THE FATES

6.切願(19)

 じっと耳を澄ます。いくつもの足音が濁流のように襲い掛かってくる。吐き出される言葉は混ざり合って個性を失い、矢のように降ってくる。風の音、水の音、鳥の鳴き声、世界の軋み、様々な音が体の中に押し入ってくる。それらを、出口の見えない森を突き進むようにして掻き分け、小さな光を探す。
 不破は声にならない感嘆をもらした。
 耳の底に沈みこむような海鳴りが響く。窓を濡らす南国の輝きは、掴んだ砂を流すような音がした。その窓に、つっと指が触れる。
 ねえ、僕はいつまで――。
 体液のようにねばついた声がして、不破は音色の旅を乱暴に断ち切った。広がっていた世界が狭まり、無数にあった音はすっかり消えた。たった今、目覚めたような心地がする。
 不破はあらためて目の前の建物を見上げた。
「その情報が確かやったら、この療養所やな」
「うん」
 弓菜は小さく応えて、持っていた書類を握りしめた。指先が震えている。不破は彼女の肩を叩き、目を細めた。
「大丈夫やって。なんなら俺が先行って、確かめてこよか」
 抱き寄せるようにして弓菜の顔を覗きこむと、彼女は顔を真っ赤にして首を振った。
「平気。行こう」
 不破の腕から抜け、弓菜は療養所の扉を開けた。決意が滲むような凛とした背中が、踏み躙りたくなるほどいじらしい。頬を上気させるほど、里村という男が愛しいのか。
「羨ましいねえ」
 不破は小さく呟いて、弓菜のあとを追った。
 療養所に入ると吹き抜けになっていた。窓から差し込む光が白い壁を照らし、眩しいほどだ。どこからともなく、消毒液のにおいがする。沁み付いているのだ。受付に弓菜の姿を見つけ、軽く駆け寄る。
「絵筆を持った人なら、二階の突き当たりの部屋ですよ」
「そうですか」
「親族の方ですか。役所から連絡がありましたか」
「え。あ、はい。そうです」
「でしたら、あとで書類を書いていってくださいね。係りの者に部屋まで持っていかせますので」
「わかりました。ありがとう」
 弓菜は所員の話を切り上げるように礼をして、勢いよく振り返った。追いついた不破と思わずぶつかりそうになる。
「おっと、どうやった」
「当たり! きっと里村よ!」
「まだ言い切れへんやろ」
「大丈夫。私、運はいい方なの」
「ほんで、部屋はどこやって」
「二階の突き当りだって」
 不破の腕を掴んで、弓菜は走り出した。後ろから、走らないでと職員の声が飛ぶ。それでも弓菜は立ち止まろうとはしなかった。不破は引っ張られて走りながら、石床を蹴り上げる弓菜の足音を聞いていた。
 階段を駆け上がり、廊下を突っ切る。途中、持っていた資料を取り落としたが、気にせず走った。不破は弓菜の手を握りなおし、横に並んだ。汗ばんだ彼女の手は、体の中のように熱かった。
 突き当りは左右に部屋があったが、片方には患者の名前が書かれていたので、書かれていない方へ向き直る。弓菜は胸に手を当てて息を整え、膨らんだ髪を軽く押さえた。
「ほら」
 不破に促され、弓菜は部屋の扉を押し開けた。中からは更に強い消毒液の臭いがした。寝台には男が一人横たわっている。
「里村……」
 弓菜は吸い寄せられるように寝台へ歩み寄った。不破も続いて部屋へ入る。さほど広くもない部屋だ。一人用の寝台が大きく感じられた。窓は大きいが、外側には鉄柵が張り巡らされている。荷物らしいものは特に見当たらず、上着すらかけられていない。ここは生きた人間のいる場所ではない。
 寝台に眠る男を見下ろす。頬はこけて、顔も土気色をしている。肩から胸元にかけて大きな傷が見える。毛布から出た片腕には、途切れ途切れに刺青が彫られていた。弓菜から聞いていた男とは、まるで印象が違った。
「間違いないのか、弓菜」
 不破の問いかけに、弓菜はかすかに頷いた。こちらの声が聞こえていないわけではない。だが消え入りそうな返事は、自信のなさだ。不破は今にも倒れそうな弓菜の心を支えようと、背中に手を回した。無駄のない背中はかたかったが、指の間に触れる彼女の髪は震えながら不破を許した。
 弓菜は膝をついて男の手を取り、頬に寄せた。瞬きとともに、涙が零れた。
「間違いない。彼は里村よ」
 そう言って、弓菜は里村の手の甲に口付けた。弓菜はしゃくり上げて泣き止もうとしたが、あとからあとから涙が流れた。
「無理すんな。泣きたいときは泣いたらええねん」
 不破も膝をつき、泣き崩れる弓菜を横から抱きしめた。消毒液に犯された部屋の中、弓菜の肌は気高く繊細な花の香りがした。しっかりと抱きとめ、髪を撫でる。弓菜はまるで子供のように声を上げて泣いた。
「どうして、どうしてこんなことに!」
 弓菜は不破にしがみついて喚いた。ただ取り乱すのではない弱々しさが彼女にはあった。不破にはそれが彼女の本当の姿に思えた。優しく正直で努力家ではあるが、根っから逞しい女ではない。不破は弓菜の髪を優しく掴んで、粉々になる花びらを思い浮かべた。
「これは事故やない。誰かに意図をもって傷つけられたんや。そういう傷や」
「誰がこんな、ひどいことを……」
 肩を震わせ、弓菜は呟く。
「里村、里村……」
「なあ弓菜。見てみたらどうやろ」
「え」
 弓菜は顔を上げ、不破を振り向いた。思いがけず近い距離に、体を強張らせる。
「見るって」
「投影、してみたらどうや」
「で、でも」
「相手の了承取られへんから、嫌か」
 思っていたとおりのことを言い当てられ、弓菜は黙り込んだ。不破は弓菜の肩を軽く叩いた。
「他人行儀な物言いすんなよ。大事な人なんやろ。知らん仲やないんやろ。ほんなら、ええやないか。何の問題があるねん」
「不破……」
「それに、何か大変なことがあったんやとしたら、弓菜も一緒に背負ってやれよ」
「一緒に……?」
「せや」
 不破が八重歯を見せて笑うと、弓菜もつられて微笑んだ。
「そう、だよね。うん。やってみる」

6章:切願・終