THE FATES

6.切願(5)

 屋敷の正面から伸びる道は、やがて大通りへと繋がっている。あの日の惨状から復旧した街は活気を取り戻し、変わらぬ日常を送っている。
 あの日、鬼使と由稀が戦った日に、すでに気付いていたはずだった。ここに青灰色が使われていることを、おそらく誰もが知っていた。にもかかわらず、誰も言及することはなかった。状況を見て憚られたのか。それとも、それほどまでに非日常に取り込まれていたのか。
 塀に触れる。陽射しが強いアシリカの壁は、石膏や石灰を混ぜた建材が用いられ、白や灰色をしている。手触りは固く、滑らかさに欠けた。光は白さに弾かれ、道端に散らばっていく。高台に吹く風は乾いて寂しげだった。
 亜須久は正面へ回った。門は固く閉ざされている。風上を振り返る。街並みの向こうには、神殿が空に広がっていた。居並ぶ柱は空を支えているようにも見える。さらにその向こう側には、宮殿の青灰色が控えていた。亜須久の胸の内で妙な合点がいった。屋敷に向き直り、青い尖塔を見遣る。通常の様式なら尖塔は屋敷の両端、もしくは前へ迫り出した中央、玄関の真上に据えられる。ところがこの屋敷には、片側にしかない。宮殿の方角からは死角になる場所だ。また、塀に遮られ、近くからも視認しづらい。
 堂々と存在しながら、必死に隠されようとしていた。
 皇室のみに許された青灰色が、地下通路で繋がっていたことは偶然だろうか。避難通路にしては脆く、また妙に新しくもあった。ここへ来ることが目的の道ならば、わざわざ地下に掘る必要があっただろうか。ここは大通りからそう遠くはない。道を選べば、馬車も通れる。
 屋敷の中はあの時、確かに無人だった。だが無人にしては整っていた。人の気配が残っていた。亜須久は門に手をかけて、隙間から見える邸宅を眺めた。人影はない。
 風が弱まり、土のにおいが濃く感じられた。わずかに火薬のにおいが混じっている。亜須久は目だけを動かして、素早く足元の影を見た。背後に誰かがいる。
「動くな」
 低い声がした。後ろ首に、鉄の感触があった。銃口の丸みだ。亜須久の脳裏に、地下通路で見た追跡者の姿がよぎった。だが後ろから滲む、研ぎ澄まされた殺気は、あの下級官吏のものとは思えなかった。それに、声は低いが、これは女だ。
「両手を頭の後ろに組んで、ゆっくりとこちらを向きなさい」
 女は落ち着いていた。亜須久は大人しく従った。そろりと腕をあげ、振り返る。
「あ……」
 小さく女が呟いた。その声に、亜須久は聞き覚えがあった。肩越しに背後を覗き見て、頬を緩めた。
「なんだ、葉利か」
「どうしてここに」
 葉利は亜須久に向けていた銃を下げて、腰の鞄に押し込んだ。
「こんなところで一体何を」
「それは俺の台詞だ。いつから市中警備になったんだ」
「違います。私は不審者捜索の特務を受けて……」
 そこまで言って葉利は言葉を失い、口をぽかんと開けた。
「もしかして、亜須久が不審者」
「たぶん、そうだ」
 亜須久は眉を下げて苦笑を洩らした。葉利は息を飲み込んで、亜須久の腕を掴んだ。
「事情がよくわかりませんが、ここにいては怪しまれます。移動しましょう」
「地理はわかるのか」
「大丈夫です。ここの出身ですから」
「そうだったのか」
 走り出した葉利のあとを追って、亜須久も屋敷の前から離れる。角を曲がる刹那、視界に青灰色がちらついた。立ち止まれば葉利とはぐれる。亜須久は一瞥することもなく、駆けた。
 往来が増え、道の両脇は商店で賑わっていた。表通りに比べて、庶民的な店構えが多く立ち並んでいる。先を行っていた葉利が、小さな食堂の前で歩みをとめた。
「店でも入って、やり過ごしましょう」
「いいのか。軍務の途中だろう」
「軍人だって、食事くらいとりますから」
 葉利の頬から軍人の色が抜け、一人の女の顔になる。普段の彼女からは想像できない、幼い表情だった。とても自分より年上には見えない。
 店は狭く、昼時にはまだ早いにも関わらず混み合っていた。葉利には慣れた店なのか、手際よく席を見つけて座った。すかさず給仕の少年が寄ってきた。
「いらっしゃい。珍しいね、葉利が人連れてくるなんて」
「無駄口を叩いていないで、仕事なさい」
 少年の手から水の瓶を引ったくり、葉利は亜須久の器に水を注いだ。
「亜須久、嫌いなものは」
「いや、特には」
「そうですか。よかった。――渓和(けいな)、いつもの二つ」
 葉利が声を張って告げると、厨房から威勢のいい返事があった。
「よく来る店なのか」
「同じ施設で育った子がやってるんです。だから、家みたいなものですね」
 葉利は短い髪の襟足を首筋に撫で付けて俯いた。亜須久は傷つけたかと焦りを感じたが、伏し目がちの眼差しがやわらかいことに胸を撫で下ろす。
「ところで、どうして不審者に」
「話すと長くなるんだが……」
 そう前置きして、亜須久は経緯を葉利に話した。途中、食事が運ばれ、話はつい途切れがちになった。宮殿の料理に比べて濃い味付けだったが、亜須久にはこちらの方が好みだった。
「つまり、勝手に地下書庫に入ったわけですか」
 冷ややかな視線が向けられる。瞬が悪いと言い訳をするのも往生際が悪い。亜須久はじっと黙り込んだ。葉利の唇からため息がこぼれる。
「無茶な人ですね」
「俺のことか」
「他に誰がいるんですか。まあ、瞬の丸投げが原因になるわけですが」
 呆れた葉利は額を押さえて控え目に笑った。それを亜須久は呆然と見つめた。
「どうかしましたか」
「葉利も、笑うんだな」
「人を機械みたいに言わないでください」
 そう言って葉利は更に笑った。
「私も人間です。職務を離れれば、笑ったり怒ったり、たまには泣いたりもします」
「そう、だな」
 あまりにも健全な答えに、亜須久は微笑を浮かべた。彼女は自分とは違うのだ。
「ここの出身だと言ってたが、それならさっきの屋敷のことで、何か知っていることはないか」
 亜須久の問いに、葉利は横目に周囲を見渡して口を開いた。
「どれほど信憑性のある話か、わからないんですが……」
 葉利は声を潜めた。
「あそこは先帝の別邸だったと聞いたことがあります」
「別邸というのは、つまり」
「ええ。寵妾がいたと」
「まさか宮殿に住まわせるわけにはいかないが、しかし地下道で繋ぐというのも浅ましい気がする」
 青灰色の尖塔が脳裏を掠める。噂がある程度は確からしいことも、考えられた。
「先に言ったように、あくまで噂でしかありませんが」
 念押ししながら、葉利は亜須久と視線を合わせようとしない。おそらく彼女はまだ何か知っている。亜須久は食事を終えて、箸を置いた。卓に肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せる。あえて何か催促するような言葉はかけない。ただじっと葉利を見つめた。視線に気付いた葉利は、あからさまに顔を背ける。彼女は女にしては正直すぎた。
「時々、やり方が強引ですよね」
 諦めるように、葉利は鼻で笑った。
梗河(こうが)屋総長の片腕だったということを、時々痛感させられますよ」
「俺も、時々痛感する」
「そうですか」
 葉利は乾いた声で呟いた。背中を反らして厨房の奥を覗く。彼女の視線を追うと、鉄鍋を振る大柄な男の姿があった。
「同じ施設で育った仲間です。私より八つ年上で、十三のときにはこの店で先代の下について修行をしていました。少し手癖の悪いところがあって、色々とやらかしては謹慎を受けていたんですが……。その時も軽い調子で噂を確かめようとしたんだと思います。本当にあそこが皇帝の寵妾宅なのかと」
 葉利は更に声を潜めた。顔を寄せ合わさなければ聞こえないほどだった。
「見たらしいんです。夕暮れ、血まみれになった少年が二人、屋敷から寄り添って出てくるのを」
「血まみれの少年、か」
「ええ。足取りはしっかりしていたので、彼が言うにはおそらく返り血だろうと。でも、本当に全身が真っ赤で、まるで血の桶を頭から被ったようだったと」
 葉利は冷めかけのスープに手を伸ばしかけてやめた。
「目が合いそうになって思わず逃げ出したとかで、その後少年たちがどうなったのかはわからないんですが。中途半端な話で申し訳ないです」
「いや。で、それはいつ頃の話だ」
「十五年ほど昔のことだと思います」
 返事を受けて、亜須久は再び厨房の男を見遣った。眉一つ動かすことなく鍋を振り、周りに指示を出している。彼自身は落ち着いていたが、他の店員の忙しない動きを見ていると、こちらまで目眩がした。見渡せば、店にはあいた椅子が一つもない。直接話を聞きだすのは難しそうだった。
「この辺りは、治安はいい方なのか」
「国内では模範的な地区です」
「じゃあ、猟奇殺人や未解決の事件なんかも少ないか」
「はい。ですから本当にそんな子がいたなら、目立つはずなんです。大事件として扱われてもおかしくないのに、新聞には記事の一つもなく、他の目撃者の話もない。そればかりか、噂すら立ったことがありません」
「それは、そうだろう」
 まさか他に誰も見ていないわけではない。おそらく誰もが口を封じられているのだ。厨房の男も、若かった当時ならいざ知らず、守るものがある今はもう語ろうとしないだろう。
 地下通路でのことを思い返す。追跡者は多くて三人だろう。それ以上は通路の秘密が危うくなる。命令は相当高次の者から直接下されたのだろう。状況はもちろんのこと、そうでなければ、あの書庫は開けられない。
 もし地下書庫への無断侵入が咎められるなら、入ってすぐに捕らえられたに違いない。だが亜須久が官吏の気配に気付いたのは、通路を大方進んでからのことだった。指揮官は亜須久の目的が書庫なのか通路なのか、見極めたかったのだろう。更に言うなら、官吏らが亜須久を見失ってから軍に特務を出していては間に合わない。通路が目的だったときのことを考えて、事前に出口付近に隊を向かわせていたのだ。その中に葉利がいたのは、亜須久にとって幸運であり、指揮官には非常に不運なことだった。
 命令の出処は、地下書庫を開けられる人物に限られる。それは利淵であり、その背後に座す帯都帝でしかない。
 一見するだけでは、帯都帝はただ穏やかな一青年にしか見えない。香木のように自然と立ちのぼる品位は感じられたが、良家の子息の域を出ない。王という肩書きには遠く及ばない。
 正確に言えば、あれは王を眠らせておく器に過ぎない。
 最後に会ったときの、胸の内を見透かすような鋭い眼差しを思い出す。普段の姿が演技に思える、生々しい表情だった。
『人とは、結局は自分の思うようにしか生きられないものだからね』
 王でありながら、彼は飛ぶ鳥のように自由だった。何ものにも囚われることなく、世界を見つめ、世界を楽しんでいる。それは誰よりも王としての素質を備えているとも言えた。
 彼が見せた剥き出しの興味は、舞台を彩るきれい事でも、無垢な子供らの絵空事でもなかった。血肉をにおわせる、内から沸き起こる感性こそが皇帝を突き動かしていた。
 帯都帝はまるで小鳥の囀りを真似る猛禽だ。亜須久には、あれこそが賢帝の正体と思えた。
「それからは、人がいる気配も全くなくなって……」
 細い顎に手を添えて、葉利は当時を思い返す。だが虚ろに壁を眺めていた彼女の眼差しが、不意に険しくしなった。
「今思い出したんですが、あの屋敷、移転したんです。ここ五年くらいのうちに」
「なぜそんな必要が」
「わかりません。元は亜須久が話していた地下扉のある、ちょうどあの辺りにあったんです。誰も住んでいないからか、立派な屋敷もひどく傷んでいました。庭は荒れ放題で、宿のない浮浪者が住み着いたこともありました」
「五年前には、葉利はもう軍にいたのか」
「ええ。入りたてでしたが」
「その頃に軍部や皇室関係で、何か特別なことや、変わったことはなかったか」
「変わったこと、ですか」
 葉利は指先で卓を短く叩いた。手が大きいわりに、指は細く女性らしい。短く切った爪は、卓を鳴らすたびに白くなった。
「あ……」
 小気味よい律動が唐突に途切れた。
「皇帝陛下が」
 色味の薄い葉利の唇が、かすかに震えた。
「帯都帝が即位されました」
 亜須久には返す言葉が浮かばなかった。葉利と目を見遣って、手探りで器に手を伸ばす。冷たい水が入っていた器は、表面にびっしりと汗をかき、今はそれすらもぬるくなっていた。