THE FATES

7.繋鎖(3)

 駆け出すと、天幕はあっという間に視界から消えた。久暉はそれでも全速力で馬を走らせた。追いつかれるのを嫌っただけではない。揺れ続ける自分の心を蹴散らしたかった。
 服越しに馬の熱気が伝わる。じわりと蒸れた。息もすっかり上がっている。久暉は徐々に速度を落とし、ゆるゆると手綱を引き絞った。馬の背から飛び降りると、砂に足を取られて膝がぶれた。鞍を置かずに乗っていたため、しばらくは真っ直ぐ立つこともつらかった。馬は鼻先を久暉の肩口に押し当て、気遣った。
「いい子だ」
 久暉は馬の鼻を撫で、汗ばんだ首を抱きしめた。
「ここから、帰れるか」
 問いかけに、当然と言わんばかりに馬は鼻を鳴らす。久暉は馬首を来た方向へ向けて手綱を外し、強く背中を叩いた。
「ほら」
 馬は弾かれたように駆け出した。砂塵が巻き上げられ、波のように打ち寄せる。久暉は砂から目を守りながら、風に揺れる馬の尾が見て取れなくなるまでその場に佇んだ。
 戻るなら今しかない。馬はもうないが、歩けない距離ではなかった。途中で青竜や凍馬に行き合えるかもしれない。そう考えれば、ここは途方もなく遠い場所ではない。だが久暉には戻る理由が見つからなかった。
『あなたは、死ぬつもりだったんですか』
 息詰まるような青竜の問いかけが、耳の底でこだまする。彼が求めるように否定してやることはできなかった。むしろ、その言葉のおかげで解放された心地だった。苦しみから逃れるすべを、死に夢見ていた。それを青竜に見抜かれたことで、了承を得たような気がしたのだ。
 陽射しのない天水の砂漠は、即座に命を脅かすものではない。だが湧き上がるような喉の渇きに、久暉はたまらず苦笑をこぼした。肉体はどこまでも生きることを望むらしい。
 棒立ちになったまま辺りを見渡すが、水辺らしき場所は見当たらない。それどころか、灰色の空と雛色の砂漠のほかは何もない。あるとすれば、それは久暉だけだった。
 今はまだ、歩いてきた足跡が辛うじて砂の上に残っている。これを手がかりに進む方向を決めることはできる。だがそれは来た道を戻らずに済むだけのことだ。天水の地理などまったくわからない久暉には、水辺の場所はおろか、この先に何があるのか知るはずもなかった。
 久暉は足跡が消えてしまわないうちに、再び歩き出した。
 ざくざくと砂の上を歩く。きめが細かく粒の揃った砂は、踏みつけるたびに埃のように舞い上がった。
 砂漠を歩くのは、容易なことではなかった。目で見るよりも起伏は激しく、想像以上に体力を削がれる。久暉は額から流れる汗が目に入らないよう、袖で何度も拭った。
 ふと立ち止まり、久暉はまた辺りを見渡した。ずいぶんと歩いたはずだが、景色は一向に変わらなかった。薄汚れた綿を敷き詰めたような空も、ふるいにかけられたような砂漠も、ずっと同じところを歩いているように感じさせた。だが振り返れば、たしかに歩いてきた証しが足跡となって続いている。体にのしかかる疲れも、久暉には確かなものだった。
 それでも、馬を見送ったあの場所から、一歩も動いていないのではと疑ってしまう。それほどまでに、天水という場所は異質なもので構成されていた。
 久暉は眉をしかめて俯いた。足元に明確な影はない。光が足りないのだ。はっきりと日が暮れるまでは、時間の経過を知ることはできなかった。成果を実感できない焦りが、久暉の疲労を何倍にもした。
 重い足で再度踏み出したが、耐えかねた久暉は息を切らして膝を折った。そのまま砂の上に倒れこむ。体を支えることもできたが、支える意味を見いだすことができなかった。
 汗で濡れた頬に砂が吸い付いた。細かな砂は、思いのほか痛かった。指先につまみ擦り合わせると、指の腹には粉のような砂がおしろいのごとく張り付いた。光があれば輝くだろうにと、低く笑う。
 久暉は耳を澄ます。だが、何も聞こえない。風の音が耳障りだったので、上着についていた頭巾をかぶった。風の音は厚手の布に遮られ、くぐもって久暉を取り囲んだ。しばらくそうやって音を嗅ぎわけていたが、唸るような大地の鼓動はやはり聞こえなかった。それは音が届く範囲に生物がいないことを意味していた。生きるものがいない世界、それは凍りついた、止まった世界だ。
 初めて天水の地を踏んだときから、喉に刺さった魚の小骨のように、無視しがたい違和感があった。
 生きている心地がしないのだ。
 それが天水のせいなのか、自身のせいなのか、久暉には区別がつかなかった。つい最近まで、死に近い状態にあったのだ。生命力に満ちた竜樹の森にいても同じように思ったかもしれない。
 ただ、止まった世界があるなど、久暉には信じられなかった。斎園でさえ、命は巡り、大地は蠢き、空は流れていた。あの地獄でも、世界は動き続け、そして生きていたのだと、天水のいびつさが教えてくれた。
 久暉は寝返りをうって、大の字になって空を見上げた。
 静かだ。
 耳鳴りに似た風の音は、天水の静寂をさらに際立たせた。ゆるやかに流れる雲も、目を凝らさなければ止まっているようだ。
 自分と天水は、似ているのかもしれないと久暉はふと思った。天水の在り方を奇妙に感じながら、久暉は天水を嫌いにはなれなかった。居心地は悪くないのだ。
 寝転がった胸や腹に、うっすらと砂が降り積もっていた。片腕もみるみるうちに砂に埋もれていく。久暉は薄く開いていた目を閉じた。大地に呑まれ、ひとつになっていく感覚は、不思議と怖くはなかった。静かな天水と一体になれば、自分の胸のうちも静かになれるかもしれない。由稀の中で目覚めたときの方が、よほど孤独で恐ろしかった。