THE FATES

6.切願(11)

 辿り着いた門は、由稀より少し高いくらいだった。手を伸ばせば楽に手をかけられる。
 鉄柵に錆は見当たらない。雨がなく、乾いた天水には、そもそも錆がない。黒い塗装が剥げた部分も、重い鈍色をしている。由稀は鈍色の部分を握って押してみた。錠が嫌がり、大きな音を立てた。手を嗅ぐと、鉄の臭いがした。
 柵の間からは、砂漠の稜線が見える。砂丘がひしゃげたように感じるのは、遠くの空が濃く翳っているせいだろう。
「詩桜が来たかったのは、ここ?」
「ううん。この向こう側に行きたい」
 詩桜は柵の向こうを指差して言った。
「え、でも鍵が」
「だって今日は交易の日じゃないもん。たまに役人が閉め忘れることもあるけど、残念ながら今日はそうじゃないみたいだね」
「じゃあ、もしかして」
「そう。頑張って乗り越えるの」
「まさか、そのために俺を連れてきた?」
「うん。ちょっとだけ期待してた」
 詩桜は親指と人差し指で隙間を作り、そこから由稀を覗いた。由稀は何も言い返せずに頭を掻いた。
「俺が先にのぼるから」
 門の上部へ手をかけて、自分の体を軽々と引き上げる。跨ぐようにして細い柵の上に座り、腰にさす短刀に手をやった。しかし手に馴染む感触がない。下を覗きこんでみるが、やはりない。落ちたなら音がして気付くはずだ。
「あ、そか」
「どうかした?」
「いや、絆清会で預けた短刀、受け取りそびれたな。と」
「あいつら、もしかしてわざと」
 来た道を振り返って詩桜は言った。由稀は詩桜に向かって手を伸ばした。
「それはないと思うよ」
「どうしてそう言えるの」
「なんとなく、かな」
「またそんないい加減なこと言って。由稀って絶対に損する性格。もっとちゃんとしなきゃ」
 詩桜は由稀の手を掴んで、柵に軽く足をかけた。上から由稀が引っ張り上げる。
「そうかなあ」
 絆清会の本館前ですれ違った十和からは、やましい様子が感じられなかった。だから由稀も今まで気付かなかったのだ。
 詩桜は足を揃えて、外の世界へ向き直る。由稀はなるべく柵を揺らさないようにして、先に地上へおりた。
「取りに戻るって言っても、あいつらどっか行ったしな」
「昼間はあちこち巡回してるから、掴まえるの大変だよ」
「詳しいな」
 由稀は詩桜を見上げた。詩桜は無邪気に歯を見せて笑った。
「だってずっと付きまとってたもん」
「知ってるよ。ほら」
 両腕を伸ばして詩桜を催促する。詩桜は由稀の腕めがけて門の上から飛びおりた。由稀は彼女の両脇を支えて受け止め、ゆっくりとおろしてやる。掌に体のやわらかさと骨の手触りが残った。
「問題は、羅依をどう丸めこむかだな」
 由稀は両手を服に突っ込んで、乾いた声で呟いた。
「羅依でも怒ったりするんだ」
「するよ。しかもあれは絶対に失くすなって言われてたからなあ」
「お詫びに、一日中何でも言うこと聞くとか」
「そんなこと言ったら、鬼みたいな鍛錬に付き合わされる」
 想像しただけでも体が悲鳴を上げそうだった。由稀は頭を抱えて、水を嫌う動物のようにぶるぶると首を振った。詩桜の笑い声が響く。
「仕方がないから、私からも許してって、お願いしてあげる。付き合わせたの、私だもん」
 はだけた羽織を胸元に寄せ、詩桜は小さく飛び跳ねた。由稀は顔を上げ、目を細めた。
「そうしてくれると助かるよ」
 門の外側には、小さな小屋が一つ、塀に沿うようにして建てられていた。窓は曇っていて、中は見えない。無人のようだった。塀との細い隙間には手車が、小屋の壁に凭れかかるように置かれ、上にはでこぼこになった金盥が乗せられていた。
「交易日には役人が来て、商人の出入りを管理するの」
 由稀は窓に顔を近づけて、明かりのない部屋を覗いた。窓の直下に机が見えたが、その向こうはかすかに奥行きが感じられるだけで何も見えなかった。
 振り返ると、詩桜は小屋の前から続く坂道を下っていた。
「詩桜」
 呼びかけは、口の中で死に絶えた。
 色のない世界に、朽葉色をした詩桜の髪が揺れ動く。渋みのあるその赤は、まるで天水の動脈のようだ。どくどく、どくどくと脈打っている。詩桜の心が世界に送り出されようとして、だが手段を持たずに身悶えていた。
 龍羅飛跡で、天水王家など消えてなくなればいいと、詩桜は泣きながら言った。それは母親を喪った彼女にとって自然な感情だと、事情を聞いた今なら納得できた。瞬にいつまでも茜のことを思っていてほしいと願うのも、母親の選択が正しかったと信じていたいからだ。
 だが解せないのは、悲劇を引き起こした張本人を責めないことだった。
 好きと言い切れないのは、彼女の中に瞬を責める気持ちが僅かでもあるからだ。それを見抜いているから、瞬も詩桜に責めろと言った。だがそれでも詩桜は頑なに瞬を責めることをしない。
 歪な関係だと由稀は静かに思った。
 気持ちを優先すれば自分の拠る場所を見失い、憎しみに囚われれば自分が内側から蝕まれていくような錯覚に陥る。どちらかに寄りかかろうとするから、嘘をつくことになる。だがどちらも抱えようとすると、あまりの重さにそこから動けなくなる。どう足掻いても憎悪から逃れるすべはなく、やがては自分がどこに存在しているのかも、わからなくなってしまう。そもそも自分は存在しているのか。これは自分という幻想ではないかと、疑わねばならないようになる。踏み込まなくてもいい闇に、いつの間にか首の根まで浸かってしまうことになる。
 天水の枯れた大地を眺めていると、とても市街の豊かさと結びつかない。市場には毎朝たくさんの野菜や果物が並び、蛇口を捻れば水が潤沢に溢れ出す。いま由稀の目に映る景色とは、別天地だ。
 なんて歪な世界だろう。
 もうとっくに壊れた玩具を、包帯で巻いて繋ぎとめているかのようだ。
 由稀は息苦しさを覚えて、釦を一つ外した。首や肩に触れる風が冷たい。見上げた空の眼差しも冷たい。胸の奥の落とし穴が凍えそうだ。由稀は小刻みに震える心を拾い上げて、首を捻った。
 なぜ自分は青竜を責めないのだろうか。
 責めても報われないと思うからか。久暉の深い孤独を知っているからか。それとも、青竜の願いに一度は屈したからか。どれも間違ってはいない。だが何かが足りない。
 憎しみという形へ至るには、理由など不毛だ。感情も関係も自我も飲み込んで、やがて心の全てを支配してしまう。俄かに思いとどまる気持ちが芽生えても、それでも断ち切れないのが憎しみではないのか。
 由稀の中に湧き上がるのは、ただ知りたいと思う気持ちだけだ。青竜が竜族を滅ぼすに至ったわけを、魂を肉体から引き剥がしてまで久暉を救おうとしたわけを、そうまでされながら癒されない久暉の孤独のわけを。
 瞬から竜族の滅亡を聞かされたときは、確かに取り乱した。だが青竜から真実を明かされたときから、途端に現実感がなくなった。親を殺されたと知っても怒りにならない。むしろ知ることで怒りから解放された。
 由稀は足元を見下ろして、口元を歪めた。
 天水より、詩桜より、何より自分こそが歪な存在だ。
 なぜ青竜を責めないかの問いは、虚しい。はじめから責める気がないのだから。
 事実を知れば知るほどに、靄が晴れて爽快になる。たとえそれが悲しい事実であっても、わだかまりなく割り切れてしまう。紅はそんな由稀の性格を、人がいいからだと言う。だが由稀は、ある種の冷たさだと思っていた。
 由稀は青竜に対して、もう何の期待もしていない。傷つかないための防御線でなく、本心から何も求めていない。ただ彼の信じるようにすればいいと思っている。でなければ、由稀すらも報われない。ただ青竜には、全てを明かす義務がある。だから執拗に彼らを追い、真実を求めるのだ。
 憎しみに囚われるのは、愛しいと思うから。愛してほしいと望むからだ。
 由稀は首から提げた羽根の飾りを、服の上から優しく掴んだ。
 青竜は確かに由稀に夢を与えなかった。だが彼は、由稀の世界に志位(しい)安積(あづみ)を与えた。自分には壊れる前から包帯が巻かれていたのだ。怪我をしないように、守られるように。
 玲妥が教えてくれた。二人から受けた愛情は、何も変わらないと。
 血の繋がりに対する憧れは今も消えない。だがそれは育ててくれた親に対する反旗ではない。むしろあの銀世界へまた帰るための切符だ。
 ふと、玲妥の肉親を探してやりたいと思った。
 門の外は、市街にいるより風が強く澄んでいるようだった。肌に細かい砂が当たる。目に砂が入らないよう細めて、由稀も坂道を下った。
 舗装された道は砂に埋もれて、すぐに消えた。やわらかな砂の上に、詩桜の足跡が辛うじて残っていた。由稀はその足跡の横に自分の足跡をつけた。詩桜の足跡は由稀の足に押し出された砂で、ひしゃげてしまった。
 小さな足跡が詩桜の足元まで続いている。さらさらと流れる砂が、満ち潮のように足跡を飲み込んでいく。由稀は足跡が消えてしまう前に詩桜に追いついた。消えれば詩桜へ辿り着く橋を失ってしまう気がした。
 詩桜の横に並んで立ち、彼女が見つめる先を追って見つめる。それは天地の境目、砂丘の稜線だった。山と違って砂丘は、見ている間にも姿を変えていく。風に吹かれて山が崩れ、砂が流れた先でまた山になる。斬るような風音と、時を刻むような流砂の音が聞こえる。途切れない、無常の鳴動だ。
「詩桜」
 息絶えていた呼びかけに、命を吹き込んだ。詩桜は黙って由稀を見上げた。
「詩桜が来たかったのは、ここなんだ」
「うん。すごい景色でしょう。一面、何もないの。空と大地があるだけ。まるで世界に不要なものをふるい落としたみたいに」
「長居すると、俺たちもふるい落とされるかな」
 由稀は足元にしゃがみ込んで、砂を掴んだ。すぐ横にある詩桜の赤い靴は、砂で白んでいた。くるぶしが冷たい果実のように細い足首に成っていた。
 詩桜は両耳に掌を添えた。
「砂の音が、市街にいるときは雑音に感じるのに、ここだと心地いい。だから、好き」
「わかるよ」
 この場所はどこか聖域に似ていた。故郷にあった小さな教会や、アシリカにあったリノラ神殿と同じ匂いがする。神に支配された清新さと秩序があった。人がただの人になる、赦しと認めの場所だ。深い慈しみと、絶対的な境界線がそこにはあった。