THE FATES

6.切願(3)

 神殿を吹き抜ける風は変わらない。時折耳が塞がれる。強く潔い風だ。だがそこに広がる景色は、一変した。とても神の拠る場所には見えない。むしろ神に見捨てられた場所のようだ。
 亜須久は祭壇へ向かわず裏手に回った。足元には辛うじて被害を免れた扉があった。小さな鍵穴にそっと鍵を差し込んで、ゆっくりと引き上げる。細かな砂が真下の暗闇へ落ちていく。亜須久は素早く中へ潜り、頭上の扉を静かに閉じた。内側から鍵をし、押して施錠を確かめる。
 かすかな隙間から光が滲み、暗闇を縫い付ける細い糸のように浮かび上がっていた。携帯用の手燭に火付け具で火を灯して、いびつな階段を一歩ずつおりる。靴音は幾重にも反響して、自分がどこに立っているのかもわからなくなる。だがそれは恐怖ではなかった。薄闇とは曖昧で不安定で、亜須久にとっては張り詰めた神経が休まる場所だった。自分にわからないことがあるとしても、その正体を、存在すら知らずに生きられる場所だ。
 緩やかに照らされた机の上に、燭台があった。亜須久はそちらへ火を移し、書庫を奥へ進んだ。蝋と湿気の臭いで噎せかえりそうになる。空気の逃げ場がない。すぐに息苦しさで頭痛がした。以前はあった隙間が、あの日の揺れで塞がったのだと瞬は言った。
 聳え立つ本棚の間を歩く。目の高さにある本の背表紙を眺める。膨大な量の書籍だ。大方は分類されているが、未分類の棚もいくらかある。亜須久は失笑にも似た笑いを思わず洩らした。
 瞬はアミティスを発つ前に、歴史や伝承に関するものについて、地下書庫で徹底的に調べていた。手伝わされていた紅は、見るたびにやつれていくようだった。この書庫にいると、それも無理はないと実感できる。
 アシリカ帝国の地下書庫は、大陸随一と言われるほどの規模である。帝国内外の様々な類の書籍が保管されており、ここにしかない希少本も少なくない。だが、それだけの知識を掘り返しても、斎園(さいえん)天地(あまつち)の杖に関する記述は見つからなかった。
 出立前夜、亜須久は瞬に呼び出された。厚い雲に覆われた、珍しく蒸した夜だった。海に面した露台には、雨の香を含んだ風が吹いた。
 瞬は咥えた煙草に火をつけず、ため息を引き摺るように吐いた。
「手がかりはなしだ。きれいすぎるほど、何もない」
「お前が言うなら、そうなんだろうが……、よくそこまで言い切れるな。全部調べたわけではないんだろう。それに、ここにあるものが全てとは限らない」
 廊下の灯りがじわりと薄闇を照らす。
「確かに全部調べたわけじゃない。これが全てでもない。でもあまりにもきれいになっていたら、疑いたくならないか」
「疑うって、何を」
 問いかける亜須久に、瞬は雅やかな笑みを返す。
「青竜がすでに処分したんじゃないか、とか」
「まさか。それだと、青竜こそ虱潰しに目を通したことになる」
 亜須久の反論に、瞬は指を鳴らした。
「その通りだ」
「どうしてそれがお前にわかる」
「わかるんだよ」
 瞬は上着から手帳を取り出し、翳した。
「たとえば、ばらばらに置かれた本があったら、お前はどう棚に戻す」
 亜須久は瞬の質問の意図がわからず、眉を寄せた。瞬は咥えていた煙草を手に持ち、咳払いをした。
「言い方を限定しよう。ばらばらに置かれた本があったら、お前はどんな順番で棚に並べる」
「それは、たぶん文字の順に……」
「だろう。俺も並べる気があれば、そうする」
 指先で煙草を回し、瞬は他人事のように言った。
「いや、瞬はもう少し、その気になった方がいい」
 彼が使っている部屋は、いつも足の踏み場がない。片付けてもただ積み上げるだけで、根本的な改善には程遠かった。瞬は亜須久の苦言を微笑でかわす。
「青竜も文字の順で本を並べていた。おそらく特に意識することなく」
 手帳を開いて亜須久に見せる。見開きの片面にはアミティスで使われている文字が順に並んでいた。もう片面にも、よく整った字が並んでいた。どちらも似通っている。亜須久は靄のような違和感をとっさに覚えた。
「なんだこれは」
「片方はここで使われている文字だ。正確な名称を調べたが、どうやらないみたいだな」
「それはわかる。そっちじゃなくて……」
「もう片方は、俺が祖国で使っていた文字だ」
「祖国というのは、天水のことか」
「まあ、そうなんだが。厳密に言うと龍羅飛だ」
 予想しなかった答えに、亜須久は瞬きを繰り返した。
「亜須久。これを見比べて、思うことはないか」
「共通点か」
「それも含めて、どう思う」
 手帳を受け取って、亜須久はじっと二つの言語を見比べた。一つ一つの文字を照らし合わせる。まったく同じ形をしたものもあれば、やや変形したものも見受けられる。見れば見るほど、双方が酷似して見えた。
「よく、似てるな。だが……」
 決定的な違いがあった。
「並びが」
「そうだ」
 瞬は静かに頷いて、海に視線を投げた。夜の海は真っ黒で、蠢いていた。まるで生き物のようだ。
「青竜が並べた本は、お前たちが見ても並んでいるようには見えなかっただろう」
「なん、だって」
 亜須久はあまりにも突飛な話に、続く言葉を失った。瞬はそれを見て軽やかに笑う。
「お前の反応はいつも、想像通りで嬉しくなる」
「茶化すな。それはつまり、青竜は龍羅飛の言葉を知っているということか。いやむしろ、そちらに馴染みがあると」
「そういうことだ」
 あまりにもはっきりと言い切る瞬が、亜須久には不可解だった。持ったままの手帳を見下ろし、黙り込む。風は徐々に強さを増していた。紙がめくれて親指に巻きつく。
「証拠があるんだな」
「ああ」
 手摺りに腕を置き、瞬は静かに言った。亜須久は、証拠を見たい気持ちを抑える。彼が今ここで見せないことには、それなりの理由があるはずだった。
「まさか青竜がそんな不注意を」
「並べようと思ってしているわけじゃない。無意識だからこそ、気付かなかったんだろう」
 瞬は亜須久に向けて手を差し出した。
「几帳面な性格も、存外に面倒だな」
「そう、だな」
 亜須久は捲れた頁を整えて手帳を返した。
 潮の香りが強くなる。雨は近い。瞬は落ちてきそうな空を見上げて、軽く息を吐いた。
「いい加減、降りそうだな」
 瞬の呟きに、亜須久は曖昧な相槌を打つ。波音は次第に大きくなっていた。波は短い間に随分と高くなっていた。瞬は亜須久の沈黙の意味を察したのか、立ち去ろうとしない。亜須久は重い口を開いた。
「前から不思議に思っていたことがあって……」
 瞬は目顔で先を促す。
「伝説、のことなんだ」
「それか」
「向こうへ行く前に、考えを聞きたい。俺たちはどうして伝説を知っていたんだ。どうして全てを信じていられたんだ」
 息が詰まるような衝動があった。声を押し通す。
「どうして、俺たちだけが」
 叫びを上げたかったのだということに、亜須久はあとから気付いた。
 蒸した夜が一瞬で霧散するような涼しげな眼差しで、瞬は手摺りに頬杖をついた。
「お前たちは何らかの方法で、強制的な刷り込みを受けている。伝説のことはもちろん、それを人前で話してはいけないということ。じきに伝説が現実になるということを。羅依は母親を喪った混乱時に、お前は梗河屋へ出入りするようになった頃に。二人ともその辺りの記憶に歪みがある」
 淡々と話す瞬に、亜須久は呆然とした。瞬は海を見つめて続ける。
「お前たちがなぜ青竜という伝説に選ばれたのか……。斎園は混血でないと生きられないと青竜は言った。だが混血はなにもお前たちだけじゃない。つまり、鵜呑みにはできない。青竜以外からの知識の裏付けが必要だ。それに俺たちには情報が少なすぎる。どれだけ尽くして点を繋げても、想像の域を出ない。だからこそ俺は天水へ、お前は竜樹へ行く。違うか」
 神威さえ漂う瞬の端整な横顔が、わずかに翳る。
「過去をどんなに紡いでも、無限の未来には追いつけない」
 強く吹く風に言葉が攫われていく。亜須久にはよく聞き取れなかったが、瞬が見つめる先を目で追って、直観した。彼にとってこの海は、弔いの海でもある。亜須久は追及を控えた。
「お前はいつから気付いて」
「羅依は初めて会ったときに。お前は結界に入ったときだ」
「そんなに前から……」
「おいおい、俺には裏切り者呼ばわりされる覚えはないが」
 嫣然と微笑む瞬に、亜須久は言い返すことが出来なかった。
 缶を蹴り上げるような高い音がした。手摺りには弾けた雨粒の跡が残っている。続けて頬に冷たい刺激があった。
「降ってきたか」
 瞬は煙草を咥えなおして、廊下への硝子戸を開けた。立ち去っていく足音を彩るように、火付け具の音が夜に響いた。