THE FATES

6.切願(7)

 扉を出て見上げた空は、部屋から見たときよりも無機質で、由稀は軽い落胆を覚えた。扉から離れて、二階の窓を振り仰ぐ。あの窓から見える空は、彼女だけのものなのだ。
 門をくぐると、脇に詩桜がうずくまっていた。地面に座り込んで、脚を抱えて泣いている。袖口は涙で色が変わっていた。
「詩桜。詩桜」
 由稀の呼びかけに、詩桜は髪を揺らして首を振った。
「ほっといてよ」
 鈴のようにきれいな彼女の声は、泣き疲れて嗄れていた。
「そんなわけにはいかない。詩桜をここに置いて、俺にどこへ行けって言うの」
「家に帰りなさい」
 絞り出すような冷たい言葉に、由稀は彼女の痛みをあらためて知る。
「一緒に帰ろうよ、詩桜」
 由稀は手を差し伸べたが、詩桜は振り向きもしなかった。鼻をすする音だけが聞こえる。表情は前髪に隠れて見えなかった。由稀は肩でため息をつき、腰に手を当てて佇んだ。
 本館の扉が開いて、十和(とわ)愈良(ゆら)が姿を見せた。二人は由稀に気付き、話の続きを飲み込んだ。無言のまま門を過ぎ、由稀の横を通り抜けていく。すれ違いざま、十和は由稀の肩を叩いていった。また、託された。
 清路(せいじ)がなぜ果南(かなん)に会わせてくれる気になったのか、由稀にはわかる気がしていた。彼は奇跡を怖れながら、奇跡を願っていたのだろう。だからこそ詩桜の申し出を何度も断り、また、会わせる決意もしたのだ。それがなぜ今日だったのか。それは自分がいたからだと由稀は思った。自分は詩桜のことを託された。由稀は十和の触れた肩を撫でて、小さく気合いを口にした。
 縮こまった詩桜の真正面に由稀も座り込む。詩桜は気付かずに、突っ伏して泣いていた。
 由稀は膝に頬杖をついて、じっと詩桜を見つめた。大皿を運んでいるわりに細い肩を、切り揃えられた丸い爪を、粉雪のように白くて滑らかな肌を、由稀は飽きることなく眺めていた。朽葉色の赤茶けた髪は、艶があり瑞々しい。触れたときのやわらかさを思い出すと、指先が不意に熱を帯びた。
 近い。手を伸ばせば、すぐ触れられる距離にいる。触れたい衝動が由稀の中で芽吹いた。
 詩桜の足元に視線を落とす。履いていたのは、初めて会った日に由稀が拾い上げた靴だった。小さくて、目が覚めるような赤い靴は、勝ち気な彼女によく似合っている。こんなに小さな靴に収まっている彼女の足は、どれほど可愛らしいものだろう。靴から伸びる足首は握れば潰れてしまいそうだ。
 由稀の体は金縛りにあったように強張った。芽吹きはやがて成熟し、花を咲かせようとしている。じわりと彼女の手触りを求めている。由稀はそれを頑なに拒んだ。触れてしまえば、歯止めが効かなくなる気がしたのだ。
 由稀は、嗚呼とため息をもらした。
 詩桜のことが、好きだ。
 人としてだけでなく、一人の女の子としてそう思った。心が引き絞られるような愛しさを彼女に対して抱いていた。これをただの好意として片付けるには、あまりにも狂おしく、表に出すのは憚られた。
 彼女はいつも自由だった。笑いたいときに思い切り笑って、怒りたいときは本気で怒り、泣きたいときには全身で泣いた。それは言葉で言うほど簡単なことではない。貫くからこそ傷つくことも多い。それでも彼女はあえてその道を進んでいるのだ。由稀にはそんな彼女が健気で、ひどくいとおしかった。
 剥き出しの魂は危なっかしく、誰よりも曇りなく輝いていて、陽だまりのようにあたたかい。由稀は彼女の魂を守りたいと思った。
 風が詩桜の髪を乱していく。服の裾が揺らいで、ふくらはぎが見え隠れする。由稀はとっさに視線を逸らした。
 街に往来はなく、世界に二人しかいないような錯覚に陥る。泣き止まない詩桜を見つめ、由稀はこのままずっと時が止まることを夢見た。それは甘美な夢想だった。
 由稀は詩桜の波打つ髪に手を伸ばした。風に流された毛先が手首を撫でる。くすぐったく、さらに焦がれた。あと少しで指先が触れる。あと少し。
 突然、馬の嘶きが響いた。由稀は驚いて手をひき、背後を振り返る。真後ろを一台の馬車が通り掛っていた。馬蹄が鳴り渡り、車輪の振動が地面から伝わる。由稀は彼女に触れずに手を下ろした。
 いつまでも彼女には自由でいてほしい。そう願う自分が、彼女から自由を奪ってはいけない。
「詩桜、帰ろう。梅煉さんが心配する」
 由稀は静かにゆっくりと詩桜を言い諭す。
「帰って一緒に飯食おう。店の準備なら、俺、手伝うし」
 詩桜は由稀の言葉に首を振った。
「どうして嫌なの」
 問いに、詩桜はほんの少しだけ顔を浮かせた。
「こんな顔、見られたくないし」
「え」
「たぶん、目も腫れてるし、前髪だってぐちゃぐちゃだし」
「なんだそれ」
 由稀は大声で笑った。腹を抱えて、道に転がる。一瞬で全ての逡巡が吹き飛んだ。
「ちょっと、そんなに笑わなくてもいいじゃない」
 詩桜は顔を上げて声を荒げた。由稀は笑いを引きずりながら体を起こし、背中を丸くして詩桜の目の高さに合わせた。
「やっと泣き止んでくれた。このままずっと泣きっ放しかと心配した」
「そんなこと、あるわけないでしょ」
「あ。目、確かに腫れてるかも」
「やだ。見ないでよ、恥ずかしい」
 詩桜は顔を背けて、手で隠した。濡れた頬を掌で拭い、むくれた様子で由稀を振り返る。
「なんで由稀にこんなとこ見られなきゃいけないの」
「いいじゃん。嫌か?」
「嫌よ。かっこ悪い」
「そうかな。俺的には結構ありだけど」
「は。どこがよ」
「だって、誰かのためにこんなに泣けるって、すごいと思うよ」
 そう言って由稀は微笑んだ。詩桜は口をぱくぱくと開けて、やがて頭を抱えた。
「ほんと信じらんない。由稀って、どこまでお気楽なの」
「いや、わかんないけど、たぶん死ぬまで?」
 照れて前髪を引っ張る由稀を見て、詩桜は乾ききった笑いをこぼした。ややあって、その笑顔に悲しみが滲む。
「いいな。私も由稀みたいに思えたらいいのに」
 愁いに満ちた薄灰色の瞳は、世界の深淵を写し取ったように翳っていた。彼女は軽く唇を噛んで、心を紡ごうと何度も口を開いた。だが吐息までもが怯えている。
 道の端に捨てられた空き缶が、風に押されてからからと転がる。
 詩桜はゆっくりと息を吸い込み、吐息とともに言葉を吐き出した。
「私、悔しい……」
 声は震えて、千切れそうだった。由稀はただじっと詩桜のそばにいた。詩桜は続ける。
「果南のために何もしてあげられないどころか、何も知らないで、勝手に絆清会(ばんせいかい)を責めた。あいつらが正義だなんて思わない。でも私には果南を助けてあげられない」
 詩桜は遠くを見つめるように、風の行く先を目で追った。
「無力ってこういうことなんだね。よく、わかった」
「そんなこと――」
「続きは聞かない。聞きたくない。由稀にはわからないよ。きっと由稀は何だって出来る人だもん。出来ないことも出来ることに変えられる人だもん。だってそうじゃなきゃ、そんなに前ばかり向いていられない」
「まさか。何も出来なくて失うばかりだ」
 由稀は吐き捨てるように言った。珍しく尖った由稀の声音に、詩桜は思わず黙り込む。由稀は慌てて笑顔を浮かべる。
「ほら。誰にだって、その人にしかわからない劣等感があるってこと」
 あまりにも凡庸な言い繕いに、由稀は自らのつたなさを思い知る。二人の距離は近かったが、その間には深い沈黙が横たわっていた。