THE FATES

6.切願(13)

 部屋の扉を開くと、長椅子の脇に寝ていた真小太(まこた)が首をもたげた。羅依の姿を見とめて、一声吠える。
「ただいま、真小太」
 羅依は腰をかがめて、尾を振りながら寄ってきた真小太の耳を撫でた。
「おい。出入り口で立ち止まるなよ」
 真後ろに立った紅が、足を踏み鳴らした。羅依は慌てて道をあけた。
「ごめん」
「お前があんまりそういう顔すると、俺がどんどん真小太に嫌われる」
 紅は両手に持っていた荷物をおろして、勢いよく長椅子に寝転がった。
「これでも一応、人生のうちに敵は少ない方がいいって思ってるんで」
「大丈夫。真小太は紅を敵とは思ってない」
 自信に満ちた羅依の言葉に、紅は眼鏡を外して彼女を振り返った。
「さすが。気持ち通じ合ってるってわけ」
「そうじゃなくて。真小太は紅のこと、面白い玩具くらいにしか思ってないかな、って」
「はあ?」
「だから、飽きることはあっても、嫌われることはないと思うよ」
「言ってろ」
 眉間に皺を寄せ、紅は持ち上げていた頭を再び椅子に沈めた。深いため息を吐き出すと、腹の上に真小太が飛び乗ってきた。紅は短く濁った声を洩らした。
「おい、羅依!」
「ごめん、ごめん。ほら真小太、梅煉さんからご飯もらってきたよ」
 羅依は紅が運んできた荷物を開けて、中から大きな鍋を取り出した。蓋は密閉されている。だが真小太は匂いを嗅ぎ取ったのか、紅の上からすぐさま飛びのいた。羅依に凭れかかりながら二本足で立ち、尻尾で紅の足をはたく。
「わ、こら。落ち着けって」
「なんだよ、真小太。自慢してんのかよ。残念だが、俺はすでに飯を食ったあとだぜ」
 わずかに顔を上げると、足の向こうにいる真小太と目があった。真小太は喉を低く鳴らし、鋭い目をしていた。
「急に野生になるなよ」
 椅子からはみ出ていた足を引っ込め、紅は真小太を遣り過ごした。
 高い天井を見上げる。腰に下げている鞄が邪魔になり、金具を外して脚の短い卓の上に放り投げた。衝撃で中に入っていた煙草入れが飛び出した。紅は寝転がったまま腕を伸ばし、煙草入れと鞄を掴み取った。
「あ……」
 鞄を覗いて、煙草入れを持つ手が思わずとまる。見慣れた鞄の中に、見慣れないものが一つだけあった。
「なあ、羅依」
 紅は厨房へ向かおうとしていた羅依を、起き上がって呼び止めた。鍋を抱えた羅依は、厨房の扉を足で開けて振り返る。
「なに」
「あのさ、そこの操作盤、起動してくれないかな」
「え」
「その、壁にあるやつ」
「う、うん。いいけど。ちょっと待ってて」
 羅依は持っていた鍋を掲げて見せ、扉の向こうへ入っていった。紅は脱いだ上着を椅子の背にかけ、鞄から取り出したものを握りしめる。水晶はかたく、六角柱の角が掌にいつまでも馴染まない。昂ぶりが指先にまで伝わり、掌が汗ばんだ。
 厨房から出てきた羅依は、何も言わずに青い操作盤に指を滑らせた。紅は椅子から立って、羅依の真後ろに立った。
「俺が言うように、操作して」
「わかった」
 短く頷く羅依の声は固く、いつになく冷たかった。首筋から肩にかけて、緊張の鎧を着込んでいる。紅はすぐそばに羅依の白い肌を見て、これは鏡なのだと思った。本当に冷たく固いのは、自分の方だ。
 紅は短い言葉で指示を出しながら、たどたどしい羅依の指先を見つめた。
「お前さ」
「え」
 突然呼ばれ、羅依は肩を震わせた。首をめぐらせ紅を振り返る。
「なに」
「手、傷が多いんだな」
「ああ、うん。子供の頃のもあるけど、武器の手入れしてて怪我したり」
「ドジ」
「うるさいな。ほら、次は」
 羅依は操作盤を人差し指で小突いた。青い光の中には、四角い窪みが出来ていた。
「これ、そこに嵌めて」
 握っていた心柱を羅依に手渡す。冷たかった水晶は、紅の体温を吸ってあたたかくなっていた。
「傷、治してもらえばいいのに」
「いいよ。いまさら」
「女ってさ、そういうの気にするんじゃねえの」
「さあ」
「大体、怪我したときにきちんと治療さえしとけば、痕なんて残らないのに」
「そんなの、あたしは気にしない」
「お前は気にしなくても、気にする奴がいるかもしれないって話だよ」
「それは……」
 羅依は紅を軽く睨みつけて心柱に目を落とす。
「紅には関係ない」
 壊れ物を扱うような手つきで、羅依は窪みに心柱を近づけた。
 青い光が氷のように透明な水晶の中で乱反射する。紅は息をとめた。頭から冷水をかぶったように思考は冴えたが、かえって五感は鈍くなり、分厚い外套を着込んだようだった。
「すごい……」
 羅依の呟きも紅には遠い。六角柱の水晶は、吸い込まれるようにぴったりと窪みに収まった。操作盤に浮き上がっていた白い文字が、ひとりでに流れ出す。羅依は水晶を指差して紅を振り返った。
「これで大丈夫なのか」
「昔の傷はともかく、今は誰かにちゃんと言えよ」
 紅はじっと操作盤を見つめた。口と目と頭の中が乖離して、人形を操って喋っている気分になる。
「術は使えないけど、俺にだって擦り傷の手当てくらいできるし」
「質問に答えろよ、紅」
「舐めてりゃいいのは、男だけなんだから」
 そう言って紅は羅依の腕をひいた。操作盤の文字がとまる。最後の一文字が点滅して、青い光が壁を伝って流れ出した。光は滝のように線を描き、やがて床に広がっていく。羅依はふと真小太を振り返ったが、扉が開いているのに厨房から出てこようとしない。警戒しているのかもしれない。
 青い光は盛り上がり、細長く上に伸びていく。波打ちながら形作られていく光の塊は、まるで生きているようだった。
「なに、これ」
 羅依は溢れ出した光を目で追って、思わず後ずさった。背中が紅にぶつかる。
「手伝ってくれた礼に、見せてやるよ。俺の大切な人」
「ひと、って」
 嘲笑まじりに呟き、再び光へ視線を戻す。
「うそ……」
 羅依は息を呑んだ。人と言われれば、人の形に見えたのだ。羅依は自分の目を疑った。頭、肩、胸、どれも均整の取れた、作ったような人の形だ。
「そんな」
 緊張と興奮が綯い交ぜになって、声は音を伴わない。ただ息がひゅうひゅうと洩れた。
 青い光はめまぐるしく色を湛えた。やがて多くの色が混ざり合い、白だけが残る。光は滑らかな肌へと研がれ、人の造詣が目にも明らかになる。顔立ちは仮面のように無表情だが、真っ直ぐ前を見る眼差しには聡明さが漂っている。髪は断ち切ったばかりの絹糸のようにしなやかで、膨らみのある胸元へ軽やかにかかっていた。
「女……?」
 光の中から生まれてきたのは、まるで人形のような女だった。あまりにも整った彼女の肢体は、同性の羅依も見とれるほどだ。思わず目のやり場に困り、椅子の背に掛けてあった上着に手を伸ばしたが、紅に阻まれる。
「無意味だよ。これに実体はないから。ずっと見てただろ。ただの光情報だ」
「でも……」
「ありがとう。気持ちは伝わると思うよ、菱乃(ひしの)にも」
「菱、乃?」
 発音を確認すると、紅は今まで見せたことのない、やわらかな笑みを向けた。羅依は初めて、紅に茜の面影を見た。
 紅は菱乃に歩み寄り、色のない唇に指先で触れた。指は唇を通り抜け、光の中に埋もれた。指の周りだけ、菱乃の姿がぼやける。
「復元、完了しました。個別情報を展開します」
 感情のない声がそう告げて、菱乃の体が身じろぎをした。指を曲げたり首を傾げたりをして、やがて正面に立つ紅へ焦点が合う。
「おかえりなさい。お待ちしていましたよ」
 落ち着いた声でそう言って、菱乃は口元だけで微笑んだ。静かな、風のない湖面のような微笑みだ。
 変わっていない。彼女だけは、あの日と何も変わっていない。
 紅は喜びを持て余し、俯いた。
「ただいま、菱乃」