THE FATES

6.切願(2)

 宮殿へ着くと、門衛が声をかけてきた。
「さっき官吏の利淵(りえん)が探してたぞ。海側の会議室にいるってよ」
「ありがとう」
 軽く手を上げて、亜須久は門衛に礼をした。再び歩み出して、ふと首を捻る。利淵は、少し前から帯都(たいと)帝付きになった若い官吏だ。宮殿管理から執務補佐へ異例の抜擢だった。噂では、帯都帝自ら声をかけたとも言われていた。利淵の書面には不備がなく、記憶力も並外れだと評判である。ただ、仕事の有能さは人格には通じない。蛇のような目をした男で、亜須久は彼が苦手だった。
 中庭を囲む廊下で立ち止まり、明るく照らし出された花々を見遣った。波間で跳ねていた光は、地上では草花に吸い込まれるようだった。
 亜須久には、彼に呼ばれる心当たりがない。謁見の申し出をした覚えもない。青竜が使っていた部屋の片付けも、すでに報告をしている。
 瑞々しく可憐な花を、濃く深い緑が包み込んでいる。光を受けた緑は鮮やかに風にそよいだ。だが土に程近い緑は影となり、黒く冷ややかに黙している。まるでこちらのことを見透かしているようだ。
 亜須久ははっとして、上着の衣嚢から古ぼけた鍵を取り出した。地下書庫の鍵だった。飾り気がなく、細身のものだ。使い込まれた鍵の表面は艶も凹凸もなくなり、さらさらとしていた。握ると、やわらかく肌を刺す。
 この鍵は確かに地下書庫の鍵だったが、本物の鍵ではなかった。本物はただ一つしかなく、以前は青竜が、今は利淵が持っていた。亜須久の手の中で確かな質感を訴えるこの鍵は、瞬が幻術で作り出したものだった。
 中庭へ歩み寄って、光に翳してみる。鍵は黒い影になって空に浮かんだ。本当にここに鍵があるように見える。当然この鍵で地下書庫へ入ることも可能だ。
『さっき官吏の利淵が探してたぞ』
 勝手に鍵を作り書庫へ入っていたことが、利淵に知られたのだろうか。だとしたら、どう言い逃れようか。鍵は跡形もなく消せばいい。だが利淵が疑いを持ったきっかけまでは消せない。何か証拠を掴まれていた場合は、言い訳など無意味だ。
 罰せられることは怖くはない。梗河屋での生活を思い出せば、怖れることなど何もなかった。光のない暗闇で信じられるものなどなく、守ってくれる者もなく、明日という未来は今日の繰り返しでしかなかった。亜須久にはあの日々を越える地獄は想像できなかった。
 自分に呆れて、ため息をつく。あんなにも嫌っていた世界が、今の自分を支えている。この孤独も紛らわせてくれる。亜須久は持っていた鍵を服に戻し、利淵がいる会議室へ向かった。
 階段を上がり、扉の前に立つ。廊下の奥には嵌め殺しの窓があり、空の青でひしめき合っていた。軽く扉を叩くと、中で椅子の倒れるような音がした。しばらくして扉は内から開いた。
「あ、夜上さんでしたか」
 隙間から利淵が顔を覗かせた。部屋からは、物音と気配があった。亜須久は利淵の上から中を見ようとしたが、察した利淵は部屋から出て扉を閉めた。
「お探ししていたところなんです」
「らしいですね。で、用件は」
「執務室までお願いできますか。お話はそこで」
 伏し目がちになって利淵は言った。亜須久は帯都帝も交えての話だと勘付いた。
「わかりました」
 亜須久は一歩下がって、会議室を見遣った。利淵は亜須久の視線に気付き、おもむろに頭を下げる。歪んだ笑みを浮かべて、会議室に消えた。亜須久は廊下の窓まで歩み寄り、真下を覗き込んだ。外壁に沿って、生成り色をした縄が揺れている。左右に目を配るが、人影はなかった。地面は乾いていて、足跡も残らない。縄が引き上げられているのを見とめ、亜須久は窓際から離れた。
 静かにと意識せずとも、自然と足音を消せる。亜須久はずっとそこにいたように、会議室の正面で壁に凭れた。脳裏に、窓から見た景色が残っている。海にせり出した崖の突端に、木々はない。花も、潮に晒されて芽吹くことはない。一面に短い草が生えていた。華やかな光景ではない。だがそこは確かに満たされていた。世界に散らばる愛や慈悲に満ち溢れていた。そして、そうであることを当たり前のように享受していた。やはりここは自分のいるべき場所ではない。このままでは世界に滲む影にもなれない。
「お待たせしました」
 利淵が出てきて、先を歩く。亜須久は間隔をあけて後ろに続いた。
 亜須久らがいる建物は会議室や謁見室、大広間などがあり、公の場である。特に名付けはなかったが、皆は中庭の宮と呼んでいた。対して、皇帝やその家族がいるのは、門から最も離れた場所にある一棟で、青の宮殿と呼ばれていた。
 階段を降りて中庭を横切り、光の届かない冷たい廊下を奥まで進む。屋外の細い階段をくだって、作られた森の小道を行く。川から水を引いた池は、小船を浮かべられるほどある。刈り込まれた低木は去勢されたようにも見えた。
 木漏れ日に誘われて無心になる。冷たい風が真上から降り、あまりの心地よさに生きている感覚を失いそうになる。
 葉の隙間から空の白んだ青とは違った、渋みのある青灰色がちらついた。靴の下で小枝が折れる。空がひらけていく。亜須久は何度も見上げた宮殿を、息を呑んで見つめた。
 皇帝にのみ許された青灰色は、アシリカの海と空とを象徴する色だ。ネリオズ宮殿の全ての屋根は、この色をした煉瓦で造られている。青の宮殿は、さらに外壁も青灰色で彩られていた。まるで地上に落ちた空の一部のように透徹として、引潮に取り残された海の欠片のように静かな宮殿だ。外壁の煉瓦は一つ一つの色味に差があり、やわらかな立体感があった。亜須久は宮殿の美しさに胸中で感嘆を洩らした。
 執務室は、青の宮殿において最も公に近い場所である。門をくぐって広間を越え、突き当りの階段を上がると、階全体が一つの部屋になっている。部屋の真ん中は吹き抜けで、手摺りから下を覗くと横切った広間が見渡せた。天井は四方に明かり取りの窓があり、白く霞んでいた。
 海の見える長椅子で、足を放り投げ、背凭れに片腕をかけて座る男の姿があった。
「帯都陛下、お連れしました」
 窓際の男が、利淵の声に振り返る。穏やかな眼差しをした、滑らかな顔の男だ。
「ありがとう、利淵」
 アシリカ帝・帯都は、足を下ろして立ち上がった。やや小柄で、容姿に目立つところのない男だ。道ですれ違っても気付かない確信が、亜須久には初めて謁見したときからあった。賢帝と名高い統治者には、贔屓目にも見えない。
 だが帯都には、一瞬だけ見せる眼差しがあった。
「呼び立ててすまなかったね。都合は大丈夫ですか」
「ええ。平気です」
 亜須久は差し伸べられた手を取って、握手を交わした。親しみやすい笑顔がすぐそばで咲いた。細くしなやかな、女のような手をしている。だが、芯にこもった力強さが違和感を覚えさせた。亜須久は手を離し、指に残る奇妙な感覚を紛らわすため、後ろ手に回して強く握った。
 帯都は掛けてあった上着を肩に軽く羽織り、窓際の椅子に再び腰掛ける。両腕を太腿に押し付けて前屈みになると、耳にかけていた髪が額に流れ落ちた。
「青竜のことで君には迷惑をかけてばかりだ。どうかな、その後は順調だろうか」
「はい。おかげさまで。さきほども加依の見送りに港へ」
「彼は魔界へ帰ったんだったかな」
「本人からはそのつもりだと聞いています」
「ふふ。真面目だね、君は。目的ですら予定でしかないと」
「先がどうなるか、誰にもわかりませんから」
「確かに」
 軽やかに笑って、帯都は水を一口飲んだ。
「で、君はどうするつもりだ」
 帯都は俯き加減のまま、目だけを亜須久に向けて上げた。
 この目だ。この眼差しだ。
 抉るような、見透かすような目をしている。憑かれたように、瞳の奥にほの暗い輝きが揺らめいていた。まるで、別人だ。
 地下書庫の鍵は、指を鳴らせば消えると瞬が言っていた。鍵を失うのは惜しいが、止むを得ない。指先に力が入る。
「失礼ですが、どう、とは」
「君自身の予定だよ」
「何を調べるか、ですか」
「調べる? いや、そんな限定的な話ではないよ」
 帯都は背凭れに体を預けて、見下ろすような仕草で亜須久を見返す。亜須久はゆっくりと息を吐き、小さく首を振った。
「まだ、わかりません。しておきたいことは山ほどありますが、自分が一体どうしたいのかは……」
「それは君の生い立ちのせいかな」
「かもしれません」
「不憫だね」
 持っていた器を卓に置き、帯都は肩越しに海を見遣った。横顔に、先ほど見せた輝きはない。哀れみには慣れている。だがあまりに表面を撫でるだけの言葉に、亜須久は拍子抜けした。返答に窮して、黙り込む。
「陛下、そろそろお時間が」
「そうか。わかった」
 利淵の声に帯都は立ち上がる。その場に上着を脱ぎ捨て、侍女を呼ぶ。
「夜上さん。あの……お話の続きは、また今度」
 利淵は亜須久の腕を掴んで言った。亜須久はぼんやりと立ち尽くしていたことに気付く。
「え、ああ、いや……」
 視線の先で、帯都帝は侍女の手で身支度を進めていた。亜須久は一歩前へ出た。
「帯都様」
 呼びかけに、帯都は顔を上げた。亜須久は息を短く吸った。
「宮殿から、出ようと思っています」
「それはどうしてかな。何か不足が?」
「いいえ。とてもよくしてもらいました」
「だったら、なぜ」
 帯都の髪に、淡雪色をした髪留めが嵌められる。濡れた砂浜のように濃い色をした彼の髪に、よく映えた。
「私は普通の生活というものを知りません。旅の間にも様々な場所で人々の生活に触れてきましたが、それでもどこか遠い世界のことのように感じられました」
 風に吹かれ、卓の上にかけられた薄布が揺らぐ。布の四隅に下げられた金属の飾りが卓の脚に擦れて、音を立てた。
「街の中に入って、街の生活の一部になってみたいのです」
「街の、一部……」
 帯都は襟元を整えようとした侍女の手を払い、亜須久の前へ歩み寄った。
「不思議なことを言う男だ。生きているということは、世界の一部だ。それでは物足りないのかな」
「ええ。あなたになら、わかってもらえるのではないかと思ったのですが」
「夜上さん、陛下に失礼です!」
「利淵」
 声を荒げた利淵を、帯都は一言で黙らせる。
「わかるような、わからないような。私は確かに普通の、多くいる国民とは違う世界に住んでいるかもしれない。だが私は私で、すでに街の一部だと考えている。私なりの関わり方で、だが」
「そう、ですか」
「私の思い上がりかな」
「そこまでは……」
「まあいい。好きになさい」
 繊細な眉を下げて、帯都は呟くようにして言った。
「人とは、結局は自分の思うようにしか生きられないものだからね」
「ありがとうございます」
 亜須久は深く頭を下げた。視界に映る帯都の足元は、小刻みに震えていた。亜須久はすぐさま顔を上げたが、帯都に変化は見られなかった。
「宿が決まったら、連絡を。何かあれば利淵を向かわせましょう」
「はい」
 静かに頷いて、亜須久はもう一度頭を下げた。帯都は侍女と利淵に伴われ、身支度を続けた。
 階段をおりかけて、振り返る。視線の先には、ただ穏やかなだけの皇帝がいた。