THE FATES

6.切願(14)

「ずいぶんと長いご旅行でしたね。待ちくたびれてしまいました」
 そう言って彼女は紅の両頬に手を添えた。
「顔を見せてください。紅」
 菱乃の手は紅に触れることはない。青い光が血管のように時折透けて見えた。紅は菱乃に促され、顔を上げる。すぐそばで感じる菱乃の冷たい体温が、紅の胸をささやかに刺した。懐かしさとは、こんなにも苦しいものなのか。
「伝えなければならないことがあります」
「大体、予想はついてるよ」
「そうですか」
 菱乃の視線が紅の背後に向けられる。紅は振り返って、あっと思い出した。
「あいつは羅依。今、一緒に行動してる。心柱を起動させるのも手伝ってくれた。ちなみに、昔言葉じゃないと通じないから」
「そうでしたか。申し遅れました。菱乃です」
 無駄のない所作で菱乃が礼をしたので、事態が飲み込めないまま羅依も慌てて頭を下げた。
「かわいらしいお嬢さんですね。紅の彼女ですか」
「え。今なんて?」
「ありえねえよ」
 苦い顔で否定する紅を見て、菱乃はくすくすと肩を震わせて笑った。
「いつまで笑ってんだよ」
「ごめんなさい」
「で、これは菱乃。成長型の擬似知能で、俺が設計したものだ。ハコも作ったんだけど、それはもう、今はない」
「ハコ? 擬似、知能……? どういうこと。菱乃さんは、一体」
 羅依が興味本位でないことは、紅にもわかっていた。だが紅は返事を返そうとしない。
「なあ、紅」
「私は人ではありません」
 菱乃は氷の上を滑るようになめらかに言った。
「菱乃……」
「人に似せて作られたもの、それが擬似知能です。ハコとは、この心柱を格納しておくための外殻。多くは人型に作られます。今見ていらっしゃるのが、私のハコの記憶です」
 躊躇いのない告白は、聞く者を無口にした。
「先ほど紅が話したように、私は紅によって作られた擬似知能です。成長型ですので、設計当初と違う設定も多々ありますが、私は人のように自己同一性を与えられていますので、確かに菱乃と名付けられた個体であると答えることができます」
「羅依にそんなこと話しても、わかんねえよ。ここの奴じゃないし」
 紅は卓上に投げ出した鞄から煙草を取り出し、火をつけた。
「見ればわかるだろ。あんな色した頭の女、いないだろ」
「お前だって派手な色してるくせに」
 羅依は長椅子の背凭れを、埃をはたくようにして叩いた。紅は目に見えない埃を、顔の前で払う。
 ふと菱乃を振り返ると、彼女はぼんやりと羅依を眺めていた。
「羅依さんは、どんな髪色をなさっているの」
「え」
 生まれたばかりの灰が床に落ちる。紅は呆然と菱乃を見返した。
「何言ってるんだよ。淡い紫色だよ。見えるだろう」
 紅は羅依の腕を掴んで、菱乃の前まで押しやる。しかし菱乃は目を閉じて首を振った。
「外殻を失って長いからでしょうか。うまく認識できないのです。ここにいらっしゃることや、声音や雰囲気はよく伝わってくるのですが。どうも、視覚情報領域に不具合があるようです」
「それを早く言えよ」
 紅は羅依の腕を掴んだまま操作盤の前へ戻り、羅依の手を握って操作を始めた。口に咥えた煙草から煙がのぼり、目に沁みた。
「いいのです、紅。やめてください」
「何がいいんだ。生意気なことを言うな。俺がお前の不具合を許すとでも――」
「どのみち、この心柱は長くもちません」
 菱乃は眉一つ動かさなかった。それが紅には悲しかった。生きることへの執着は、菱乃には書き込んでいない。なぜなら菱乃を作った当時の紅に、理解できないものだったからだ。
「外殻から切り離す際、回線が不自然に断絶したためと思われます。また、心柱に蓄積した情報を優先した結果かとも想定されます。ここの知能回路で修復できるものではありません」
 青い操作盤には、『不可』と点滅していた。
「わざわざ言うな」
 紅は羅依の手をゆっくりと離して、深いため息を吐き出した。煙草を持った手で、髪をかき乱す。
「俺だって……」
 長椅子の背に腰かけ、紅は肩を落とした。
 不調の可能性など、製作者である紅にはすべてわかっていた。外から接触を試みても無駄なことは予想がついていた。それでも試さずにはいられなかった。自分の目で確かめるまでは信じられなかった。
「紅。私が心柱だけを残したのには、理由があります」
 静まり返った部屋は、まるで菱乃の構造内部のように整然として、色彩のないものだった。
「だろうな」
 うな垂れる紅には、菱乃の声は冴え冴えとしすぎて、胸のうちには虚しさが募った。諦めて顔を上げる。菱乃は揺るぎない眼差しで紅を見つめた。
「この天水の空のことです」
「漣の空、だろう。本気にしてたのか」
「私にとってはあなたの言葉がすべてです。戯れであろうと、あなたが最上位命令だと言うのなら、それに勝るものはありませんから」
 思い出したように空調が動き出した。紅は天井を見上げる。すっかり見慣れた空調扇がゆるゆると回っている。回路と連結している菱乃が動かしているのに違いなかった。
「天水は術者によって時間操作をされています」
「時間操作? それが漣の空とどう関係するんだ」
「ご説明します」
 菱乃は伏し目がちになって押し黙った。同時に操作盤にいくつもの数字が並んだ。数字はそれぞれ細い直線で繋がれ、蜘蛛の巣のように網目状になった。しばらくすると、その図が操作盤の前に飛び出した。図は水平になり、点滅したり色が変わったりしながら変形していく。
「ご覧ください」
 数字と直線による図は、天水の空と砂漠の景色へと変化していた。光の揺らめきのせいではない風が、その中には感じられた。まるで外の世界を切り取ってきたようだ。
「見ていて、不思議に思われませんか」
 そう言って菱乃は羅依の方を向いた。突然目の前に現れた映像に驚いていた羅依は、間の抜けた声を洩らして首を傾げた。
「え、別に、普通だけど……」
「そうですか。よく見てください」
「うーん」
 顔を近づけて見てみるが、やはり印象は変わらない。なんの違和感も生じない。
「やっぱりわからないです」
「お前の目は節穴か。よく見ろよ、例えばこことか」
 紅は煙草の先で映像の一部分をさす。そこには砂丘の稜線が見えた。
「なんだよ。ただの地平線――」
 映像に再び目を遣って、羅依は言葉を失った。風に流されうずたかく積もっていた砂丘が、一瞬にして消えたのだ。
「どうして」
 羅依は紅を振り返った。紅は何も答えず、菱乃を見遣る。
「菱乃」
「はい」
「お前が作った映像じゃ、ないんだな」
「もちろんです。これは実際の映像を数倍速で再生したものです」
 菱乃は頷き、砂丘が消える瞬間をもう一度見せた。
「天水は何年もの間、同じ時間を繰り返しながら存在しているのです」
 青白く透ける指が小さく振られ、映像は光の糸を引きながら消えた。羅依は瞬きを繰り返して、立ち尽くした。
「おい羅依。菱乃が言ってる意味、わかってるか」
「えっと、いや……よくわかんない」
 羅依は腕を組み、おもむろに首を捻る。瞬きだけが異様に多い。紅は紙と筆記具を引っ張り出し、そこに真っ直ぐ線を引いた。
「いいか。これが天水の時間軸だ。右へ行くほど未来に近づく」
「う、うん」
「今がどことか、無意味な質問はするなよ。で、これを適当に区切る」
 直線に対して垂直の短い線を二本引き、紅は羅依の目の前に翳した。
「時間は左から右へ流れて、やがてこの区切られた時間が終わる。本当ならその先もずっと続く時間を進むはずが、この二本目の線まで来たときに、天水の時間は過去へ戻り、またこの区切りの中を右へ進んでいくんだ。それがずっと繰り返される」
「う、うん……」
「わかったか」
「うーん、わかったような、わからないような」
「馬鹿か、お前は」
「な! 紅の説明がわかりにくいんじゃないか」
「はあ。意味わかんね。これのどこがわかりにくいんだよ」
 紅は羅依を冷ややかに横目に見て、持っていた紙を投げ捨てた。
「たとえば」
 見かねた菱乃が、微笑みを浮かべて口を開いた。
「今日という一日を明日も過ごす、ということですよ」
「ああ」
 羅依は手をうち鳴らして、何度も頷いた。
「わかった。すぐわかった。すごくわかりやすい」
「ありがとうございます」
「そりゃお前、俺の説明を先に聞いてたからだろ」
 短くなった煙草を灰皿に執拗に押し付けて、紅は小さく呟いた。羅依は聞こえない振りをした。
「でも、どうしてそんなことをする必要があったんですか」
「おそらく、天水への延命措置ではないかと」
「延命って、天水はそんなに危険なんですか」
 羅依は部屋の中を見渡し、さらに街の様子を思い浮かべた。しかし思い当たる節はない。
「事実がどうであるか、そこまではわかりません。ただ事実関係から考えると、そうであるとしか思えません」
 菱乃はやや肩を落とし、申し訳なさそうに俯いた。
「あ、あの、そういう意味じゃなくて」
 慌てた羅依は菱乃の肩に触れようとしたが、手は彼女をすり抜けて、羅依の脚に当たった。
「あ……」
 羅依は手を後ろへ隠して黙り込んだ。