THE FATES

5.無垢(23)

 椅子の車輪がかすかに軋む。空は彼女の悲しみも吸い上げているのか。光なき光が、部屋には満ちている。
「どうして果南が」
 力ない呟きが静かな部屋に響く。
「詩桜……」
 由稀は詩桜に手を伸ばしかけてやめた。詩桜は果南の椅子の車輪を強く握り締める。飽和した慟哭が全身から滲み出ている。
「何の罪があるというの。彼女が何をしたっていうの。何もしてない。ただ幸せに過ごすことを望んでいただけなのに」
「おかしなことを。罪があれば裁かれ、なければ平穏に暮らせるとでも言うのか」
 清路の声は冷たく、鮮明な抑揚に欠けていた。詩桜は清路を鋭く睨みつける。
「そうよ。じゃなきゃ報われないでしょ」
「へぇ。そうやって信じられることが平和だな。俺から見た世界は、不公平で理不尽なように出来ている。実に精巧な子供騙しの空の下、罪深い者がのうのうと生き、いたいけな子供が無残にも死んでいくんだ。人が報われるべきと主張するのは、つまり実際には報われないからじゃないのか。夢も希望も、ただ絶望するための演出にすぎないよ。報われるのなら、救われるのなら、人は生まれながらにしてその方法を知っているはずだ。誰に教わらずとも呼吸が出来るように」
 誰かに向けて話すというより、清路の独白に近かった。
「世界は人のために在るわけじゃない。たとえば、神の気まぐれで生き死にが決まっているようなもの。神なんていう不確かな幻想の、そのさらに気まぐれだ」
 清路は詩桜に向き直り、顎を逸らした。
「それを人は運や運命と呼ぶ。つまり尊厳も努力も業も、その報いは運次第ということだ」
「運任せ? そんな虚しい考えで、よく総統が務まるものね」
「総統という責務を負ったからこそ、そう思う」
「うまいことばっかり言って」
「ああ、そうか。あえてこう言った方が君達にはよくわかるかな」
 指を弾いて、清路は大仰に腕を広げる。
「この世界はどこまでも鬼使任せだ」
 詩桜は目を瞠って、返す言葉を失った。だが由稀には清路の言葉の意味も、詩桜の驚きの理由もわからない。
「鬼使が作り上げたこの均衡の中で、俺たちは踊らされているようなものだろう」
「あなたに瞬の何がわかるのよ。瞬の苦しみも痛みもわからずに、勝手なことを言わないで」
「知るものか。苦しんだのは奴だけと思うな」
「ちょ、ちょっと待った」
 由稀はたまらず口を挟んだ。
「どういうことだよ。今の抽象論に、瞬がどう関係するんだよ」
「どうだろうね」
 清路は目を細めてわざとらしくとぼける。
「無知は罪だが、それを責めることも罪だと俺は思っている。全ての者に平等に機会が与えられるわけではないし、知らなくていいことも世の中にはある。知るべきか、知らざるべきか。その取捨選択は知らない間は出来ない。それ以前に、なんらかの事象がそこにあることに気付けなければ、知るという発想には至らない」
「その考えには同意するところもあるけど、それは俺への答えになってないよね」
 由稀の問いに、清路は伏し目がちになって薄く微笑むだけだった。
「安心しろ。そもそも、罪のない者なんて存在しない」
 清路には明らかに答える気がない。由稀は苛立ちを通り越し、清路の頑固さに呆れた。
「ほんとは神なんて信じてないんだろ。だったら、そう言うだけでいいじゃねえか」
「信じていないというより、必要と思っていないだけだ。全知全能でありながら、慈しみ深く救いの手を差し伸べるなど、冗談にもならない。そんな神というものの前提自体、成立するとは思えないからな」
「でもそれが成立しちゃうから、神様は神様なんじゃないのか」
 由稀の脳裏に瞬の寂しげな笑顔が浮かんだ。
「それに、神様も苦しいと思うよ」
「まあ、人それぞれだが」
 清路は曲がった鼻筋を撫でて、静かにため息をついた。
「もし本当に神がいるのなら、それは誰よりも業の深い存在だろうね」
 嗄れた声で呟いて、清路は一切の表情を削ぎ落とす。諦めよりも深い悟りが、薄氷のように彼の内側を凍りつかせている。決して後ろ向きではなく、むしろ前向きであるからこそ、彼は鉛のような眼差しで世界を眺めているのだ。由稀は清路の強さに、心中で感嘆を洩らした。十和や愈良やもっと多くの部下が清路に付き従うのも頷けた。
 部屋の四隅には豪奢な燭台が掛けられている。由稀はそこに火が灯された様子を思い浮かべた。大して広い部屋ではない。昼間よりも煌々と明るい部屋になるだろう。壁の細かな粒は赤く、そして何より白く輝くだろう。この壁は、煌きのためではなく、いつも光を絶やさないための心配りだ。
 由稀は横向く清路を見上げて、秘められた核に染み入るように気付く。
 清路は、この街に不似合いなほど誠実だった。誠実すぎるからこそ、世界の不条理を嘆き、運命に抗おうとするのだ。先の、紅への冷ややかな態度も直観的に納得がいった。
 詩桜は果南の指をゆるく握り、虚空へ視線を投げていた。由稀は確かめねばならない使命感に強く駆られた。
「どうしてここまでするんだ」
 窓の外を見るともなく見ていた清路は、眉を上げて由稀を見下ろした。由稀は続けた。
「助けたところまでは理解できる。だけどこうやって部屋を用意して、きちんと世話をしてあげて、包帯だってまっさらだ。どこにそんな義理が」
「単純な話だよ」
 悠然と振り返る清路に、臆するところはない。
「果南のこの運命は、俺の誤判が招いたもの。責任は自分で負う。これは俺なりの贖罪のつもりだ」
「贖罪?」
 緩慢に詩桜が首をもたげる。
「ちゃんと意味わかってるの。わかってるなら、こんなことやめなさいよ。絆清会なんてあるからいけないのよ。責任取って、ここからいなくなってよ」
「わかっていないな」
 疲れたと言わんばかりに清路は口を歪めた。
「だったら、お嬢さんに何が出来る。果南の世話を見てやれるのか。薬が切れて痛がる彼女の体を、全力で押さえ込むことができるのか」
 清路の正しさに、詩桜は反論する言葉を持たない。
「出来ないだろう。君では果南を守ることは出来ない。諦めろ。そして二度とここへ来るな」
「そんなの……! だったらどうして、今日……」
 勢いよく声を上げたものの、次第に詩桜は意気をなくしてしぼんでいった。彼女自身もよくわかっていたのだ。果南に会いたいと言ったのは、自分自身だ。願いを聞いてくれた清路に感謝をしても、責めることはできない。なぜ先に果南の話をしなかったかと責めても、それもまた詮無い。話を聞いていたとしても、詩桜は果南に会うことを望んだ。結果は変わらない。
 詩桜は絨毯に爪を立てた。指先が白くなる。抱えた感情の持って行き場がないのだ。叫び散らすことも、清路に掴みかかることも無意味だと、詩桜は悲しいほどにわかっていた。
 そして清路も、果南を助けただけでは何も解決しないとわかっていた。
 果南一人を助けたところで、街が浄化されるわけではない。彼女の不幸は氷山の一角に過ぎない。だから果南を助けても意味がないとまでは思わないが、世界の奔放な不条理には敵わない。
 絨毯に詩桜の指の跡が残る。それは理性と感情の相容れない形だ。
 由稀は詩桜を慰めるすべを持たず、ただそばにいるしか出来なかった。垂れた前髪の奥の、泣き出しそうな顔を見つめる。今にも涙が零れそうだが、詩桜は唇を噛んでこらえていた。果南を傷つけた犯人は憎い。そのきっかけを作った清路も許せない。だが詩桜は無力な自分が何より腹立たしく、許せなかった。
 詩桜は俯いたまま立ち上がり、果南の額に自分の額を合わせた。
「大好きだよ、果南」
 艶やかな果南の髪を撫で、詩桜は彼女から離れた。顔を上げて、眉を寄せながらも微笑む。やわらかな頬は、淡く染まっていた。涙の代わりに、愛が零れていく。詩桜は最後に果南と握手をし、背中を向けた。
 一歩目は重い。だが踏み出してしまうと、意外と足は進むものだった。詩桜は部屋の扉へ向かって歩き出した。
 立ち去る小さな背中を見つめて、由稀も追うように立ち上がった。
「ありがとう。邪魔してごめんね」
 詩桜に聞こえないように小さな声で言って、由稀は果南の手を取った。視界の隅で動くものがあって、反射的に果南の顔を見た。
 虚ろに揺らいでいた果南の木肌色の瞳から、涙が流れていた。
 驚いた由稀は、とっさに清路を振り返った。清路もまた少なからず驚いているようで、頬が強張っていた。これは特別なことなのだ。その特別を起こしたのは詩桜の力だ。
 由稀は扉を振り返る。詩桜は部屋から出ようとしているところだった。
「しお――」
「待て」
 低く抑えた声で言葉を遮られた。強く肩を掴まれて振り向く。後ろには清路がいた。
「どうして。こんなことは今までなかったんだろ。だったら詩桜のおかげじゃないのか」
「おそらくそうだろうが、それでもやめておけ」
 清路は額を押さえ、ゆっくりと吐き出すように言った。
「二人のためってことか」
「そういうことだ」
 由稀を押しのけて清路は果南の正面に膝を折った。親指で掬うように彼女の涙を拭き取る。それでも次から次へと涙は溢れた。
「奇跡は、ただ一度だから奇跡なんだ」
 清路が言おうとしていることが理解できないわけではなかった。だが由稀には素直に飲み込めなかった。
「奇跡が奇跡じゃなくなるかもしれないのに」
「そうだな……」
 少女の頬に張り付いた髪を、指先で払う。
「だが俺にはその変化まで看取る自信はない。彼女の心が目覚めても、体は元には戻らない。彼女はただ生きるだけの存在だ。それでは虚しいとは思わないか。だったら何もかも全て虚無の世界に在ればいいと思うが」
「そんなこと、どうして他人が決められる! そんな勝手な――」
「彼女に変化を起こそうとするのも、こちらの勝手でしかないんだ」
 強い語調で言われ、由稀は口を噤んだ。遠くから詩桜の足音が聞こえる。
「俺と問答しているより、彼女のそばにいるべきじゃないのか」
「言われなくても」
 由稀は吐き捨てるように言って、部屋から駆け出した。階段を降りきって、廊下を少し進んだところで詩桜に追いついた。だが由稀は横に並ぶことはせず、間隔を保って後ろを歩いた。
 手を強く握ると、小さな痛みが脈打つ。鼻は乾いた砂と詩桜の髪の香りを捉え、耳には硬質な靴音が響き、視界には詩桜の背中が映っている。だがこれだけが生きていることの証明ではない。
 機能していることだけが生きている状態だろうか。何かを志向しなければ、それはすなわち虚無なのか。そこに在るという事実は、ただ生きているというのは、何よりかけがえのないことのはずだ。
 由稀は胸元を握った。
 たった一人の男の、ただ生きてほしいという願いがあった。明け方の空のように澄んだ目をした少年のために、男はどんな罪も厭わなかった。その命の在り方は常軌を逸していたが、少年が生きていることが男には必要だった。
 あの眼差しは自分に向けられたものではなかった。裏切られたと叫ぶのも筋違いに思えるほど、事実は由稀に冷たかった。だが、彼の無垢なる願いを知ってなお恨むことはできなかった。
 命を繋ぐだけが生命で何がいけない。明日をただ望むだけでは、足りないのか。
 生まれたばかりの赤子は、何も知らない。何にも染まらず、ただ生きることを望む。
 三歩前を歩く詩桜の髪が、左右に揺れる。由稀には、心のままに生きようとする詩桜が、ひどくいとおしかった。

5章:無垢・終