THE FATES

6.切願(8)

 石畳の道には、砂が散らばっている。風で運ばれてきた、砂漠の砂だ。指の腹に押し付けてみても、明確な痛みすら感じられない、それほど細かな砂だった。
 手に張りついた砂を払う。服に擦りつけても落ちない砂が、天水の弱々しい光のもと、懸命に輝いていた。健気が過ぎて、苛立ちまで覚えさせる。それは由稀自身への苛立ちだった。
 どんな時でも前を向いていたい気持ちは、嘘ではない。だが何も得られないまま時間だけが過ぎると、何のため誰のために前を向いているのか、わからなくなりそうだった。本当の自分は憎しみにまみれ、怒りで溢れ返っているのではないかと疑うこともあった。前向きを装って、仲間を周到に騙している気がすることもあった。
 胸の奥にぽっかり開いた穴は、すっかり淵が乾ききって、まるで初めから何もなかったように思えた。鬼のいた名残など、もう何もない。あんなに支えてくれた気配すら、忘れてしまいそうだった。あれから何年も過ぎたわけでもないのに、時の流れは確実に由稀の記憶を風化させていた。
 過去の事実だけが目の前に残り、焦りばかりが募っていく。失っていく実感があるからこそ、焦燥に駆られるのだ。
 顔を上げて、俯く詩桜を見つめた。いつもはすぐに言える大丈夫という言葉も、今の由稀には言えそうになかった。謝ることはもっと出来そうにない。
 詩桜は上目遣いに由稀を見つめ返し、躊躇いながら口を開いた。
「ごめんね、八つ当たり」
「え」
 由稀は突然の謝罪の言葉に、目を瞠った。
「どうしたの。詩桜から謝るなんて珍しい」
「失礼ね。私だって、悪いと思ったときはちゃんと謝るの」
 頬を淡く染め、詩桜は強く言った。由稀は両手を軽く上げて、彼女の怒りを宥める。詩桜は唇を尖らせながらも、素直に従った。
「ねえ。由稀は殊来鬼(しゅらき)の能力の話、知ってる?」
「能力って」
 そこまで口にして、由稀は龍羅飛跡へ行ったときの詩桜を思い出した。伸びやかに歌う彼女を前にして、由稀は心を打たれたのだった。
「そういえば瞬から聞いたよ。詩桜の歌には力があるんだって。名前の由来のことも」
「そっか。瞬は能力のこと、どう言ってた」
「えと、確か」
『もし目覚めたなら、街の一つや二つ、どうにでも出来るだろう』
「あ、言葉を音に乗せたら力を発揮するって聞いたよ」
 由稀ははっきり覚えている瞬の言葉を無視して、うろ覚えの記憶をかいつまんで話した。詩桜は何ら疑う様子もなく、そうかと呟いた。
「私ね、まだ子供なの」
「まあ俺より年下に見えるし、そう言われても不思議には思わないけど」
「実際は由稀よりずっと長生きしてるんだから、思い上がらないでよね」
 詩桜は体を前に乗り出した。由稀は体を後ろに引いて、首を激しく振る。
「そんなこと思ってないよ」
「ならいいけど」
 素直に引き下がり、詩桜は脚をぺたりと地面につけた。
「私の力は、歌うことで叶える力。誰かの傷を治したり、失くしたものを見つけたり、心の痛みを取り除いたり。あまり実用的ではないけど、それでも素晴らしい力なんだって、梅煉が教えてくれた」
「俺も素敵な力だと思うよ」
「でも、歌は嫌い」
「どうして」
 由稀は今でもすぐに、彼女の歌を思い出すことが出来た。崩れた街の只中で聴いた詩桜の歌声は、小鳥の囀りのように可憐で、女神の眼差しのように慈悲深かった。忘れられるはずがない。
「あのとき聴いた詩桜の歌は、歌が嫌いな人の歌なんかじゃなかった。街は確かに癒されていたんだ。優しくてあたたかくて……。だから俺は」
 思わず出かけた言葉を飲み込んで、由稀は咳払いでごまかす。
 詩桜は由稀の口篭もりを気遣いと勘違いして、また謝った。
「だって無意味に歌ってはいけないし、誰かを救えると安易に考えてはいけないって。だから重苦しくて」
「詩桜……」
 由稀は彼女の名を呼んで、彼女を強く抱き締めたい気持ちを抑えようとした。だが名を口にするだけで、胸は愛しさで溢れた。せめてと思い、由稀は彼女を真っ直ぐ見つめた。詩桜は時折視線を上げて、由稀と目を合わせた。
「本当は歌うのが大好き。歌ってるときは、まるで自分が鳥になったみたいに感じる。そのくらい自由になれる。生きてる心地がするの」
 目を閉じて、詩桜は微笑みを浮かべる。淡く染まる頬は、歌への愛に満ちていた。由稀にも詩桜の気持ちが伝わる。だがその笑みは突然途切れた。詩桜は目を開けて、虚ろに街を眺める。彼女の薄灰色の瞳には、深い悲しみが沈んでいた。
「でも、その歌で救われるのは自分だけで、それって自己満足なんだと思うと、恥ずかしくて、つらくて。歌が少し嫌いになる」
 詩桜の瞳に涙はない。だが彼女は見えない涙を静かに流していた。
「今、力があったなら、私にも果南のことが救えたかもしれないのに」
 由稀は果南の涙を思い返す。涙の本当の意味は由稀にはわからない。喜び、悔しさ、悲しみ、そのどれもが彼女に見えたからだ。詩桜は果南の涙を見ずとも、それらの混在した気持ちに気付いていたのだろう。
 だが果南の涙を知った由稀は、さらに向こうにある果南の心を悟っていた。
 彼女は詩桜によって救われたのだと。
 それは詩桜が求める救いの形ではなかったかもしれない。むしろ詩桜は会いに行くことで更に果南を傷つけたと思っているかもしれない。だが果南の涙は、静かに道を濡らす霧雨のようだった。土を湿らせ、花を潤し、大気を清める、禊ぎの雨だった。
 この事実を伝えたい。だが清路に言われた言葉が頭から離れない。
『彼女に変化を起こそうとするのも、こちらの勝手でしかないんだ』
 今の果南には拒むすべがない。彼女が望む仕方での救いは、知ることすら難しかった。
「詩桜、聞いてくれるかな」
 由稀のやわらかな声に、詩桜は顔を上げた。目顔で首を傾げる。由稀は眉を寄せて微笑んだ。
「何が果南のためになるのか、それを果南の立場になって考えるのはすごく難しいと思うんだ。でも、果南のために何かしてあげたい詩桜の気持ちを、おざなりにはできない。だったら両立させよう」
 由稀は詩桜の手首を掴み、噛みしめながら言った。
「果南のこと、願ってみよう。俺も一緒に、そばにいるから」
 顔を覗くと、薄灰色の彼女の瞳は戸惑いに揺れていた。
「願う……って、何を」
「何でもいい。果南の幸せを、明日を、未来を考えるんだ。わからなくても、驕りでも。詩桜の素直な気持ちを持ち続けて。果南のことが好きだって気持ちを。また一緒にご飯が食べたいとか、買い物に行きたいとか。内容は何でも、詩桜の思うままに、さ」
「だけど果南は、もう……」
「奇跡は必ずあるから。奇跡が奇跡じゃなくなる日だって」
 いつか来るのではない。それはすでに訪れているのだ。
 由稀は心の中で呟いて、顔を逸らした。嘘をつくことも黙っていることも、あまり得意な方ではない。詩桜の前ではそれが顕著だった。
 手首を掴む由稀の手に、詩桜の小さな手が触れた。
「ありがとう。気持ちは嬉しい。でも、由稀には――」
「関係ないって言わないで。俺だって果南に出会った」
 由稀は顔を上げないまま首を振った。鼻先に詩桜の視線を感じる。由稀はあぐらをかいて、掴んだ詩桜の両手を引き寄せた。親指で彼女の指の付け根を撫でる。詩桜の肌に触れているときの自分の手は、世界中の何よりも繊細で貪欲な生き物に思えた。この温もりがあるだけで、無敵になったように感じられる。
 胸の奥の暗い穴に、雨が降る。
「願えば何でも出来るとまでは言わない。願うからこそ叶わなくて、思いが募って苦しいこともあると思う。でも、可能性は少し広がる気がするんだ」
 天水の変化がない空も、由稀には毎日違って見えた。それは毎日が新しいものであるように願う、由稀の主観的なものかもしれない。だが主観を一切排除した知覚など、それは知覚ではない。
 願うだけで変わる世界などない。だが願えば願うだけ、世界をそのように見られる。そのように見られたなら、自分にとっての世界はもう別物だ。
 ただそれは、ひどく利己的な世界でもある。願いの対価として失うものも多い。本当は、詩桜にそんな悲しい思いをさせたくない。それでも願いを語らずにはいられない自分がいた。
「たとえ、誰か傷つけることになったとしても、それでも願い続けるなら」
 彼女に自由でいてほしい。そう思いながら、彼女が願いに縛られることも望んでいる。鼓動と鼓動の残響のように切り離すことは出来なかった。
 詩桜への気持ちが光と影に塗り分けられていた。光は影になり、影は光になる。どちらかを否定すれば、どちらも消えてしまいそうだった。
「由稀は、願ったことがあるの?」
「どうかな」
 由稀は曖昧な笑みを浮かべた。今まさにそうだとは言えない。
 脳裏に神殿の白さが浮かんだ。
「願ったことは、あるかもしれない。でもそれは本当の願いだったのかなって思う」
 光を湛えた白い世界に、亀裂が入る。凍りつきそうな激しさが背後から吹き付ける。
「もっとすごい願いに、出会ってしまったから」
 祭壇から見上げた空は透徹した青さで、目の前に見つめた黒い双眸はずっと遠くの空に焦がれていた。
 ありえるはずがないと思っていた。あんなふうに激情にも似た願いなど、絵空事だと思っていた。
「あれが本当の願いなんだと思う」
 そして今、由稀の中に芽生えた願いもまた、静かに激しく波打っている。
 詩桜は繋ぐ指先に力を込めた。
「傷、ついたんだね、由稀。ねえ、だったらどうして笑えるの。どうして許せるの」
「悪意じゃないと思うと責めきれない。俺には、どうしても憎めないんだ」
 肌に触れ、体を抉っていった彼の願いは、あまりにも痛切で、彼の命が染みこんでいた。青竜は久暉の存在が世界に繋がることを、ただ願っただけなのだ。それを憎めるほど、由稀と青竜の絆は深くはない。今になって思えば、それも青竜の優しさだったのではないかと勘繰ってしまう。
「もしかして、その願いを叶えてあげたいとか、思ったりするの」
「俺に、何かできるなら。ね」
 眉を下げて笑うと、胸の底で水溜りが跳ねた。本心と欺瞞が絡み合って、うまく笑えない。
 詩桜は幼子を愛でる眼差しになって、繋いだ手を左右に揺らした。
「やっぱり馬鹿ね。由稀は」
 由稀の手からすり抜けて、詩桜は由稀の頬を強くつねった。
「いたっ」
 頬を押さえて見つめ返すと、詩桜は口を大きく開いて笑っていた。由稀はつねられた頬が火照るのを感じた。
 詩桜は立ち上がって服についた砂埃を払う。立ち込めていた悲しみは、風に一掃された。
「ねえ。だったら今は、私のお願い聞いてほしいかも」
「いいよ。なに」
「あのね、行きたい場所があるの。付き合って、くれるかな」
 首を傾げ、詩桜は由稀に手を差し出した。由稀は彼女の手を取って立ち上がる。
「もちろん」
 たとえ彼女の願いで誰かが傷ついたとしても、そのために彼女が悲しみに暮れたとしても、その全てを拭い去って抱きしめればいい。由稀は繋いだ指先に誓った。