THE FATES

6.切願(15)

 紅は長椅子の背に軽く腰かけて、操作盤を見つめた。火のついていない煙草を盤に滑らせる。反応は何もない。
 顔を上げて羅依を見遣る。しかし呼びかけるのは億劫だった。
 厨房の入り口から、真小太の尻尾が見え隠れした。伏せたまま尾を揺らしているようだ。眺めていると、不思議と気持ちが楽になった。
「あのさ、菱乃。確認するけど」
「はい」
「その情報はどこから手に入れたんだ」
「それは――」
「お前さ、王家の機関に侵入した?」
「……はい」
「なんでそんな無茶を」
 紅は声を荒げることもなく、静かに問いかけた。菱乃は一呼吸置いてから口を開いた。
「あまりにも紅の戻りが遅いので」
 表情は変わらず仮面のようだった。だが紅には、彼女が躊躇ったように感じられた。
 紅は大きなため息をついて、手の付け根で自分の額を小突いた。
「あそこの機関に侵入するなんて自殺行為だ。確かに禁止項目としては組み込んでなかったけど、それでも学習してくれよ」
 もう一度、体中から掻き集めたようなため息を吐く。
「誰が作ったのか知らないけど、外部からの侵入に対してはすごい神経質だから。ていうか、そもそもよく入れたよな」
「それは、紅が作った私だからです」
「そんなことばっかり覚えて……」
 すぐ目の前に、青い操作盤を見つめる。城に据えられた機関と、ここの機関が、どこか似ている気がしたのだ。
「まさかな」
 長い間持ったままだった煙草は、紅の体温で巻紙がよれていた。
「研究所が潰されたのも、それがきっかけなんだな」
「はい」
「逆に尻尾を捕まれたってことか」
「はい」
「向こうは俺が作った知能だって、知ったってことか」
 呟きのような問いかけに、答えるものはいなかった。
 王家の機関は管理こそ数人の役人がしているが、閲覧や指示は王にのみ権利がある。
 記憶にある、王位に就く前の央宮(なかみや)の顔が浮かんだ。冷静で責任感が強く、決断力もあった。王に相応しい感性をしていることは、誰もが認めるところだった。だが紅は、子供の頃から央宮のことが好きになれなかった。彼が見せる笑顔には、いつも棘が潜んでいた。
 嫌われていたのだろう。菱乃の独断は、央宮に好機を与えてしまった。紅の自尊心はうずくまって震えている。手の中で煙草の巻紙が破れ、ざらざらした葉がこぼれ落ちた。
 慰めるように、ゆっくりと息を吐き出す。
「天水の危機、か」
 言われてみれば、天水にはいつでも壊れてしまいそうな不安定さがある。アミティスへ行って思ったことだ。健全な世界の在り方を目の当たりにして、天水の不健全さが肌に沁みた。
「術者の特定はできなかったのか」
「その情報にだけは、どうしても接触できませんでした。術の解除方法もわかりません」
「そうか……」
 潰れた煙草に目を落とす。仄かに漂う煙草の香りは、清涼感の中に棘を隠し持っていた。
 漣の空へ慕情があるわけではない。知らない空を懐かしく思うことはない。だがアミティスと同じ空がこの天水にもあっていいのではないだろうか。垂れ込めた雲に手が届きそうな空では、息苦しいだけでなく、空を見上げるのも億劫になってしまう。だから自分は夢を見ることがないのか。
 紅は高い天井を見上げて目を閉じた。空調扇の低い唸り声を聞く。
 時間を操作できる術者など、紅には見当もつかなかったが、それでも多くないことだけは想像できた。おそらく三大種族の、中でも相当の実力者に限られるはずだ。
 かつて茜が漣の空の思い出を話してくれたことがある。空は限りがないほど青く淡く澄み渡り、風の軌跡が細長い雲になって残り、それが揺れ動くさまは確かに漣で、花壇の中に寝転び、咲く花越しに見上げた空には、神が住むと思われたほどだったと。
 その話を聞いて、紅は思った。
 だったら、今はもう神様がいないのかと。
 茜が子供の頃に漣の空があったなら、術者がまだ生きている可能性もある。幸いにも、自分の環境は恵まれている。優れた知能回路、出自、人脈、どれを取っても、そうそう手に入らないものばかりだ。
 出来るかもしれない。
 そのために壊れるものがあるかもしれない。それは自尊心かもしれないし、信頼かもしれない。
 だが、それらを犠牲にして漣の空が天水に戻るのなら、安い代償に思えた。
 空調扇の動作音と自分の鼓動が重なって聞こえる。昂ぶりが、初めて熱を持った。
 あとは菱乃が望めば、それでいい。
「菱乃。お前は漣の空が見たいか」
「……私は」
 菱乃は言葉に迷い、一度口を閉ざした。横目に操作盤を見ると、文字が不規則に明滅していた。処理が間に合っていない。紅は菱乃を振り返り呆然とした。こんなことは初めてだった。
 擬似知能である彼女の表情に、焦りは表れない。だが、光に映し出された彼女の体は、処理の遅れにより乱れが出ていた。菱乃は無意識のうちに前のめりになった。
「私は紅に漣の空を見せたい」
 音声には雑音が混じり、仮面のように整っていた顔には青い光の干渉が走った。
 泣いている。紅の目にはそう映った。
 菱乃には涙の概念を植え込んでいない。かえって痛々しい彼女を見て、紅は申し訳なく思った。
「わかった」
 手の中に残っていた煙草の残骸を打ち捨てる。
「お前の願い、きいてやる」
 紅は菱乃から視線を逸らさず、静かに笑った。泣けない彼女の前では、絶対に悲しい顔をしたくなかった。
「ありがとう、紅」
 菱乃も笑って、前髪が揺れた。
「次に私を作るときには、あなたよりもずっと小柄で、もっと可愛い女の子にしてくださいね」
 掠れる声で言って、菱乃は手を差し出した。
「……わかった。努力する」
 紅は菱乃の体をすり抜けないように、触れるか触れないかの握手をした。冷たい体を感じるたびに、紅は自分の体温に気付かされてきた。
「ありがとう」
 呟きが菱乃に届いたのかどうか、紅にはわからなかった。菱乃を構成していたものはすでに淡くなり、やがて空気に溶け入るようにしてすっかり消えた。
「あ。え、菱乃さんは」
 すぐそばで羅依が声を上げた。紅は羅依を無視して操作盤の前に立った。拳で壁を殴りつける。
「ちょっと、紅」
 羅依は声を荒げて紅の腕を掴む。しかし思いのほか抵抗はなかった。不思議に思って覗きこむと、紅は衝撃で傾いた水晶を取り出し、眉をひそめていた。
「なに」
「え。だって……」
「もしかして、俺が切羽詰ったとか思ったわけ」
「うーん、そんな感じ」
「残念。そんなロマンチックなことはねえから」
 紅は口を歪めて笑い、羅依の額を水晶で突いた。
「そうだ。これ借りるぞ」
 羅依の了承を待たず、紅は羅依の上着の裏から鞘に入った短刀を掠め取った。
「勝手なことするなよ」
「いいだろ。減るもんじゃないし」
「その強引さ……。妙な既視感」
 羅依は諦めて長椅子に座り、腕を背凭れにかけて振り返った。紅は床に心柱を置き、鞘に入ったままの短刀を振りかざした。
「おい、紅!」
 骨と骨がぶつかるような音が響く。羅依は思わず目を瞑った。片目をそろりと開けると、床には水晶の欠片が散らばっていた。
「紅……どうして」
「はい、返す」
 紅は振り向くことなく、羅依に短刀を押し付けた。羅依は黙ってそれを受け取る。紅が握った部分には、わずかに体温が残っていた。
「こんなことして、良かったのか」
「いいんだよ。長いあいだ心柱のままだった擬似知能を、使い慣れない回路で復元したんだ。外殻を持たない擬似知能は、脆いから。それなりに負荷がかかる。あいつはもう、再生できない。見てただろ、崩れていく菱乃を」
「でも……」
「再生するときからわかってたことだ。それにもしここの回路がどこか外部と繋がってたら、王家の機関に侵入したこともばれるだろ。まあ、この回路はかなり特殊だから、そんなこともないんだろうけど。でも証拠は消しておくに限る。こうするのが一番安全なんだよ」
 床に散った菱乃の欠片を一つ摘み上げる。断面は触れるものを斬りつけそうなほど尖っていた。紅は心のどこかで、薄くでも皮膚が切れればいいと思った。摘んだ指に力を込める。だが、指先が欠片の形にへこむだけで、紅を傷つけることはなかった。
 菱乃はどこまでも紅に優しい。
「今日は、お前に弱み握られてばっかりだな。羅依」
 欠片を両手で寄せて一箇所に集める。辺りを見渡して、梅詩亭からの差し入れが入っていた箱を見つけた。体を斜めにしながら腕を伸ばし引き寄せると、そこに集めた欠片を掬って入れた。箱の大きさに対して、欠片はあまりに少なかった。
「誰にも喋るなよ」
 箱の蓋を大きく開いて、手の届く範囲に転がっていた紙くずを放り込む。
「喋らない」
 羅依は低い声で口篭もるように言った。
「大体、途中からは言葉わかんなかったし」
「ああ、そっか」
「わざとじゃなかったのか」
「無意識、だな」
 しゃがみ込んでいた紅の目の高さに、椅子にかけてあった上着が目にとまった。
「それもそうか」
 羅依は静かに呟いて、笑顔になりきらない余韻を隠す。紅は羅依の気遣いを見て見ぬ振りをして、上着を引っ張った。
 厨房から真小太の声がする。か細く力ない声だ。
「なあ。もしかしてあいつ瀕死なんじゃねえの」
「あ。ご飯あげるの忘れてた!」
 つまずきながら羅依は真小太に駆け寄る。途端に真小太は跳ね上がり、羅依は短い悲鳴をあげた。鈍い音と金属的な刺々しい音が響く。羅依は言葉になりきらない声を上げた。
「鍋……、鍋!」
 もはや天地がひっくり返ったかのような騒ぎようだった。
「静かにしろよ……」
 肩をすくめて、紅は厨房を振り返った。一人と一匹の情けないため息が漏れ出てきた。
「しょうがねえなあ」
 上着を床に広げ、箱を包む。最後に袖を縛ると、喉がひりりと痛くなった。
「俺の服でごめんな」
 大切に抱えて、部屋の隅にある屑箱の前に立つ。蓋を開けて、中にそっと箱を入れた。蓋を閉める手はわずかに震えていたが、紅は眩しいものを見るように目を細めて微笑んだ。
『次に私を作るときには、あなたよりもずっと小柄で、もっと可愛い女の子にしてくださいね』
 紅は手の中に握っていた小さな欠片を、首を逸らして飲み込んだ。