THE FATES

7.繋鎖(1)

 細い間道は落石で塞がれていた。
 青竜は目の前に積み重なった岩を見上げて、声を失った。視界の上辺に染みだした赤黒い空が、嘲笑を浮かべているように見えて、舌打ちをする。どうするべきかを考えようとするほど、思考は滞った。
 ここを乗り越えることがいかに不可能か、青竜にはよくわかっていた。この落石を用意したのは他でもない青竜自身だ。追撃から逃れるためにどの程度を配置すればいいか、入念に計算をした。たとえよじ登ることができたとしても、途方に暮れるだけだ。
 斜面に小石がこぼれた。見上げると、崖の上に子供の姿があった。桟李(さんり)だ。青竜は持っていた弓に矢をつがえて向けた。
「貴様か、桟李」
「ち、違うんだ。ごめんなさい」
 桟李は棒のような細い体を震わせていた。浅黒い肌でも血の気が引いているのがよくわかる。手には縄を切ったと思われる短刀を握ったままだ。青竜には、まだ幼い彼が単独でやったとは考えられなかった。
「誰の指示だ。桟司(さんじ)か」
 問いに、桟李は素直に頷いた。
『気をつけてね、青竜』
 ついさきほど、別れ際に桟司が残した言葉がよみがえる。爽やかに映った笑顔が、記憶の中で捻じ曲がる。
「奴は比古を?」
「わかんない」
 眉を寄せて桟李は首を振る。嘘をついている様子ではない。おそらく桟李は、兄である桟司から、岩の縄を切るように言われただけなのだろう。落石に巻き込まれなかったのは、幸運だった。
 否。青竜は心の中で首を振った。
「お前、わざと外したのか」
 鏃の先で、桟李は体を震わせたまま黙り込んだ。頬は涙で濡れている。これ以上、桟李を責めるのは酷に思えた。
 比古を押さえられたとなると、遠見が利かず、戦線への指示が出せなくなる。統制がとれなければ、勝ちは厳しい。
 だがそれが桟司らの本当の狙いではないとしたら。
 崖の向こうから、剣戟の轟音や歓声が聞こえてくる。おそらく押しているのは味方の軍だ。左右から周防と志位が上がっているのだろう。
 足元に伝わる戦の振動が、不安の盆を揺らした。
「だめだ」
 左方の廃墟には桟越(さんえつ)の部隊を伏してある。左右が攻め上がった状態で横腹を衝かれれば、久暉の部隊が孤立する。
「いけない、久暉様」
 青竜は弓の構えをといた。
「桟李、俺を前線まで運べ」

 薄雲の向こうに、淡い光が満ちている。
 ここ天水も、朝だけは明るい。
 夜の暗闇と無意識のうちに比べているのだとしても、今しか素直に明るいと喜べないなら、本当に明るいかどうかを考えることは無意味だ。
 砂で描かれた地平線を呆然と眺めながらも、青竜の目には過去の残像が見えていた。壊走せざるをえなかった、久暉を喪いかけた、あの日の残像が。
 十五年前のあの日、桟李の移動法で前線へ降り立った青竜は、砂煙の上がる戦場で久暉の姿だけを探した。部隊はすでに桟越の急襲を受け、壊滅状態となっていた。後方にいたはずの物資回収班は、荷物をその場に置いて逃げ出していた。
 作戦がいつも成功したわけではない。たくさんの失敗と犠牲の上に、彼らはいた。だが、あれほど決定的な敗北を喫したのは、はじめてのことだった。
 青竜は状況を受け入れられず、必死になって久暉を探した。彼さえ探し出せれば、どんな劣勢も覆せると信じていた。
 久暉に不可能はない。なぜなら彼は、世界を浄化し、その頂点に立つべき存在、神にも等しい存在なのだ。
 だからこそ、彼の後ろ姿を見つけたときには、この場を切り抜ける方法について即座に考えることができた。
 久暉の、まだ少年と呼べる背中から、剣の切っ先が生えるまでは。
『やめろ、慶栖(けいす)。殺すな』
 掠れた声でようやく久暉がそれだけを言ったとき、すでに青竜は桟越を含む三人を殺していた。
『仲間だろう』
 ほとんど息だけの声になっても、久暉はそう言って青竜を諌めた。唇は何度も震え、仲間という言葉を繰り返しているようでもあった。
 思い出すと、吐き気がこみ上げた。青竜は口元を押さえて砂の上に膝をついた。
「久暉、様……」
 砂の向こうへ去っていく久暉の背中を、追いかけることができなかった。恐怖で足が竦んだのだ。あの日の惨状を前にしても怯まなかった心が、今は明らかに萎縮していた。
 あの日、息も絶え絶えになった久暉を担ぎ、青竜は周防と志位に守られて本営まで戻った。誰もが声を失い蒼白になったが、青竜だけは彼を助ける算段にすでに取り掛かっていた。まだ久暉の力が及ぶ間に斎園(さいえん)を抜けて竜樹(りゅうじゅ)に入り、久暉の魂を保管しておける器を探した。それがあまりにも冷静だったせいか、比古の軽蔑にも似た視線をよく覚えている。
 みるみる閉ざされていく久暉を前にして、青竜に動揺がなかったとは言えない。繋がりが絶たれていくことに、少なからず恐怖を覚えた。だがそれは絶望にはならず、やがて彼を救い出せるという喜びになった。どれだけ歳月を費やすことになっても、彼の瞳にあるべき青天の輝きを取り戻すことができる。自分になら、否、天地(あまつち)の杖を持つ自分にしかなしえないことだ。それは、他愛ない優越感などでは済まない、醜い征服欲まで満たすほどの悦楽だった。
 そう。肉体を癒すには、止血をし、傷口を縫い、薬を塗りこみ、包帯を巻けばいい。術自体はまだ未完成だが、最後の鍵はすでにここにある。多少の狂いはあったが、すべて計画通りに進んでいる。問題は一つもない、はずだった。
『すべて諦めることも視野に入れろ』
 だが、折れた志は癒せるものではない。
 皇子であった彼が、打倒皇室を掲げて戦いを続けられたのは、理想が、志が、魂があったからだ。皇子であることが、むしろ説得力に繋がるような熱情が漲っていたからだ。
『俺も、死んだのかもしれない』
 そう言った久暉の澄み切った眼差しが思い出される。
 本当に彼を喪う恐怖が、青竜を内側から縛めた。
「ああ、ああ……、久暉様」
『預かっていたお前の命も返そう』
「そんなもの、そんな、くだらない……」
 自分の命など、久暉を支えられるものでなければ、あっても意味がない。久暉のもとにあり、久暉のために費やせる命だからこそ価値が出るのだ。
 青竜は身をかがめて砂を殴った。ひとつひとつの砂粒は拳に小さな刺激を与えたが、痛みには程遠い。殴っても殴っても、やや深い窪みができるだけだ。あまりの手応えのなさに、青竜は爆ぜるような衝動すら手放し、うな垂れた。
 あの日にはなかった乾いた嗚咽が、体から剥がれ落ちていく。涙などなく、ただ声だけが洩れる。喪失感などという言葉では済まされない。青竜にとっての世界が、煙のようにすべて消えてしまったようだった。
 これが、死か。
 久暉が死を受け入れろと言うのなら、青竜に選ぶ余地はない。彼の志が折れ、熱情が凍りつき、未来が断たれたならば、青竜の時間は再び竜樹の森へと戻る、ただそれだけだ。久暉のいない明日など、今日のうちに捨ててしまえばいい。
 無常に流れる砂を掴み、手を開く。すぐに風にさらわれて、掌には何も残らない。砂を深く掻き出して両手で掬い上げるが、それでも奪われていく。乾ききった砂では留まることができない。
 青竜は竜樹の森を思い出す。黒く湿った土は、振り払っても指にこびりつき、爪の間に入り込み、粒は不揃いで、掘り返した地中には白い幼虫が隠れていた。手はいつしか濡れ、嗅ぐと血のにおいがした。それは世界が生きているにおいだった。そして青竜が生きている証しでもあった。死を選ぼうとする限り、人はそれまで必ず生きているのだと知った。
 天水は、死のにおいに満ちている。
 いや、死ですらないものによって強引に満たされている。それは幻想や願望や、その場凌ぎの愛情だ。それでは乾くのも仕方がない。諦念に覆われるのも防ぎようがない。虚しいだけの張りぼての世界で何ができよう。まして夢の中で見る夢など。
 久暉が何を望んでいるのか、青竜にはわかっていた。このまま斎園とは無関係の存在になって、見知らぬ土地で静かに生きていくこと。そして、終わっていくこと。
 だが久暉はその望みが罪深いということも知っていた。心の深いところで、悲しいほどわかっていた。だから死んだと告げたのだ。青竜に許してほしいと請うのだ。約束を守れないことを。二人を繋いでいた夢を断ち切ることを。
 誰にそれを責めることができようか。犯した罪を抱えながら、静かに生きることなどできはしない。それでもそうありたいと望む彼の切実な思いを、誰が。
 青竜はまるで祈りを捧げるように、砂の上に額を押しつけた。
 それは、自分だ。
 青竜は心の底に言い落とした。
 彼にただ生きてほしいと望めない自分が、確かにここにいる。
 久暉のために生きるというのなら、久暉が望む世界の中で生きればいい。だがそれを善しとできない。
 青竜の自我が理想の久暉を手放そうとしない。
 先陣を突っ切る青い輝き。慈悲深く傷つきやすい憂い眼差し。躊躇いを知らない剣先。曇らない未来、歪みない理想!
 青天を望めない天水では、空に面影を重ねることもできない。青竜は空を仰いで、張り裂けそうな叫びを上げた。体にこびりついていた劣等感が風に剥ぎ取られていく。残ったのは、一つのいのち。
 手に、天地の杖を握りしめる。先を喉元に向ける。杖は青竜の意図を汲み取り、更に先を尖らせ、槍のように研がれていった。
 自分が久暉の歩みを鈍らせてしまうのなら、それだけは避けなければならない。
 終わらせなければならない。
 朝の光は徐々に翳り、空はくすんだ綿を敷き詰めたように掠れた。
 切っ先が皮膚を引っ掻く。薄く切れて、血が滲んだ。痛くはない。風が触れて冷たかった。
 杖を持つ手が震えた。死ぬのが怖いわけではない。諦められない自分がいたのだ。往生際が悪いと罵られようとも、術式の最後の鍵を壊すことはできない。自分は、まだ死ねない。死んではいけない。久暉を殺すわけにはいかない。
 青竜は杖を手放し、深く息をついた。見上げた空に青がなくとも、天水で理想を断たれようとも、久暉の術式だけは完成させなければならない。でなければ、竜族は無駄死にだ。
 吹き止まない風は細く鋭く、服をすり抜け突き刺さる。
「久暉様」
 追いかけなければ。彼を。
 膝に手をついて立ち上がる。砂を踏む足は重かったが、それでも青竜は体を引きずるようにして歩き出した。
 数歩進んだところで、青竜は不意に立ち止まった。背後に誰かがいることに気付いたのだ。
「やっと、気付いたね」
 声は凍馬のものだった。青竜はゆっくりと振り返る。
「何用です」
「なにって、これ以上結界を乱されたら困るからだよ」
 そう言って、凍馬はにこやかに微笑んだ。