかきあげ、窓際へ歩み寄る。
「このことは彼女の父親にも知らせていない。君が会わせろと言ってきていることは知っていた。だが、果南が望まなかった。俺にはそう見えた」
「見え、た?」
 清路の妙な言い回しに、由稀は引っ掛かりを覚えた。あらためて果南を見つめる。
「もしかして、彼女は話せないのか」
「え」
 おもむろに顔を上げて、詩桜は果南を見上げた。視線の先で、淡く紅の引かれた唇が、震えながら薄くひらく。果南は何かを伝えようとしている。だがその動きは小さすぎて、唇を読むこともできない。
「外傷はないと言われた。おそらくは精神的なものだろう」
 清路は顔色を一切変えない。だが由稀には彼の苦渋が、窓に映る双眸に滲んでいるように見えた。鈍い光はなりを潜め、ただ静けさだけが漂っている。眉間に寄せられた皺は深く、真摯だった。視線に気付いたのか、窓の中の瞳が由稀を捉える。由稀はとっさに顔を逸らして背を向けた。
 窓からは周囲の飾り気のない建物と、足元の石だらけの庭と、空には濃淡のない薄雲が望めた。由稀は天水へ来て初めて、この空を美しいと感じた。彩りがなく、奥行きもなく、透徹とした青空に比べて派手さはない。だがどこまでも均一で、普遍性がある。眩しいほどに輝くだけが全てではない。
 優しい空だ。慈しむような優しさだ。由稀は悲しみや怒りが吸い上げられていくのを、じっと感じていた。