THE FATES

6.切願(9)

 詩桜は少し遠い場所だと言って歩き出した。由稀は彼女の背中を眺めて、あとに続いた。大股で追いつき、横に並ぶ。
「俺は多少遠くても大丈夫だよ」
「あいつのスウィッグなら、すぐなんだけど」
「スウィッグ。ああ、紅の」
「お皿、ちゃんと持って帰ってくれたかな」
「大丈夫だろ。羅依も一緒だったし」
「あ、うん。そう、だね」
 詩桜は由稀を見上げようとして、不意に顔を逸らした。由稀は背を丸めて詩桜を覗き込む。
「そんなに心配しなくても、梅煉さんは話せばわかってくれるだろ」
「別にそれを気にしたわけじゃなくて」
 詩桜はそう言って口篭もった。覗き込んでくる由稀から更に視線を逸らして、伏し目がちになる。由稀は体を起こして前を向き、首を傾げた。彼女の気に触るようなことを言った覚えがない。顎に手を当て、低く唸る。
 あまりに考え込む由稀を見て、詩桜は観念して口を開いた。
「羅依のことなんだけど」
「へ」
 思いも寄らなかった言葉に、由稀は素っ頓狂な声を出した。
「羅依がどうかしたか」
「それが……」
「もしかして、あいつとやりにくいか。確かに無愛想で鈍いところあるけど、悪い奴じゃねえから。男みたいだし、っていうか前はもっと男みたい、いや完璧男で俺も騙されたんだけど、なんつーか、最近はそれほどでもないし、大丈夫だよ」
「由稀、それ何の足しにもなってないよ」
「あ……、いや、だからさ、とっつきにくいところもあるけど、いい奴だから」
「うん。わかってる。由稀が心配してることじゃないんだ。えっと、あのね。羅依と由稀は友達、なんだよね」
「ああ、まあそうだけど」
 由稀には詩桜の話がまったく見えない。詩桜は乱暴に自分の指先を引っ掻いた。
「友達だったら、何でも知ってるよね」
「とは、限らないけど。まあ、話は結構するよ」
「そ、そか」
 詩桜の白い手に、引っ掻いた痕が赤く浮き上がる。由稀は詩桜の手を掴んで、爪を立てた手を引き剥がした。詩桜は無意識だったのか、手を見下ろすと体の後ろに隠した。
「どうしたんだよ。らしくないな。はっきり言えよ」
 由稀は足元に転がっていた小石を強く蹴った。石は道の窪みで跳ね上がりながら、壁際へ沿っていった。
 詩桜は大きく息を吸った。
「だったら単刀直入に聞くけど、羅依は瞬のことが……好き、なんだよね」
「はあ」
 眉をひそめて、由稀は返事にもならない声を洩らす。詩桜は由稀の表情に気付かず続けた。
「ねえ。だったら、瞬はどうなんだろう」
 詩桜は顔を上げた。
「羅依のこと、好きなのかな」
 由稀はとっさに息を止めた。逼迫した詩桜の声音は、由稀までも不安の淵に追いやった。
 歩みを止めない足が、他人のもののように感じられる。由稀は表情を悟られないように、口元に手を当てた。
「好きだったら、詩桜は困る?」
「困るっていうか。うん……、複雑」
「複雑って」
 由稀は詩桜の言葉を反芻して、心の内で舌打ちした。たった一言口にしただけで、勝手な思惑が外に漏れ出た。内側にある間は見なくても済むが、体から離れた瞬間、醜態が光のもとに晒される。見なければならない。由稀は嫌気が差した。醜い胸のうちだけではない、そこから目を逸らす自分にも辟易した。
 見るたび真新しい未知の彼女を楽しみにしながら、彼女の全てを知り尽くしたいと思っている。彼女の自由を願いながら、彼女をここに繋ぎとめたいと思っている。詩桜に対して芽生えた感情は、日向のように暖かく優しい手触りをしているはずなのに、少し目を離すと、陽の射さない水溜りのように濁って腐臭が目立った。
 願いも誓いも、朧。それに縋らねば彼女を見つめられない自分は、盲目なのだろう。
 だが気付いたからには、確かめねばならない。
「それは、詩桜が瞬のこと好きだからか」
 静かに、呼吸を整えて問いかける。もしの先は、できるだけ考えない。いや、もう思いつく限り考えきった後だ。由稀は天から吊るされた縄に、首をかけるような心地がした。
「瞬のこと……」
 詩桜は首を横に振った。
「嫌いじゃないよ。瞬は、大切な人」
「そう、か」
 胸を撫で下ろし、小心な自分に失笑する。望んだ答えのはずが、手に入れてみると取るに足りない。どこかでそれに気付きながら、望まずにはいられなかった。
 暗い穴に自我が潜んでいる。外の世界を舐めるように見つめて、表舞台に立つ日を待ち焦がれている。悪意ではない。愛情に違いない。だが自我から零れた愛は何も生まない。
 押さえつけるだけでは反撥する。無視すれば内側から乾いて崩れてしまう。自分自身を手なずけることは容易ではない。そしてそれは由稀だけに限ったことではない。
 天水の空を見上げる。この地へ来てから何度もこうやって空を見つめた。変化がないように見えるのは、色合いの幅が広いからだ。一つに留まらない色だからだ。だから変わりないように見えて、いつも違って見える。これは、地上の色が混ざり合っている色だ。また、違うように見えていつも同じに感じる。この灰色の空はいつも悲しい色をしている。
 詩桜は由稀の問いに、確かに首を振った。
 嫌いじゃない。でも、好きでもない。由稀にはそう聞こえたのだ。
 瞬と再会したときの詩桜の喜びようを、由稀はその目で見て知っている。詩桜が瞬のことを嫌いであるはずがない。もちろんそれが家族的な愛だとしても、好きと言い切らないことが引っかかった。
「鬼使のせいか」
「ううん。それは関係ない。瞬の罪が消えることはないけど、鬼使を作り出したのは瞬だけの責任じゃないってわかってるから」
 詩桜が嘘をついている様子はなかった。
「なあ、詩桜」
 由稀の呼びかけに、詩桜は上目遣いに見上げた。無邪気な仕草に負けないよう、由稀は心に蓋をした。
「どうして」
 思いのほか冷たい声に、一瞬怯む。彼女のために彼女を傷つける方法しか知らない自分が歯痒い。
 奥歯を擦り合わせるようにして、短く喝を入れる。
「どうして瞬のこと好きって言わないんだ」
「あ……私」
 詩桜の歩みが遅くなる。止まりそうになるのを、由稀は無理矢理引っ張った。
「俺には道わからないから。詩桜、顔上げて」
「このまま真っ直ぐ。道なりに真っ直ぐ……」
 額を押さえて、詩桜は絞り出すように言った。だがどうしても足は止まってしまった。由稀は手を繋いだまま振り返って、ため息をついて微笑んだ。蓋した心を解き放つ。彼女が気付いてくれたなら、もう由稀が小細工を弄する必要はない。思うまま、彼女を守る羽根になれる。
「話、何でも聞くよ。俺で良ければ」
 繋いだ手を引き寄せて、背中を軽く押す。歩く速さも詩桜に合わせた。詩桜は指の隙間から由稀を見上げた。
「別に、泣いてないからね」
「そんなこと言ってないし、思ってないよ。さっき散々泣いたわけだし、もう飽きただろ、詩桜だって」
「うん。飽きた」
 詩桜は顔に翳していた手を下ろし、頭を激しく振った。
「もし瞬が羅依に惹かれてるなら、きっと素敵なことだと思う。それはほんと。誓って、嘘じゃない。嘘じゃないんだけど、どうしてかな。どうしても心の整理がつかなくて」
「それは羅依のせいか」
「違う。羅依は悪くない」
「だったら――」
「瞬にはずっと、ずっとずっと、尋宮(ひろみや)様を思っていてほしいの」
 詩桜は上着の前を合わせて、祈るようにして握った。
「尋宮って、茜さんのことか」
 詩桜は小さく頷いた。
「由稀は尋宮様に会ったことある?」
「あるよ。話もした」
「だったら、どうして尋宮様が亡くなられたかも、知ってる?」
「それは、病気で……」
 薄灰色の詩桜の眼差しが暗く翳る。胸の奥で、歪な積み木が外れて落ちた。
「違うのか」
 詩桜は、深く頷いた。
「尋宮様の死は、すでに訪れていたもの。それを今まで引き伸ばしただけ」
「すでに訪れてたって、どういうことだ」
「そのとおりの意味。あの方は紅が生まれるより前に、本当は一度死んでいるのよ」
「まさか、そんなことが」
 唾を吐き捨てるような笑いを浮かべて、由稀は強い声で言った。しかし詩桜は怯まなかった。
「ありえたの」
 詩桜の声は冷たかった。感情を極限まで抑えこんだ声だった。由稀は問いかける余地すら奪われ、黙り込んだ。
 茜が倒れたとき、生まれて初めて死を間近に感じた。真っ青な顔をして、美しかった黒髪も麻糸のようにごわついて、生命の輝きが萎んでいく様を目の当たりにした。それまで、生きていることを特別に感じたことはなかった。当たり前だと思っていた。だが、死の翳りを初めて感じ取って、恐怖した。あの時、駆け出した紅を追ったのは、彼だけのためではない。由稀自身もあの場に長く居られる自信がなかった。潮風に混じって滲み出す死から逃げたのだ。
 血や呻き声だけが死の兆候ではない。人が人としてあるために存在している塊が、徐々に失われていくことこそが死への歩みであった。それに気付いて、由稀は世界の奇跡に思い至った。世界は愛しさや慈しみに溢れているのだと知った。だがその気付きの代償は大きかった。
 茜が死んだ日の紅を思い出す。隣で見ているだけで息苦しい姿だった。茜が死んでからの瞬を思う。覗き込んだ深緑の瞳は、いつしか乾ききって揺らぐことを忘れてしまった。
 死は感染する。茜だけを喪ったのではない。茜が寄り添った紅と瞬の心も、あの日から壊死したままだ。
 道は緩やかにくだりながら左へと曲がっていた。並んでいた四角い建物も疎らになり、金網に囲まれた更地が目立った。風は強くなり、耳朶が冷たくなった。宮殿に吹く潮風が肌によみがえる。
 黙りこんだ由稀の袖を、詩桜は遠慮がちに引いた。
「由稀……?」
「あ、ごめん。大丈夫」
「ねえ。その病気って話、紅から聞いた?」
「ああ」
 返事をして、由稀は息を呑んだ。
「そうか。紅も茜さんが病気だったと思ってる」
「うん。そうだね。でも仕方ないよ。本当のこと知ってる人は、限られてるから。王家も、ほとんど知らないかもね。……知ってても、紅には言わないだろうけど」
 道の片側には高い塀が姿を現した。石畳の道に沿って先まで続いている。角を曲がると、塀の先には鉄柵の門が佇んでいた。道はやや狭くなり、馬車が一台通れるほどだった。
「でもどうして茜さんはそんなことに」
「それは――」
 詩桜は風に向けて顔を上げた。前髪が吹き上げられ、聡明な額が晒される。
「瞬が殺したのよ」
「え……」
 由稀は詩桜を振り向いて、言葉を失った。