THE FATES

6.切願(4)

 裏切られたと明確に感じたわけではなかった。あえて言葉にするなら、悔しかったのだろうと亜須久は振り返る。
 書架の谷を抜け、奥へと突き進む。広がりはやがて、一本の道へと繋がっていた。
『過去をどんなに紡いでも、無限の未来には追いつけない』
 亜須久には、瞬が無限の未来を信じているようには見えなかった。信じていれば、あんなにゆかしい憂いを湛えることはない。
 未来は、本当に無限だろうか。知ることが出来ないから無限に思えるだけで、実は全て定められているものではないのか。この地下書庫が、入り口をくぐってしまえば、向かう先はたった一つしかないように。
 ずっと過去に縛られて生きていると思っていた。だが繋ぎとめられたいのは自分の方だった。自ら、身動きの取れない世界を求めていた。そうしないと、自分がここにいることも不安で仕方なかったのだ。
 もし今、この灯りを消したなら、自分は闇と溶け合って消えてしまうことができるだろうか。出来るなら、そうしたい。消えてしまって、縛られる体も心も思考も全て放り投げたい。そして、過去の記憶に延々と流されていたい。
 そう。海に呑まれて、真っ暗な夜の泡沫になりたい。
 亜須久の中には、確かにそう願っている自分がいた。そして同じ強さで、その奔放さを嫌う自分がいた。だからこそ、海原を憂いながら見つめる瞬を羨んだ。更には、青竜のからくりの端緒を握っていたことにまで嫉妬した。
 青竜から、皆を迎えに行く役を言い付かって、北を目指した。ラルマテアの酒場へ行けば揃うと説明を受けて、なんら不思議に思うことはなかった。指示や命令に対して疑問を抱くことなど、とうの昔に忘れてしまっていた。
 書庫から続く道は、緩やかに下りながら闇へと伸びていた。壁も地面も天井も、石や煉瓦で舗装された形跡はなく、掘り抜かれたままの姿だった。
 与えられた任務を過不足なく遂行することが、常に自分に求められてきた姿勢だった。今も瞬からの提案で暗闇を歩いている。瞬はこの通路が街へ繋がっているはずだと言ったが、亜須久には道先への興味など湧いてこなかった。確認してほしいと頼まれた。亜須久にはただそれだけのことだった。
 ならばなぜ、竜樹へ行くことを躊躇うのか。それもまた瞬の提案のはずだ。今と同じように、ただ任務を遂行すればいい。アシリカに誰もいなくなることなど、亜須久が心配するところではない。
 亜須久は岐路にさしかかり、右側の道を選んだ。真ん中と左はすでに調査済みで、行き止まりだった。坂はもう感じられない。道はおそらく地上と平行している。
 来た道を振り返る。三叉路までは光が届かず、何も見えない。歩んできた道ですらすぐに曖昧になってしまうのに、これから歩む道なんてどうして信じられるだろう。未来など、観念でしかない。
 再び歩みだす。足取りは、坂でもないのに重くなっていた。
 竜樹へ行きたいと素直に思う。だからこそ怖い。これまでのように突きつけられた現実を選ぶのではない。未来を模索しようとしている。それはなんとも頼りなく、しかしそれ以上に心躍るものだった。自分の望みを貫いて、失うのが怖い。
 亜須久はとめどなく流れる思考を断ち切り、その場に立ち止まった。息を整えて、じっと耳を澄ます。やや遠方だが、人の気配があった。書庫の方からだった。追跡者かもしれない。結界に身を隠してかわすことも出来るが、相手の力量がわからない状況では好ましくなかった。素早く灯りを吹き消して、燭台を足元の窪みに置いた。地面を靴先で削って、燭台の上から土をかける。油の臭いは残っていたが、相手も灯りを持っていることを考えれば瑣末なことだ。それよりも硝子や金属が光る方が厄介だった。亜須久は手探りで壁を探し当て、それに沿って先へ進んだ。触れた部分の壁は乾燥していて固い。ひび割れている箇所も多数ある。ここは、もう長くはもたない。
 追跡者の気配は、はっきりとした足音になっていた。近付いている。足音には反響とは異なるばらつきがあった。追跡者は一人ではない。
 駆ける足音は一度立ち止まり、また走り出した。複数人では、三叉路も時間稼ぎにはならない。亜須久は足を速めた。
 遅れ気味についてきていた、壁を伝う指先が、直角を感じ取った。これまでも窪みや分かれ道はあったものの、どれも滑らかな角をしていた。ここは明らかに意図をもって掘られている。当たりだと直観した。亜須久は踵を返して、角を曲がった。
 闇に潜って、息を殺す。背中から土の冷たさが突き刺さる。
 光がじわりと闇に染み出した。徐々に侵食されていく。
 足元にまで、灯りの影が伸びた。追跡者は下級官吏の制服を着ていた。亜須久の脳裏に、利淵(りえん)の蛇のような目が思い出された。
 闇に慣れた目は、闇の中に遠近を感じるようになっていた。夜でも昼のように明るい街で育った亜須久にとって、闇の質感はいつでも安らぎだった。自分の指先さえ見えない闇は、静寂を通り越してざわついている。まるで闇も生きているようだ。血潮が聞こえ、鼓動は亜須久と共鳴していた。油断すれば、どこまでが自分の体かわからなくなる。今の亜須久には、靴裏と指先から伝わる土の感触だけが、自分と世界を切り離す信号だった。
 爪先が、何かに当たった。亜須久は腰を下ろして、ゆっくりと手を伸ばす。正面にあったのは石の階段だった。かなり急な勾配の上り階段だ。一段ずつ確かめながら、あがっていくと、十段ほどで天井につかえた。撫でると取っ手があった。
 腕を押し上げて開くと、扉の外もまた暗闇だった。だが、これまでの闇ほど濃密ではない。斜め前の天井には、洩れ入る細い光が浮かんでいた。濃い闇に慣れていた亜須久の目には、部屋の全体がよく見て取れた。それほど広い場所ではない。むしろ狭いくらいだ。天井越しに、外の世界の気配が感じられた。出入り口と思われる光の糸の周辺からは、水が落ちる音が聞こえた。湿気と黴の臭いが充満している。香りの強い花が饐えたときのような、胸が悪くなる臭いだった。
 上がってきた扉を振り返り、追っ手の気配がないことを確認すると、亜須久はまた数段の階段を上がって、扉を押し開けた。
 わずかな隙間からも大量の光が射し込む。眩しさから目をそむける。閉じた瞼の裏で、光の残滓が泳いでいる。
『几帳面な性格も、存外に面倒だな』
 瞬の言葉は、青竜だけに向けられたものだったのだろうか。
 恐る恐る目を開ける。四角く開いた世界は、全て青空に占められていた。這い上がって、地下から抜け出す。出口の周りには、雨曝しの木箱が積み上げてあった。まるでこの扉を隠そうとしているようだ。
 囲みから出ると、狭い路地の奥だった。左右の建物は四階建てで、集合住宅のようだった。快晴だが、建物の影になっていてそれほど明るい場所ではない。ひとまず路地から抜けることを目的に歩き出した。人がすれ違うこともできないような狭さに、故郷の路地を思い出す。アシリカの路地はほとんどが舗装されているが、橙亜(とうあ)は土が剥き出しで、雨が降るとすぐにぬかるんだ。靴も服も泥だらけになった。穴の空いた靴から泥の染み込む瞬間が、何より嫌いだった。
 道は迷路のように複雑だった。分かれ道が続き、行き止まりも多い。だが、亜須久はこの街に覚えがあった。アーチを抜けて細い階段を上がると、青灰色の屋根を尖塔に翳した屋敷に行き当たった。
 ここは、鬼使が解放されたときに避難した無人の邸宅だ。
 階段の最上段から背後を振り返る。乱立する住宅に阻まれて路地は見えないが、扉からは目と鼻の距離にある。
 脳裏に青の宮殿の佇まいがよぎる。青灰色は皇室にのみ許された色だ。
 亜須久は高い塀の上から覗く、青い尖塔を見つめ、額に浮いた汗を袖で拭った。