THE FATES

7.繋鎖(2)

 たかが結界の乱れなど、青竜はそう思ったが黙って凍馬に向き合った。凍馬がいつからそこにいたのか青竜にはわからない。だがこの爪先が結界の淵であることは予想がついた。
「久暉様を追いかけます。あの人がいないなら、ここにいても仕方ない」
 青竜は砂の上を見遣り、天地の杖が消えていることを確認した。
「それに結界が乱れて鬼使に気取られると言うなら、すでに手遅れでしょう。久暉様が出て行かれたのですから」
「いや、彼は特別。きっと瞬は、気付いても追わない」
「なぜそんなことが言えるのですか」
「あいつのことなら、何でもわかるから」
 いつものにこやかな笑顔に薄雲がよぎる。凍馬の事情に興味はない。青竜はそれ以上の追及を控えた。
「では、このまま久暉様を行かせてしまうのですか」
「君にそれはできないだろう。それに、馬で行ってしまった相手を、どうやって追いかけるの。まあ、とりあえず落ち着いて」
「私は落ち着いています」
「そうかな」
 凍馬は髪に結わえた綾紐を指に巻きつけ、短く笑った。
「ねえ、そろそろ教えてくれてもいいだろう。久暉君にかけた治癒術のこと」
 伏し目がちになった麦色の瞳は、それまで青竜がいた場所に注がれていた。天地の杖を出した場所だ。
「聞き出せば、私たちを鬼使に売り渡すつもりですか」
「物騒だなあ。そんなことをしたと姉さんに知れたら、ひどく怒られるから。しないよ、安心して。ただ……」
 真っ赤な綾紐をつまみ、喉に軽く引っ掛ける。遠目に見ると、傷のようだ。青竜は思わず自分の喉に手を当てた。
「君が大切にしているものは、なくなるかもしれない」
 静かに微笑む凍馬には、言い知れぬ狂気があった。青竜は砂の上を横目に見て、杖がないことをもう一度確認する。
 青竜の首筋に滲んだ血は、すっかり乾いて固まっている。今さら拭っても意味がない。もし天地の杖を凍馬に見られていたらと、最悪の事態を想定する。だとしても、術式が完成するまで奪われなければそれでいい。
 それに、竜族でもない凍馬がこの術を使えるとは思えない。いや、ありえないのだ。
「今は、まだ……」
 久暉がいない間に、事を荒げるのには抵抗があった。青竜は途切れ途切れに言って、凍馬を盗み見る。彼は嘘みたいに和やかに笑って綾紐を手放した。
「まあ、そう言うだろうね」
 あまりにも頼りない手応えに、青竜は思わず声を漏らした。
「は。どういう……」
「久暉君は、俺が連れて帰ってくるよ。できれば、君が望む彼に戻して。たぶん、けしかけたのは俺だから、責任とらないと」
 凍馬は青竜のそばまで歩み寄り、中空に腕を押し出した。手を中心にして、光が歪んだ。雨に濡れた蜘蛛の巣のように波紋が広がる。
「質問の答えになっていません」
「そうだね」
「あなたは、どうしたいのですか。私たちを」
 青竜の目に、凍馬の動揺が映る。それによって青竜の中にあった焦燥は次第に収まっていった。久暉を信じる気持ちが勝り、すべての逡巡が雪のように消える。
 凍馬は結界に向けていた手をおろし、口を歪めた。
「君に、嫉妬している」
「え」
「どうしたら、君みたいにできる。君のようにすべてを彼に賭けられる」
 凍馬は追及されたがっていた。青竜は沈黙を返す。
「俺も何もかもを犠牲にしたかった」
「あなたは必死に琉霞さんを守っているじゃありませんか」
「同時に守られながら、ね」
 力なく首を振り、凍馬は他人事のような乾いたため息をついた。
「違うんだ。姉さんじゃなくて」
 鼻歌でも歌うように笑みをこぼし、顔をしわくちゃにさせる。
「普通、そう考えるよね」
 手で顔をおさえ、凍馬は肩を揺らした。青竜には彼が笑っているようには見えなかった。
 結界に響いていた波紋がようやく消えていく。
「聞かせてよ。君たちは斎園という場所で何をしていたの。どうやってその絆を紡いだの」
「それは、今お話しすることですか」
「うん。できれば。久暉君を説得するための材料がいるだろう」
 凍馬は青竜の肩を軽く叩き、目を細めた。朗らかな笑顔には、否と言わせない迫力があった。
 青竜はためらいの沈黙ののち、眉を寄せつつ口を開いた。
「斎園は、天水を静とするなら、動の地獄です。空は赤黒く濁り、吹く風は生温く澱んでいる。土も水も汚れきり、草木は毒を吐き出す。抵抗力の弱い純血種族にはあまりにも息苦しく生きづらい、そんな場所です」
 思い出すだけでも青竜は息が詰まりそうだった。竜族の純血である青竜にとって、斎園での生活は生半可なものではなかった。
「斎園には国は一つしかありません。最初の統治者の名前をとって、旋利(せんり)皇室と呼ばれています。彼らは絶対の統率者として君臨し、民衆が死に物狂いで育てた作物も、家畜も、人も、ありとあらゆるすべてを搾取していく。人々は奪われ続け、疲れ果て、争い、殺し合い、何もかもを諦めていた……」
「天水よりは、ある意味健全かもしれないね」
 そう言って凍馬は静かに微笑んだ。青竜は横目に彼を一瞥し、短く息を吸った。
「久暉様は、旋利皇室の第二十三皇子です」
「皇子……?」
「はい。また、旋利皇室に唯一弓をひいた英雄でもあります」
「つまり彼は、自分の親や兄弟を相手にして戦っていたのか」
「そうです」
「一体、何のために」
「それはもちろん、斎園の民を皇室から解放するためです。あの圧政、いや、あれはもう政治などではありません。彼らの暇つぶしの遊戯のために、多くの者が犠牲になりました。皇室にとって民衆とは、家畜であり、穀物であり、娯楽であり、それ以上でも以下でもない。麦の一粒が麻袋から簡単にこぼれてしまうように、人々の命も消えていく。こうやって話している今も、きっと」
 斎園を地獄に見せるのは、空の色でも風の濁りでもない。そこを支配する皇室の暴挙のためだ。
「私が久暉様について斎園へ赴いたときには、すでに一つの抵抗集団が出来上がっていました。組織として未熟な点は多かったものの、彼らは確かに強かった。そして、必要な人員と規律さえあれば、もっと強くなると感じました。久暉様もそれをわかっていたのか、私が竜族で軍務補佐を務めていたと知ると、すべての作戦立案を任されました。部隊の構成から綿密な計画までを、よそ者の私に」
 久暉が倒れてから十五年の間、事実上の停戦状態に入っていた。少々の偵察行動は行っていたが、皇室の横暴に対して事を起こすことはしてこなかった。
 民衆は久暉から夢を教わっただけ、深い失望の中にある。再び夢を忘れた世界を見て、久暉は心を痛めるかもしれない。彼は自分をひどく責めもするだろう。
 目には見えない杖を意識の中で握りしめ、青竜は砂漠の縁を眺めやる。
「急がなければならないのです」
「意外だな。君がそんなに正義感に燃えていたなんて」
「私が?」
「ああ」
「まさか」
 青竜は誇らしげに鼻で笑った。
「久暉様が、斎園を救いたいと願ったからですよ」
 恍惚と呟く青竜に対して、凍馬は返す言葉を持たなかった。
「私は戦慄しました。彼の強さに」
 一見すると冷徹な空色の瞳は、配下の兵を遠ざけた。面差しに残る幼さの影が、彼をより一層不気味な存在にした。だが何よりも彼らを恐れさせたのは、久暉の鬼神のような戦いぶりだった。初めて彼が戦う姿を見たときには、青竜はよくこれまで死なずに済んだものだと心底から驚いた。無茶、無謀、どのように表しても足りないほど、命知らずな戦い方だった。
 久暉は戦が嫌いだと言う。だがその言葉は容易には信じがたい。戦場に降り立った久暉は、水を得た魚のように輝き、躍動し、生命の美しさを振りかざしていた。
 彼は強かった。
 必死になって彼の姿を目で追ううち、知らず拳に力が入った。
 本当に惹かれたのは、その時だったのかもしれない。青竜の中で「世界」という言葉が現実味を帯びたのだ。
 凍馬の軽やかなため息に、青竜は顔を上げた。凍馬は腕を組んでじっと青竜を見つめていた。
「青竜。君の瞳は、もうないんだね」
「え」
「君の瞳も、夢も、正義も、未来も、いのちまでも、すべて久暉君と同化してしまって――」
 続く言葉に戸惑ったのか、凍馬は不自然に黙り込んだ。俯くと鮮やかな綾紐が緩やかに揺らいだ。
 青竜は不意に喉もとの傷が痛むのを感じた。見透かされていることを煩わしく思いながら、青竜には先ほど凍馬がこぼした嫉妬という言葉が気にかかった。
 俯いたままで、凍馬は前髪の隙間から目を覗かせる。
「君にとっては、自分に賭けることも彼に賭けることも、同義。だから、そうやって生きられるわけだ」
 凍馬の麦色の瞳の奥には、隠しがたい羨望が輝いていた。青竜は彼の心に素手で触れた気がした。
「あなたは一体、誰のために……」
「結局、自分しか見えていなかった」
 凍馬は青竜の問いをはぐらかし、眉を歪めて笑った。自嘲というにはあまりに哀しい笑顔だった。
「やっぱり君が羨ましいよ。そうやってできるのは、久暉君も本質的に望んでいるからだね。青竜、君がそうであることを」
 青竜の痩せぎすの肩に、凍馬が手を乗せる。見おろした先の凍馬の瞼にはもう、羨望の影はない。抜き身の彼の心もない。青竜は口を噤んだ。
「必要とされてる。きっと、誰より」
 上滑りするような言葉を吐いて、凍馬は髪に結わえた綾紐を指で絡め取った。口を使って、印を結んだ両手に複雑に巻きつける。
「五日して帰ってこなかったら、結界から出て、瞬に助けを求めてくれ。やりづらかったら姉さんに頼んでもいい。でもそれまではここから出ないで」
 凍馬が宙に息を吹きかけると、視界が歪んで波紋が広がった。その中心に指を滑らせて小さく文言を呟く。やがて、両手に絡み付いていた綾紐は音もなく焼き切れて、結界にはぽっかりと穴があいた。
「必ず、久暉君を連れて帰ってくるから」
「どうして、そこまで」
「言っただろう。姉さんをきれいな体に戻してあげたいだけだよ」
「しかし、あなたにこの治癒術は――」
 そこまで言って、青竜ははっと言葉を飲み込んだ。真実を知れば、凍馬に久暉たちを匿う理由はなくなる。
 しかし凍馬は、青竜が飲み込んだ言葉に興味を示さず、術のため掌に負った軽い火傷を見つめていた。
「死んでから考える生き様は、虚しいものだよ、青竜」
 傷に舌を這わせ、凍馬は眉をひそめた。青竜は乾ききった喉に唾を押し込んだ。
「……忠告、ありがとうございます」
「まさか」
 凍馬は疲れきった笑いをこぼした。
「ただの愚痴だよ」
 結界の向こうへ踏み出した凍馬の姿は、数歩進んだところで溶けるようにして消えた。