THE FATES

7.繋鎖(4)

 由稀はどうしているだろう。
 離れてから何度も巡らせた思いを、久暉はまた胸に抱いた。
 会って、話がしてみたかった。
 久暉は、由稀になら何でも話せる気がしたのだ。ずっと彼の中にいて、成長していく彼をずっと見続けた。仲間でも、親子でもない親密な感情があった。ふと比古と周防の顔が浮かんだ。兄弟の繋がりとは、もしやこういうことかもしれないと思った。
 だが、そのようなことが許される立場でないことも、よくわかっていた。望むだけで、罪悪感は膨れ上がった。由稀から家族を取り上げたのは青竜だ。そして彼にそうせしめたのは久暉である。
 指先から肘まではすっかり砂に埋もれ、指を曲げようにも曲がりきらない。口や鼻にも砂が覆いかぶさり、多少の息苦しさを感じる。だが砂に頬を押し当てたときのような痛みはなかった。
 今こそ、終わらせられる。そう思った。
 だが静けさはすぐに打ち消された。
 地面を介して背中に伝わる音があった。はじめ久暉自身の鼓動かと思ったが、響きは何重にも聞こえた。馬蹄だ。屋根を滑り落ちる雪にも似た、引きずるような車輪の音もする。
 久暉は砂の中から跳ね起きた。口に混じった砂を吐き捨て、頭巾を被りなおす。体を低くして、盛り上がった砂山に腹這いになった。気配を殺す。
 馬の嘶きが、たしかに聞こえた。
 腹這いのまま砂山を登って覗くと、馬車が何台も連なっていた。車には幌がかけられ、目を凝らすと隙間から木箱が見えた。おそらく商人の一行だ。
 一団の前と後ろには数騎ずつがついていた。ほとんどの乗り手は武器を持っていないが、二人だけが長銃を背に担いでいた。だが防具もつけておらず、辺りを警戒している様子もない。久暉には彼らの銃が見せかけに思えた。
 隙だらけの隊列を襲うのは容易だ。だが久暉は彼らに見つからないよう荷台に忍び込みたかった。どこへ行く隊商かはわからないが、どこへ行こうとも久暉には差がない。どこかの街へ辿り着ければそれでいいと思った。できれば、すぐに水も飲みたかった。
 だが近づこうにも、砂漠には隠れる場所がほとんどない。砂山の起伏を利用しても、乗り込めるほど近づくことはできない。
 久暉は空を見上げた。朝を迎えてどのくらい経ったかわからないが、夜にはまだはやい。夜陰に紛れるのが安全だが、それまで待つ心の余裕はなかった。
 彼らに助けを求めることも考えたが、言葉がわからない不安が久暉の決断を鈍らせた。おそらくこの髪や目の色も相手を警戒させるだけだ。
 殺される心配はしていない。だが殺さない自信がない。
 じわじわと隊との距離が開いていく。これを逃したら、もう誰とも行き合わない気がした。久暉は砂山から起き上がり、腰を落として隊列を追った。
 不意に背中を押されるような強い風が吹いた。隊列はかけ声とともに歩みをとめ、荷車と繋がる長い杭を砂の中に打ちつけた。久暉は風が吹いた方を振り返った。
 砂嵐だ。
 地平線が掻き消され、天地を繋ぐ砂の壁が聳えていた。それは驚くべきはやさで近づいてくる。久暉は隊列に視線を戻した。彼らは砂嵐の襲来に備えて荷車を固定し、馬と自分を堅い獣の皮で覆っていた。視界はほとんどないに等しい。馬は砂嵐に慣れているのか、さほど怯えた様子ではなかった。
 久暉は砂嵐と自分の距離を目測ではかる。そして自分と隊列の距離もはかった。ごく弱い結界を自分のまわりに張り、短く息を吐いた。砂嵐の振動が久暉を下から突き上げる。久暉は風に押し出されるように、隊列に向かって走り出した。すぐに砂嵐が久暉を包み、隊列の上を舐めていった。
 やがて砂嵐を追いかけるように大粒の雨が降り、空気はすっかり清められた。隊商の男たちは馬の機嫌をとって、荷車の杭を引き抜くと、再びゆったりと進み始めた。

 荷の影に隠れて商人の目から逃れ、久暉は五日五晩を荷台の隙間で過ごした。皆が寝静まる頃には外に出たが、四日目の夜までは相変わらず砂漠の中だった。だが五日目の夜、地平線の向こうに、闇に浮かぶ白い影が見えた。街の光だ。雲が垂れ込める天水の夜空に、光が映っているのだ。久暉の胸は思いがけず躍った。
 久暉はすぐに二番目に状態のいい馬を荷車から放し、手綱をかけた。馬は耳をあちこちに向けて警戒を示したが、取り乱すことはなかった。久暉は隊商の天幕に目礼し、馬に跨った。
「はい」
 声をかけて腹を蹴ると、馬は飛ぶように駆けた。それまで荷車を牽いていた馬だ。軽くなったのが嬉しいのかもしれない。久暉は馬が急に飛ばして足を痛めないよう、ゆっくりと手綱を引いた。
 地平線に見えた街の灯りは、どれだけ走っても近づいたという手応えは得られなかった。だが夜の闇を照らす光は、久暉にとって希望にも思えた。景色の中にようやく現れた変化は、思いのほか久暉の心を慰めたのだ。
 白く滲んでいた光は、近づくにつれて赤茶けて感じられた。赤みを帯びた空に、久暉は郷愁を超えた憂鬱さを覚えた。
 夜がやがて白々と明けていき、久暉はようやく街の全貌をはっきりと見た。馬をとめ、やや高い丘から街を見下ろす。
 要塞のように険固な街だった。岩山を斜めに切り落とした地盤は、遠くから見ると、かすかに口を開いた二枚貝のようだった。門は扇状に広がる街の要の場所に一つしかなく、龍羅飛の廃墟でも見たような外壁が、ぐるりと街を囲んでいる。道は整備され、街区も整然としていたが、大きな岩盤の上に密集した街並みは美しいとは言えなかった。まるで怯えて身を寄せ合う小動物のようだ。
 だが街の奥に据えられた城は、息を呑むほどに美しかった。銅錆色の煉瓦を基調に組まれた外壁には落ち着きがあり、空を刺す槍穂のような尖塔はしなやかで優美だった。庭には萌黄色の芝が生い茂り、花が咲き乱れていた。
 久暉は、青竜と見た竜樹の城を、眼下の城に重ねて見た。どこか似ている気がしたのだ。細部ではなく、まとう凛々しさが竜樹を思い出させた。
 久暉は彼と出会った日のことを、まるで昨日のことのように思い返す。
 人に見つかることを怖れながら、青竜は城が見下ろせる高台まで久暉を案内し、抑えた声で告げた。
『あれが私の生まれた場所です』
 森と水に恵まれた竜樹は、それ自体がすでに美しかった。だがそこに荘厳として佇む城は、もっと美しかった。感嘆のため息がこぼれた。
『本当に、美しい国だ。お前は幸せだな』
『いいえ、そのようなことは』
 出会ったその日から、青竜は慇懃だった。逃亡者だった彼は腕や頬に擦り傷を負い、泥だらけになっていたが、揺らぎのない黒い瞳には高い誇りが感じられた。久暉は、たとえ天地の杖が利用できないものだとしても、彼を斎園へ連れ帰ろうとあらためて決意した。
『そういえば、まだ名を聞いていなかったな』
『青卑竜慶栖と申します』
『変わった名だ』
『青卑竜というのは官名のことです』
 青竜は目を伏せて口早に言った。
『よろしければ私のことは青竜と――』
『私は名を聞いた。お前の官職のことなどどうでもいい』
 久暉が青竜の言葉を遮ってそう告げると、青竜は顔を上げて目を丸くした。
『慶栖、と申しますが……』
 その時の青竜の、照れにも似た動揺が久暉には嬉しかった。
『では、慶栖。もう一度問う。お前はこの美しい故郷を捨てることが、本当にできるんだな』
 振り返ると、青竜は薄い唇を固く引き結んで、頷いた。
『はい。仰せのままに』
 記憶に写し取られた青竜は若い。だが年を重ねた今も変わらずに、青竜は同じ眼差しで久暉を見つめた。
 久暉は、その眼差しの先に立つのが好きだった。自分のうちから、無尽蔵に力が湧いてくる気がした。いや、実際に漲った。肩を並べ、一緒に戦ってくれる仲間ならそれまでにもいた。比古や周防は、久暉の力を認めてくれていたし、久暉も彼ら兄弟を信頼していた。だがそれでもなお飢えた自分がいたのだ。
 青竜の崇拝にも似た久暉への献身は、久暉の隙間を埋め、強く大きくした。
『あなたが命ずれば、私は鬼にも悪魔にもなれるのです』
 数日前に天幕の下で語った青竜の、出会った日と変わらない瞳を思い出す。
 彼が久暉から決して離れないことも、久暉のためなら何ものをも惜しまないことも、ずっと昔からわかっていた。だというのに、久暉は今も青竜を失うことに怯えている。彼に見限られる日を恐れ、彼が考える猶予を持つことに過敏になっている。だから、いつだって彼を追いつめていたいと思う。
 自分は青竜を試しているのだろうか。
 久暉のためならと、どこまで言っていられるのか。
 馬が鼻を鳴らした。立ち止まったまま動こうとしない久暉に対して、苛立っているようだった。
 空は徐々に白さを増す。ゆるやかに夜が明けようとしていた。久暉は人目が少ないうちに、外壁を越えて街へ入りたかった。
「悪かったな」
 夜風に冷えた馬の首を撫で、久暉は勢いよく砂丘をくだった。