THE FATES

6.切願(10)

 首筋を吹き抜ける風は、乾いていて味気ない。色のない寂しい風だ。由稀は目にかかる髪を手で押さえて、笑みともつかない弛緩を口元に浮かべた。
「そういう比喩、結構聞き飽きたかも」
「ほんとのことだよ」
「ありえないだろう。まさか瞬が茜さんに手をかけるなんて」
 口にして、違和感が更に増大する。なんて恐ろしい話をしているのか。事実であるはずがないと思いながら、頭の隅で由稀はただ一つのありえる想定をしていた。
 それが瞬でなかったなら。それが鬼使だったなら。
「まさか、本当に……?」
 凍えそうな由稀の問いに、詩桜は目で頷いてみせた。
「瞬はある人と戦わざるを得なくなって、その時に鬼使の力が暴走した。私は見たことないけど、すごいらしいね。鬼使の力って」
「ああ。そうだな」
 由稀は低い声で答えた。耳元を掠めていく風音が、鬼使と対峙した時の血潮によく似ていた。
「知ってるんだ、由稀も」
「少しだけ」
「みんな、鬼使の話になると言葉少なになるよね」
「それは、まあ……」
 間近に感じた鬼使の《気波動(きはどう)》は、触れずとも相手を切り裂きそうだった。できればあんな思いは二度としたくない。
 詩桜は前を向いて、話を続けた。
「尋宮様は二人の戦いをとめようとして、間に入って……、瞬の《気波動》を代わりに受けてしまったの」
 二人の足取りは、下り道にもかかわらず重かった。
「そして尋宮様は紅を身篭ったまま、瀕死の重態になった。蓮利朱(れんりしゅ)へ運び込まれたときには、意識もなくて、もう手の施しようがなかったって聞いた」
「蓮利朱ってことは、凍馬さんか」
「よく知ってるね。実際に診たのは姉の琉霞(るか)さんの方だけど。すごい術者なんだよ、琉霞さんは」
「へえ……」
 凍馬に姉がいるのは初耳だった。だが思えば、由稀は凍馬のことを何も知らない。知っているのは、相当な治癒能力を持っていることと、瞬の友ということだけだ。
「凍馬さんより、すごいんだ」
「あの人は治癒もそれなりにできるけど、それよりもっと得意なのは計略っていうのかな。罠を仕掛けたり、相手の動きを封じたりする方が好きみたい。性格の悪さって術にも出るらしいよ」
「そんなこともないと思うけど」
 由稀は詩桜に聞こえないよう小声で呟いた。凍馬の笑顔を思い返しても彼の朗らかさばかりが目立つ。ただ、あまりに穏やかさが過ぎて、浮世離れした感は否めない。
「琉霞さんの場合は、彼女に癒せない苦しみはないって言われて、昔は家の前に救いを求める人たちが列を作ったくらい」
 琉霞が凍馬より高い能力を持っているなら、それはまるで神のような存在になるだろう。詩桜の話は必ずしも大袈裟ではない。
「そんな琉霞さんでも、尋宮様を助けることは不可能だった。紅もいたからかな。二人分、でしょ」
 詩桜は指を二本立てたものの、すぐに思い直して手を引っ込めた。俯き加減に歩き、肩でため息をつく。波打つ髪も軽やかさを失っているようだった。
 天水の風は音が強い。風そのものが強いだけでなく、風音に砂の流れる雑音が混じっているのだ。砂漠のただ中にいるより、反響しやすい市街にいる方が更に大きく聞こえた。
 俯いたまま、詩桜が何事かを呟いた。だが由稀は聞き取れず、強い口調で聞き返した。思い定めて、詩桜が顔を上げた。
「助けるには、禁忌を犯すしか……道は」
「禁、忌」
 間の抜けた繰り返しに、詩桜は横目で由稀を見た。
「そう。能力の高い種族にはいくつかの禁止事項が課せられてる。特に重要視されているのが、三大種族の上位禁忌。殊来鬼の禁忌は名前を変えること。龍羅飛は時間の流れを操作すること。そして蓮利朱の禁忌は、命の、やりとりをすること」
 詩桜の声は震えていた。話す覚悟が揺らいだのではない。声に痛みが滲んだのだ。
「詩桜、大丈夫か。疲れたなら、少し休憩――」
「いらない。ほら、目的地までもうすぐだし」
 詩桜は由稀の手をやんわり払って、道先を指差した。遠くに見えていた鉄柵の門が、随分近くなっていた。門は左右の塀の高さに比べて低く、簡素なものだ。近付くにつれて質感は見て取れるようになったが、装飾らしいものは何もなかった。風に煽られて、南京錠が音を立てている。
「あれは、市街の出入り口か」
「あ、うん。そう。今日は交易の日じゃないから閉じてるけど」
 上ずった声で答えて、詩桜はまた俯いた。由稀は彼女の肩を軽く叩いた。
「話したくなくなったら、それでいいよ」
 しかし詩桜は首を振った。
「話す。そう決めたから」
 詩桜は短く歌を口ずさんで、大きく息を吸い込んだ。
「命のやりとりにはいくつか種類があるんだって。対象が術者の血縁なら、魂を術者と繋いでこの世に引き止めることができる。でも血縁じゃないなら、誰か他の命を犠牲にするしかなくて、つまり、誰を生かして誰を殺すか選べることになる」
「そんな……」
 由稀は言葉を失った。死という未来を入れ替えるなど、人が為していい所業ではない。
「琉霞さんは禁忌の道を取った」
 由稀には見たこともない凍馬の姉を、想像することすらできなかった。どんな眼差しで、どのような心持ちなら、その禁忌に手を染めることができるのか、理解できなかった。
 ふと、脳裏に宮殿の中庭が浮かんだ。
「あ……」
「どうしたの」
「いや、なんでもない」
 由稀は詩桜から顔を逸らして、口元に手を添えた。
 思い出したことがある。
 この話を、由稀はすでに知っていた。
 まだ茜がいた頃に、話してくれたことがあった。聞いたときには、あまりにも遠い話に思えた。自分とは何ら関わり合いのない、誰かの話だと思っていたからだ。
 由稀は横目に詩桜を見る。もしやここは、渦中なのか。
「一体誰が、身代わりに……」
 由稀は掠れた声で問うた。歩くたび擦れ合う袖から、じわりと躊躇いが伝わる。
「私の、お母さん」
 由稀には相槌すら返すことができなかった。詩桜は俯くこともなく、人形のように平らな表情で道先を見つめていた。詩桜の痛みは大きすぎて、小さな彼女の体では表現することも難しい。泣き崩れてくれた方が、接しやすい。その方が彼女らしくもある。
『君は、ちゃんと君だよ』
 茜に言われた言葉が不意によみがえる。
 どんなに自分を閉ざしても、閉ざそうとする自分から逃れることはできない。自分を偽ることは、保身に見えて実はそうではないと彼女は言った。
 あの時の由稀は自分の変化に戸惑い、人のことを気にしていられる余裕などなかった。茜はそれに気付いていたのか、器用なほど軽々しく自らの『死』について語った。だが由稀を励ますだけなら、他の言葉があったはずだ。また、彼女自身のことを話したかったのなら、あまりにも軽い言葉を選びすぎにも思う。
 真っ青な空を眺めていた茜の横顔は、人の生死を語るにはあまりにも美しかった。彼女は幸福に満たされていた。
 もし茜が禁忌を強いても生き残る未来を予見していたなら。
 瞬を独り占めするための賭けに出たのだとしたら。
 由稀は思い至った考えに身震いした。
 隣を歩く詩桜に視線を投げる。噛み殺した悲しみは、見えない旋律となり彼女を包んでいた。
「瞬と戦ってた相手、私のお母さんなの。染芙(せんふ)って名前でね。とてもきれいな染物を作る人だったらしいよ」
 詩桜の言葉はたどたどしかった。まるで見知らぬ他人の話をしているようだ。
「らしい、っていうのは」
 由稀の問いに、詩桜は力ない笑みを浮かべた。
「あんまり一緒に暮らしたことないから」
「じゃあ何も覚えて?」
「ううん。声とか顔はぼやけてるんだけど、匂いはすごく覚えてる。優しい陽だまりの匂いがした」
 詩桜は服の裾を上げて、崩れた石畳を飛び越えた。壁際は道の状態が悪かった。由稀は詩桜と入れ替わった。
 喉の奥にぶら下がったままの言葉がある。由稀は顔に出ないよう、必死にその言葉を飲み込もうとしていた。
 いいな。
 その一言が詩桜の心を頑なにすることは、目に見えていた。
 親の記憶など何一つない由稀にとって、詩桜の中に生きる母の残り香はひどく羨ましいものだった。
 だがその微かな記憶が、詩桜を更に孤独にする。夢によみがえる香りが、郷愁を呼び起こす。叶わない温もりは、ただ残酷なだけだ。
 青竜は言った。本当の愛は夢を与えないことだと。それこそが傷を最小限に抑える方法だと。由稀はようやく青竜の意図を理解した。
「尋宮様はお母さんを庇って倒れた。そしてお母さんは尋宮様を助けるために、命のやりとりを頼んだ」
 鈴のように透き通った詩桜の声が、悲しみの純度を上げる。
「何それ、って思わない?」
 悲しみは怒りの薄布をまとった。はちきれんばかりの激情を、詩桜は掌に握りしめた。
「だって結局、術は不完全で、尋宮様は死んでしまったじゃない。だったら何のためにお母さんは死んだの。これじゃ、無駄死にだよ」
 決して泣かない詩桜が健気で、そんな段階はもうとっくに過ぎてしまっていることが不憫でならなかった。由稀は喉の渇きに気付いた。
「お母さん、こう言ったんだって。瞬には尋宮様が必要だ。彼女までも喪ったら、瞬は正気のまま生きられる手がかりを、全て失ってしまうって」
 渇きは癒されることなく、ただ募るばかりだった。求める気持ちが溢れて、また渇いていく。
「だったら私はどうなるの」
 由稀は無言で詩桜を見つめた。視線に気付いた詩桜が由稀を見上げる。
「どうして私は、お母さんに選んでもらえなかったの」
「……詩桜」
 唇は湿りを失い、声は滑らかさを失っていた。抗って洩れる息が、耳にうるさい。由稀は真っ直ぐ見上げてくる詩桜の瞳を、懸命に見つめ返す。逸らしてはいけない。
 詩桜は眉を下げて微笑み、前を向いた。
「お母さんがどうして瞬と戦うことになったのかは、わからない。梅煉に聞いても教えてくれない。でも、どうしても仕方がなかったんだって」
 なだらかに続いていた坂道はゆるゆると消えた。いくつもの分かれ道が放射状に延びている。一本、大きな道がある。先には、水輝城が見えた。
「おかしいよね、仕方ないなんて。そんな理由ないよね」
 詩桜は肩を竦めて笑った。
「家族も未来も自分の命までも、全て擲ってでもしなきゃいけない戦いって、なに。誰かの幸せのために自分の家族を悲しませる愛情って、なに」
 詩桜は立ち止まり、由稀の袖を掴んだ。由稀に振り払うことはできない。だが答えを返すこともできない。
「ねえ、それが由稀の話してた、願いってやつなの」
 水輝城(みずきじょう)の尖塔に掲げられた旗が、千切れんばかりに閃いていた。天水は今にも崩れそうな積み木のようだと由稀は思った。
「だったら私、願いなんていらない。誰かを悲しませるくらいなら、私が一人で背負う」
 詩桜は唇を噛んで眉を寄せた。まるで小さな子供のようだった。由稀は袖を握りしめる詩桜の手を上から包み込んで、ゆっくりと首を振った。
「それは無理だよ、詩桜」
「どうして」
 真っ直ぐ向けられた詩桜の瞳が、由稀の理性を揺さぶる。衝動が背中を這った。彼女を抱きしめるのは簡単だ。だがそれでは彼女に伝わらない。由稀は袖にしがみついた詩桜の手を、割れ物でも扱うように優しく離した。
「だって……」
 繋ぎ切れない手が、二人の間でたゆたう。
「詩桜が全部背負うことを、悲しむ人がいるから」
 そう言って、由稀は小さく微笑んだ。それで、精一杯だった。