THE FATES

6.切願(12)

 風に混じった砂の、一つ一つの感触は小さいが、積もり積もると体中に砂が忍び込んでくるようだった。どれだけここにいたなら、この場所と一体になるのだろうか。土に、還るのだろうか。
「ねえ、詩桜。龍羅飛ってのは、天水では生きにくいんだろう」
 詩桜から返事はなかったが、由稀は続けた。
「命を懸ける。それって口で言うほど容易くない。でも俺たちの母親は、命懸けで俺たちを産んだんだと思う」
「それがどうしたのよ」
「そんなにまでして、どうして詩桜のお母さんは詩桜を産んだんだろう。龍羅飛の血を継いでいるなら、苦しむことはわかっていたはずなのに」
「え……」
 詩桜は由稀を見下ろした。由稀は指の間から流れ落ちる砂を眺める。
「わかっていても、詩桜を抱きたかったんだよ。そのときに、お母さんは詩桜を選んでたんだ。未来が少しでも明るいことを祈りながら、苦しみを乗り越えてくれると信じながら、それもこれも全部、自分の我儘と知りながら」
「わが、まま」
「そう。我儘」
 由稀は詩桜を見上げて笑った。
「だから、何でも自分で抱えないでいいよ。詩桜が思う以上に、みんなそれなりにやってるからさ」
「何それ。いい加減なこと言って」
「そうじゃないよ。だって、誰かの苦しみを、自分のものにすることはできないから」
 握りしめた手から砂が零れる。強く握れば握るほど、逃げるように砂が流れ落ちる。手を開くと、指の付け根に砂が張りついていた。
「人と人とはどこまでも他人で、だから一緒にいられる。わかり合えるだけじゃ足りない。わからないところがあるから、一緒にいたいと思う」
「意外。由稀はもっと夢見がちなんだと思ってた。結構冷めたこと言うんだね」
「冷めてるかなあ。俺はこっちの方が夢見がちだと思うんだけど」
 砂の中に人差し指を突き立て、由稀はぐるりと円を描いた。
「同じにならないってことは、希望なんだよ。近づき合おうとする限り、二人の輪っかは自らの意志で巡り続ける。相手のすぐそばをね」
 描いた円は、そばから砂漠に飲まれていく。同じ場所に描いていても、ずれは生じた。それらは流砂に掻き消されそうになりながら、それぞれの輪を保ち続けた。だが同化した輪は、境目を失い地に沈んでいく。自他の区別がつかないことは、永遠の孤独に他ならない。
 由稀は久暉の孤独を思う。魂が擦れあう距離にいた。それでも由稀には彼の苦しみを理解することはできなかった。与えられた距離ではなく、自ら引き寄せようとしなければ何も得られない。
 一つの輪であること。自由な輪であること。
 詩桜は二つの輪を持っている。果南への素直な愛情と、がんじがらめの自我の輪だ。このままでは彼女は、自由でありながら自ら地に埋もれていく輪になってしまう。
『生い立ちも過去も未来も、何もかも、運命を全て受け入れられたとき、あの子は本当の歌姫に』
 瞬がそう言った意味を、今なら理解できた。
 歪な積み木は、どんなに用心深く積み上げても、いつか必ず崩れてしまう。
 瞬は詩桜が、その積み木から解放されることを切に願っている。だから龍羅飛跡でも、彼は詩桜に冷たく当たった。過去に囚われないように。過去が彼女を脅かさないように。一つの円になるように。
 由稀は円を描く手をとめた。
「囚われないで。詩桜は自由になっていいんだ」
 仄かに気配を残しつつ、円は砂に埋もれていく。やがて砂の上を這う風の足跡と混ざって消えた。
 靴にかかった砂を払い、由稀は立ち上がった。
「瞬に茜さんのことを忘れないでいてほしいのも、自分の自由な心を見たくないからだろ。囚われながら、逃げてるんだろ」
「そんなこと……」
「詩桜が自分自身を見てあげないと、詩桜の心はいつまでも一人だ」
 地平線は砂で煙っていた。先ほどよりも風が強くなっている。
「だって」
 詩桜がか細い声で呟く。
「私、怖い」
 言ってから、詩桜はあっと息を飲み込んだ。頬を紅潮させて由稀を見上げる。由稀が首を傾げて見返すと、詩桜は腕を大きく振って前へ進みだした。
「夢見たって、虚しいだけだし」
「どうして」
 突然歩き出した詩桜を追って、由稀も再び砂の上を進んだ。靴の中には随分砂が入っていて、歩くたびに小さな痛みがあった。
 詩桜は立ち止まることなく、振り返ることもない。小さな体は打ち震えているようだった。
「夢なんて、過去に縋ってるのよ。ありもしないことを想像して、選ばなかった道を羨んで。そんなの、かわいそうな自分を慰めてるだけじゃない」
 由稀は彼女が嘘をついていると直観した。
「だから願いがあるんだ」
 由稀は詩桜の腕を掴んで引き止め、息を吐くように低い声で言う。
「夢を叶えるために願うんだ。そして誓うんだ」
「どうしてそんなことが言えるの!」
「それは……、俺も、そうしないと苦しいからだよ!」
 掴んだ腕を引き寄せて、由稀は思わず声を荒げた。溢れ出た言葉を心の内で反芻して、由稀自身も苦しんでいたことを知らされる。とっくに遣り過ごしたと思っていたのは、幻想だったというのか。
「いたい……」
 詩桜が顔を歪めた。一瞬で背中に汗が滲んだ。
「ごめん」
 由稀は掴んでいた手を離した。背を向けた詩桜は腕を組む振りをして、由稀が掴んだ場所を密かにさすった。
 目に砂が入らないように、伏し目がちになる。由稀は詩桜の背中すら見ることができず、俯いた。
 彼女の嘘は保身にすぎない。それを責めることは由稀にはできない。それでも彼女の言葉に苛立ちを感じたのは、自分にも同じ気持ちが少なからずあるからだ。
 消えない不安とずっと背中合わせで歩いている。癒えない苦しみがずっと胸の奥にぶらさがっている。それを無視して前を向こうとする自分の方が、彼女よりもずっと不自由だ。
 耳の底から、風の音が消える。
 もしや、不自由である自由もあるのだろうか。
 由稀は詭弁のような思いつきに、心の中で失笑した。少なくとも、不自由であるか自由であるかを悩めるだけの自由が、この心にはある。自分さえそれを認めてしまえば、どんな不自由もそれは不自由ではなくなる。
 それこそが、原動力になる。
「俺にも親がいない。ある男に殺された。一族も、ほとんど残ってない。龍羅飛と、詩桜と同じだよ」
 詩桜が肩越しに振り返る。眼差しは罪悪感に沈んでいた。
「由稀も一人ぼっちなの」
「も、って何だよ。詩桜は一人ぼっちじゃないだろ」
 由稀は詩桜のそばへ寄り、人差し指で額を弾いた。
「梅煉さんがいるじゃん」
「あ……」
「俺にも家族はいる。育ててくれた両親と、一緒に育った妹が」
「その首飾りの」
「そう」
 服の内側に隠れている首飾りを、外へ引っ張り出す。やわらかく軽い羽根は、天水の強い風に煽られて浮き上がった。また、飛ぼうとしている。
 詩桜は羽根を見つめて、痛みを堪えるように目を細めた。
「ねえ、由稀はその人を許せたの」
「許す、とは少し違う。でも、あえて責める気にもならない。望むのは、本当のことだけだ」
「本当のことって」
「どうして彼がそこまでしなければならなかったのか、俺は知りたい」
「知ったら、許せるの」
「さあ、どうかな。もしかしたら、あらためて殴り飛ばすかもしれないし」
 飛び立とうとする羽根を掴み、由稀は目線に掲げた。一本一本の繊維が細かく震えて、全体が揺れ動いて見える。
「もしかしたら、もう一度信じられるかもしれない」
 羽根を貫く半透明の骨は、由稀の指に支えられ微動だにしていない。
 一つ一つの真実は、由稀にとって残酷なものばかりだった。だからといって青竜の目指している未来が、由稀を苦しめるものであるとは限らない。
 ともに歩く未来があるかもしれない。
「できればそうなるように、願ってる」
 折り重なった願いが、いつか溶け合えばいい。
 詩桜は遠慮がちに羽根を撫で、眉を寄せて微笑もうとした。
「由稀の願いは、ただ星に祈るような気休めじゃないんだね。自分がそうなれるように……」
「詩桜」
「さっきはごめんね、由稀」
「いいよ。俺の方こそ」
 羽根を詩桜に託し、由稀は手を離した。詩桜は両手で包み込むようにして羽根を愛でる。
「私……」
 風に消え入りそうな声で詩桜は呟く。
「瞬に嫉妬してるのかも」
 由稀を見上げる詩桜の瞳に、若葉色の光が射した。
「果南のこと、これからも友達って言えるかな。果南、怒ったりしないかな」
「詩桜が望めば、きっと果南も望むよ」
 そう言って由稀は、青天を思わせる快活な笑みを見せた。詩桜は眉を下げて、羽根を由稀へと返す。
「由稀は、ほんと何でも軽く言っちゃう」
「嫌?」
「前は、時々」
「じゃあ今は」
「……そうでも、ない」
 口を尖らせ、詩桜は由稀から顔を背けた。髪の隙間から覗く彼女の耳は、風に凍えながらも淡く染まって悦んでいた。
「ねえ、詩桜。果南のために何もできないなんて思い込まないで。彼女のために歌いたいなら、この場所からでも歌おう」
「でも……」
「俺が聴いてるから」
「由稀が聴いたって、意味ないじゃない」
「違うよ。俺に向かって歌うんじゃなくて、果南に向けて歌うんだ。俺はその立会人。詩桜がここで、願いを込めて歌ったことを見届ける」
 由稀の声は、羽根の手触りのようにやわらかく、砂を巻き上げながら吹く風のように強かった。
「ここに、いるから」
 だから今だけは自由に飛び立って。
 由稀は言葉にならない気持ちを眼差しに込めた。
「由稀」
 呼びかけて、詩桜が由稀へ手を差し出した。由稀は意図を汲めず、手を取ることを躊躇う。詩桜は俯いて、由稀の親指を握った。
「手。繋いでて」
 指に巻きついた詩桜の手は冷たく、やわらかさが一層映えた。
「私の歌が、歌であるように」
 溢れそうな瑞々しい手を、由稀は黙って握り返した。詩桜は首を逸らして由稀を見上げ、眩しそうに目を細めた。
「ありがとう。由稀」
 詩桜は目の下に喜びを溜めて、張り詰めた声で言った。
 深く息を吸い込み、呼吸を整える。雨が降り出すようにぽつりぽつりと、詩桜は歌を紡ぎだした。風の音も、足元で流れる砂の音も、詩桜の歌を飾る伴奏になる。
 頬を染め、詩桜は命を振り絞るようにして願いを奏でた。目を閉じて、乞うように歌い続ける。繋いだ手から、詩桜の羽ばたきが感じられる。由稀は空を見上げた。
 空は吹き続ける風に揺らぎ、流れる砂を映すように波打っていた。灰色の雲の、ほの明るい場所を探し、光を求める。
 次に詩桜が目を開いたとき、若葉色の煌きが宿るのを見たかった。