THE FATES

6.切願(6)

「偶然にしては出来すぎだな」
 何とかそれだけ呟いて、亜須久は一気に水を飲んだ。冷たさを失った水は、固形物の感触を伴って喉を通り過ぎていく。
 亜須久が気になったのは、たった二人が話し合っただけで、これほど線が繋がることだった。取るに足りないことなのか、消され忘れた点なのか、それとも何ものかの意思により誤った方向へ導かれているのか。
「陛下は屋敷のことをご存知なんですよね」
 葉利はひどく動揺していた。亜須久は努めてゆっくりと話した。
「むしろ知らない方が不自然だ。屋敷にあの色が使われているのは客観的事実だ。だったら決定権は皇帝にしかないはずだ。移転がいつ決まったことかはわからないが、帯都帝が承認したことは、ほぼ間違いない」
 亜須久は目顔で厨房の男を指す。
「彼が見た少年らのことも、知っているはずだ。少なくとも、そのとき何があったかくらいの情報はあるだろう」
 十五年の歳月を経て、少年がどうなっているかを想像する。生きているだろうか、死んでいるだろうか。二人の関係は何だったのか。兄弟なのか友人なのか。敵なのか、味方なのか。もし彼らが生きていれば、今頃は二十歳代後半くらいか。
 亜須久は思わず、器を取り落としそうになった。
 偶然が偶然を呼ぶのなら、その少年が帯都帝であった可能性もあるのだ。なぜ宮殿にいなかったのか、他に誰もついていなかったのか、共にいたという少年は一体誰なのか。疑問は湧き水のように溢れたが、亜須久は想像が強すぎるとは思えなかった。葉利もこのことに思い至り、当惑していたのだ。
「最悪、その少年は――」
「ええ。わかっています」
 張り詰めた声で応えて、葉利は無意識に胸元の紋章を撫でた。思えば亜須久は、軍服姿の彼女しか見たことがない。規則でもあるが、彼女は軍服に誇りを持っているのだ。それはアシリカへの愛と忠誠でもある。
 肩で息をついて、葉利は茶碗の上に箸を置いた。
「青灰色が使われているのです。あの屋敷は陛下が所有なさっているもので間違いありません。それは、確かなことなのです」
 自分自身に言い聞かせるためなのか、葉利は噛みしめるように言う。
 国家を売った。
 彼女は思考するより深いところで、そう感じているのかもしれなかった。
「すまない。葉利を傷つけるつもりは」
「傷なんて。気にしないでください」
 力なく微笑んで、葉利は席を立った。卓の上に二人分の代金を置き、亜須久より先に店を出ていく。亜須久は札入れから紙幣を出し、葉利が置いた硬貨を持って外に出た。
 扉の前には男が二人連れで並んでいた。亜須久と入れ違いに店へ入っていく。扉の横で待っていた葉利は、滅多に被らない軍帽を目深にして、壁に凭れかかっていた。亜須久は彼女の手を取って、卓の上から持ってきた硬貨数枚を握らせた。
「え、私の分まで」
 葉利は手の中を見て、軍帽のつばを押しのけ顔を上げた。
「どんな関係であっても、女性に食事代を出させる教育は受けていない」
 言ってから、妙ないい訳がましさに顔をしかめた。
「それも、どうかと思いますよ」
 失笑して、葉利は首を傾げた。斜めになっていた軍帽がずれて、足元に落ちる。亜須久は軍帽を拾って、軽く埃をはたいた。
「身に染み付いたものは、どんなに時間が経っても消えないものらしい。過去と切り離しては生きていけないだろう」
「それは亜須久にとっての職務、ということですか」
「今はそうでなくても、過去においては確かにそうだった。それは間違いない」
 亜須久は軍帽の形を整え、硬貨を握る葉利の手に引っ掛けた。
「わかりました」
 歯切れよく言うと、軍帽を胸に抱いた。
「これも職務だと思って、頂いておきます」
 誇らしげな葉利を見ていると、職務という言葉も悪くない気がした。
「職務か」
 今の自分の職務とは何だろうか。葉利にとっての国ほど、大きなものでなくてもいい。だが何を信じて生きているのか、何のためにここにいるのかは知っていたい。
 道先を与えられ続ける人生では、それがたとえ耐えがたい道程であっても、本当の苦痛は生じにくい。なぜなら全ての痛みは他人に転嫁できるからだ。もし、ずっと与えられ続けるのなら、それは悪くない人生だろう。だが、与えられなくなった途端、世界との繋がり方を簡単に失ってしまう。
 まるで初めから自分なんていなかったように。世界など幻想であったかのように。
 今、目に映っているのは、薄布の向こうに広がる世界だ。霞んだ視界では物事を正確に判断などできず、亜須久にとって世界の手触りはひどく遠い。
 故郷を捨てたとき、梗河屋に背を向けたときには、もうすでに見失っていた。
 追い詰められて、選ぶことすら選ばせてもらえず、未来という言葉に広がりはなく、がんじがらめになって生きてきた。突然、野に放たれても、戸惑うばかりで死んでしまいそうだ。
 脳裏に海の煌きがちらついた。眩しすぎて見えない。額に手を翳しても、去来した感覚はすでに過ぎ去っていた。
 何か、見落としている気がする。うだるような暑さで景色が揺らぐように、意識が霞んでぶれた。
「葉利」
 自分の声を耳で聞いて、その遠さに驚く。
「葉利には、あの話は何だった」
「あの話というのは、青竜のことですか」
 人の流れを目で追いながら、葉利は抑揚なく言った。亜須久は静かに頷いた。葉利は目立つからと言って、店の横から伸びる細い隙間に体を滑り込ませた。亜須久も彼女について、闇に溶け込む。
 風がなく、空気がこもっている。暑さより不快感が肌に触った。道は、人ひとりがようやく立てるほどの幅しかない。
「ずっと何かの間違いだと思っていました」
 葉利は道半ばで立ち止まり、振り返って言った。
「最初に話を聞いたとき、亜須久は疑いませんでしたか」
「疑う。何を」
「その話は、してはいけない話ではないのか、と」
 亜須久は、あっと息を飲み込んだ。
 暗い船内が思い出された。あれは仕事で初めて船に乗った日だ。ひどく船酔いした亜須久は、貨物室で横になっていた。朦朧とする意識の中、吐き気だけが鮮明だった。
『誰にも、話してはいけないよ』
 すぐそばで男がそう言った。
『二人だけの秘密だ……』
 男の顔はぼやけていてはっきりしない。あれは、誰だ。
「亜須久、大丈夫ですか」
「あ、ああ」
「顔色が真っ青です」
「大丈夫だ」
 過去の吐き気がよみがえり、亜須久は壁に凭れかかった。目を閉じると、蝋燭の炎で赤く染まって揺れる、狭い貨物室の天井が見えた。荷物の箱は縄で固定され、影になって黒くなっている。灯りの中心はかえって色がなく、残像が線を描く。赤い瞳がこちらを向いた気がした。
「つっ……」
 頭痛がして、記憶は千切れていった。再び思い出そうとしても、混濁した世界が繰り返されるばかりだった。
『お前たちは何らかの方法で、強制的な刷り込みを受けている』
 瞬の言葉を思い出す。
 あれが記憶を埋め込まれた瞬間か。
「葉利は伝説に関することを、誰から聞かされた」
「それが、わからないんです。話してはいけないと言われていたから、施設の誰にも聞いたことはありませんし」
「そうか……」
 亜須久とて、その約束事を忘れていたわけではない。だが、葉利のように冷静でもなかったのだ。
 最初に青竜から話を聞いたとき、亜須久は生まれ変われる気がした。それまでの泥水のような人生から抜け出せると思った。世界を救うという言葉が、重荷ではなく救いにすら思えた。立ち止まって落ち着いていては、この流れから取り残される気がした。
 伝説への協力を求めてきたのは青竜の方だった。だが、この茶番に縋っていたのは自分の方だ。
 歪みはいくつもあったはずだ。しかしそれに気付かなかったのは亜須久自身の落ち度、否、気付きたくない気持ちからだった。
 たいていの辛さや悲しみには、すでに耐性があった。どんなに辛いことがあっても、これ以上傷つくことはないと思っていた。だが、自ら望んだ道は、あまりにも愛しくて、些細な裏切りにも怯え、知らず竦んでしまっていた。
 亜須久は自分の思いも寄らぬ繊細さに驚いた。もう、自分の望みに裏切られたくないというのか。だから竜樹へ行くことを望めないのか。
 強く、強く願えばこそ。
 自分で選んだ道先で、今また来し方を振り返る。霞んで見えなかった入り口は、まだ見えない。だが淡く続く足跡を目で辿れば、見慣れた靴に行き当たる。自分はここに立っていて、確かにここに生きている。
「葉利、これから話すことは誰にも言わずにいてほしいんだ」
「はい」
「俺は、竜樹へ行ってこようと思う」
 未来が今の積み重ねである考えは変わらない。だがそれは絶望ではない。希望と願いの道しるべだ。
「行って、この目で確かめてこようと思う。青竜の罪を。戦争に明け暮れた竜族の罪を」
 そして、無知を受け入れていた、自分の罪を。
「由稀たちが帰ってきたら、伝えてほしいんだ。竜樹にいることを」
「あ、はい。えっと……」
 葉利は視線をそらして黙り込んでしまった。
「何か都合が悪いのか」
「ええ。あの、祭典が催される話はご存知ですか」
「葉利が言うのなら、街の祭りではなく、アシリカ帝国が執り行うものか。いや、知らないな」
「そうですか。まだ公表されていませんし、宮殿内でも一部の者しか知らされていないようなんですが。近々、おそらく一年以内には、大規模な祭典が行われ、各国から首脳や高官が集まると聞いています」
「それが、どうかしたのか」
 呆然と亜須久が聞き返すと、葉利はしばらく考えてから口を開いた。
「警備主任を任されるかもしれないのです」
「つまり、伝言できるかどうか確かでないということか」
「はい」
「大丈夫だ。由稀が帰ってくるのは、そんなに先のことじゃない」
 押し寄せていた頭痛も吐き気も、すっかり引いていた。亜須久は息苦しかった襟元を緩めて、汗ばんだ前髪をかきあげた。
「各国の要人を集めるとなれば、そんなに急な日程は立てられないはずだ」
「はい。それに、噂でしかないのですが、各国に披露する予定の皇室の証しが行方不明になっているそうなので、本当にそうなら、見つかってからになるかと」
「だったら、なおさら心配することはない」
 亜須久には葉利の気持ちがよくわかった。請け負ったことは完璧にこなしたいと思うからこそ、先に憂いを断っておこうとするのだ。
「わかりました」
 葉利は深く頷いた。
「伝えたあとのことは、大丈夫ですか」
「ああ。あいつはきっと自分で考える。自分がどうしたいかを」
 本能的なためらいもなく、由稀は自分の心をいつでも表に晒す。あまりに正直すぎて、ついていけないことも多い。だが彼も昔からそうではなかった。故郷を出てから、成長したのだ。追い詰められて、逃げたくなって、それでも自分を貫いて乗り越えるたび、彼は殻をいくつも打ち破ってきた。そしてきっと、今度もまた成長をして帰ってくる。
 負けられない。亜須久は清々しい心持ちでそう感じた。
「了解です」
 葉利の笑顔は晴れ晴れとして見えた。
「この道を進めば、右に折れて大通りに合流できます。この時間でしたら往来も多いですし、人波に紛れて街を離れられると思います」
「ありがとう。何から何まですまない」
「礼を言われるほどのことではありません」
 葉利は靴を鳴らして敬礼をした。
「道中、お気をつけてください」
「葉利も体に気をつけて」
 亜須久は葉利と握手を交わし、路地を奥へと進んだ。葉利の言っていたとおり、道は右に曲がっていた。真っ暗だった道先が、途端に明るくなる。前に突き出した指に隠れてしまいそうなほど細い出口は、光を上へ辿ると空に繋がっていた。
 上着から、地下書庫の鍵を取り出す。握りしめると質感が感じられた。亜須久は鍵を高く放り投げ、指を鳴らした。一瞬、世界が停止したような錯覚に陥る。鍵は砕けて、金色の砂になり消えた。開いた掌にも、消えながら砂が舞い落ちた。握っても、すでに質量は感じられない。それでも確かにここにあったことを亜須久は知っている。
 手を開く。掌が徐々に赤みを帯びていく。
 この手は、これからどれくらいの殻を破れるだろうか。ただ願うだけでなく、体の奥で真実が叫ぶように。一体どれだけ求めていけるだろうか。
 亜須久は愛を知るものがそうするように、優しい微笑みを浮かべて、続く道を前へと踏み出した。