THE FATES

7.繋鎖(5)

 雲間から、朝が滲んだ。
 瞬は自室の寝台に靴を履いたまま寝転がり、明けていく夜を横目に見つめていた。壁一面に広がる大きな窓は、なけなしの光を受けて濡れているようにも見えた。
 繰り返される朝は、瞬が輝宮(てるみや)に呼ばれて城へ上がった日のものだ。工場の煙で曇りがちの空だったが、その日は珍しく光で満ちていた。
 瞬は、この時間が好きだった。
 ゆるゆると遠慮がちに、だがたしかに夜を追い払う朝の力に、浄化の幻想を重ね見ていた。だから、朝だけは光を残しておきたかった。
 希望を信じられなくても、希望という言葉を忘れないために。
 それが何のための希望かは、瞬自身にもわからない。天水の未来を憂えてのことか。それとも自分の明日を嘆いてのことなのか。
 瞬は呼吸を整えるように、長く息を吐き出した。目を閉じ、両腕でさらに覆う。
 脳裏に、龍羅飛の学舎が浮かび上がった。だがその記憶は曖昧で、雲に覆われた光のようにぼんやりとしていた。
「師範……」
 掠れた声で呟く。胸の奥に、御しきれない感情が蠢いた。それらはそれぞれの色を放ち、沈んだり千切れたりしながら絡み合って、やがて繋ぎ目を失っていく。あとには感傷の塊が残った。
 桟楽(さんらく)にいるという龍羅飛の老人がもしも本当に東按(とうあん)なら、今抱えている問題が一気に片付く可能性があった。龍羅飛において師範という地位は司祭に次ぐもので、実質的に一族を導いていたのは彼らだった。隠された歴史についても詳しく、東按なら龍羅飛と竜族の関係について、知っていることがあるかもしれない。おそらく神域の狭間のことも知っているだろう。
 神域の狭間。瞬には聞きなれない言葉だった。
奏奴(かなめ)が追い求めた世界のことだ』
 墓守の民を訪れた際、仁支(にし)から聞いた話を思い出す。奏奴はたしかに神域の狭間を探していたのかもしれない。仁支が言うように、奏奴は脆い部分のある男だった。誰よりも強く、誰よりも冷酷だったのは、そのためだったのだろうと、今の瞬にならわかる。仁支が兄の奏奴からその話を聞いたのも嘘ではないだろう。だが瞬は神域の狭間の存在を容易には信じたくなかった。
 奏奴は、瞬を鬼使として育て上げ、絆景(ばんけい)という街の基礎を作った。対価さえ払えば女子供でも容赦なく殺し、気に入らなければ誰でも迷いなく殺した。長身で手足が長く、頬は粘土のようにのっぺりとして感情を見せなかった。
 だが奏奴は瞬を助け、瞬にだけは様々な表情を見せた。そして瞬を自分よりも優秀な殺し屋に作り上げ、瞬に殺されることを望んだ。
『まるで君は神の使いのようだね』
 神域の狭間を見つけられなかった奏奴は、瞬に救いを求めたのだ。
 手の中に握りしめた火付け具を、爪で引っ掻く。無防備な肌を舐められるような嫌悪感が、耳に響く。苛立ちが指先だけでは足りず腕にまで及び、瞬は寝台を殴りつけた。
 力みが重いため息になって体から吐き出されていく。ふと泣いてみたくなって、喉の奥で自嘲をもらした。
 枕元にあった煙草を手探りで見つけ出し、巻紙がよれたまま口にくわえる。鼻先を掠めるにおいは、落ち葉に覆われた黒土のようだった。
 不意に耳鳴りがした。薄い硝子が砕け散るような音だった。
 瞬は煙草に火をつけようとしていた手をとめた。耳を澄ますようにじっとして、遠い眼差しで天井を見つめる。
 久暉を、見つけた。
 さらに詳しく調べようとして、体を起こす。天水市街の門扉を乗り越え、久暉は街の中心部へと向かっていた。龍仰鏡がないために、常時感知できる範囲は市街に限られていた。まさか、この狭い網にかかるとは思っていなかった。
「ついてるな」
 まだ火のついていない煙草を甘噛みし、瞬は我知らず呟いた。素早く久暉に意識を集中させて、彼の辿った道を追う。
 もてあそんでいた火付け具に、勢いあまって火がついた。小さな火はまるで去勢された犬のように弱々しく揺らめいた。染み入るように伝わる熱は、熱いというほどではないが、粘ついて指先にまとわりついた。
『瞬、お前は火に焼かれたことがあるか』
 凍馬の穏やかで冷ややかな声音がよみがえる。瞬は久暉への意識を握ったまま躊躇った。
『俺はあれがほしい。あの術を姉さんに捧げたい』
 あのとき凍馬を見逃したということは、久暉と青竜を一度は見逃すと約束したと同じことだ。守る義務はないが、凍馬との約束を反故にするのは心苦しい。
 火をつけずにいた煙草を唇から抜き取って、額を押さえる。
『ねえ、瞬。いっそ、このまま――』
 炎の揺らめきの中に、凍馬の麦藁色の瞳がよぎった。今にも泣き出しそうな、どこか非難めいた眼差しが投げかけられる。瞬は苦しげな凍馬から逃れるように、火付け具の蓋を閉じ、久暉への糸も断ち切った。
 久暉らの居場所に関しては、墓守の民に一任して問題ない。厄介なのは、桟楽だ。
 かつて市街の地下には、水路が張り巡らされていた。工場の建設に伴いほとんどが埋め立てられたが、東の絆景と西の桟楽を結ぶ水路だけは辛うじて残された。すでに水路としての働きを失っていたため、資料から存在が消されていたのだ。
 瞬が絆景を仕切っていた頃は、水路の管理は墓守の民が行っていた。だが耶守によると、それも昔の話のようだった。
 絆清会(ばんせいかい)。それが今、この街を仕切っている組織だという。
 絆景への執着を失った瞬にとって、誰がこの街を取り仕切ろうと興味はない。だが、桟楽への道を押さえられていることは面倒だった。墓守の民の中に、絆清会と繋がりを持つ者はいるだろう。だが水路の管理は、絆景に根を張る者にとって権威の象徴とも言える。そう簡単に通してくれるとは思えなかった。無理に押し通ろうとすれば、街の力関係が崩れることもある。それだけは避けたかった。
 瞬は寝台から立ち上がり、窓に歩み寄った。見下ろせば、雑多で薄汚れた絆景が、朝の明るみの中で色を失っていた。光と入れ替わるようにして眠りにつくこの街は、今も天水の闇を背負っているのか。
 視線をあげようとして思いとどまり、瞬は広がる景色に背を向けた。頭の中が妙にざわついて、考えがまとまらない。冷静になろうと思い、部屋を出た。
 居間の長椅子では、由稀と紅が大きな寝息を立てて眠っていた。寝顔はどちらもまだ幼いが、それが彼らの年相応の表情だと思うと遣り切れなかった。弱々しい朝日でも起こしてしまう気がして、瞬は後ろ手に扉を閉めた。
 視界の隅に、小さな白いものが映った。見ると、壁際の床に紙片が落ちている。広げてみると、名刺だった。瞬は眉を寄せた。
 絆清会総統・新屋(あらや)清路。
 なぜここに絆清会総統の名刺があるのか、瞬には理解できなかった。天水の文字を読めないどちらかが戯れに拾ってきたのか。それとも本人からもらったのか。
 しばらくそこに立ち尽くし、瞬は壁伝いに中二階を見上げた。梯子の近くに落ちていたということは、羅依が持っていた可能性が高い。色々と想像するより、彼女を問い詰めるのが手っ取り早い。だが瞬は、梯子に手をかけたところで立ち止まった。
 下からでは、放り出された指先しか見えない。羅依もまた眠りの中にいる。無防備な彼女の寝顔を想像すると、寝所に立ち入るのはひどく躊躇われた。一刻を争うほどではない。起きてくるのを待てばいいことである。
 羅依にとって自分が特別な存在であることは、あの海で助けられたときから気付いていた。それがすぐに恋心へ変わったことも感じていた。それを煩わしいとは思わなかった。どこにいても追いかけてくる視線や、その視線が爪の先にまで及んでいることや、話す言葉のひとつひとつを宝物でも扱うようにしてくれるのは、質のいい毛布のように心地よかった。体中に巣食う孤独から、一瞬でも解放された。
 だが瞬にとってはそれだけのことだ。
 羅依が望むなら体を重ねることもできる。愛を囁くことも容易い。彼女を誰よりも慈しむことだって。
 だが、ただそれだけなのだ。
 そこに瞬の気持ちはない。すべてはただの行為にすぎない。それは相手が羅依だからではない。他の誰に対しても、心地よさ以上のものは持てなかった。
 かつてはそれを、愛とよんだ。
 目を閉じれば、海鳴りが押し寄せてくる。抱きしめた茜の体は、服にしみこむ海水よりもずっと冷たかった。
 愛を失ったと思った。この手が愛を切り捨てたのだとも思った。だが、そもそも何もなかったのだ。すべて幻想だった。
 それを愛とよぶことは、もうなくなった。
 上で羅依が身じろぎをした。下から覗いていた白い指先は隠れて見えなくなった。
 時折、思う。彼女が伸ばしてくれたこの手を、無邪気に握り返せたらと。
 梯子を握る手に思わず力が入り、梯子が軋んだ。小さな音が部屋中に響いた気がして、瞬は勢いにまかせて梯子を登った。登りきると、気配で起きた真小太が顔を上げた。訝しげに喉を鳴らすので、瞬は口の前に指を立てて黙らせた。真小太は顔を逸らしたが、瞬にはひしひしと真小太の視線が伝わってきた。
 片足は梯子にかけたまま、羅依の顔を覗きこむ。掠めるように触れた耳は熱い。瞬は彼女の体温を求めて、指の背で頬をなぞった。彼女の肌はもぎたての果物のように瑞々しく、握れば潰れてしまいそうなほどやわらかかった。
 もっと触れていたい。素直にそう思った。気付いて目覚めればいいのにと、強く思った。
 目元にかかった髪をかきあげてやり、指で梳く。長い髪を指に絡ませて唇に寄せる。甘い、少女の香りがした。朝焼けに染まる薄雲のように、淡い紫色をした彼女の髪が、瞬は好きだった。しなやかで、恥じらいがある。居丈高に咲き誇る大輪の花ではなく、雑草にまぎれて咲く花のように密やかで、逞しくもあった。
 指の間から、羅依の艶やかな髪が滑り落ちた。しかし瞬はそれを追わずに手を引いた。
 瞬は龍羅飛跡で感じ取った、絡みつくような視線を思い出す。あの視線の先から羅依を連れ出さなければいけない。染芙を、そして茜を喪った。今度こそは、守らなければいけない。
 奪うのは、結蘭だけではない。瞬自身もまた、いつ彼女を貫く矛になるかわからなかった。
 自分のためにも、繰り返すわけにはいかないのだ。
 瞬は梯子を数段降り、上半身だけ乗り出して、手荒く羅依の肩を揺すった。
「おい、羅依」
 吐息だけの囁きを投げかけると、ようやく羅依が薄く目を開いた。
「ん、誰……」
 目をこすりながら正面の影を捉え、羅依は一瞬で目覚めた。勢いよく起き上がり、息を呑む。
「あ、え、なな、なんで」
「あまり大きな声を出すな。下はまだ寝てる」
「う、うん」
 羅依は耳まで真っ赤にして、奥の壁に背中を張りつけた。おろした髪が胸元で跳ねながら、彼女の薄着の体を隠していた。瞬は彼女と壁を作るように、持っていた名刺を翳した。
「これはお前のもので間違いないか。一体どこで手に入れた」
「それは、その、色々あって……話すと長くなるんだ」
「拾ったのか。それとも」
 瞬の問いに、羅依が頷いた。
「いつだったかな。四五日前に、本人から」
 団子になった毛布を手繰り寄せ、羅依は考える素振りを見せた。
「瞬、それどこにあった?」
「真下に」
「そっか……」
「総統と話をつけることはできるか。呼び出すだけでいい」
「そいつに用があるのか。会うのか」
「ああ」
「そいつが何者かわかってるんだろ」
「立場はわかっている」
 瞬は名刺を指ではじき、羅依の足元へ飛ばした。羅依は掴んだ毛布を口元まで引き寄せ、首を横に振った。
「会わせたくない」
「どうして」
 瞬の追及に羅依は眉をしかめたが、意を決したように身を乗り出した。
「瞬が傷つくかもしれない」
 あまりにも真剣な羅依の眼差しに、瞬は否定することを忘れた。羅依は続けた。
「あいつ、瞬に会いたがってた。でも、ただの興味本位じゃなくて、もっと根が深い感じがしたんだ……」
 羅依は短く息を吸った。
「会ったら、だめだ。会わないで」
 引き絞るようにして言葉を紡ぐ。彼女は俯き、毛布を抱きしめた。
 瞬は羅依の頬に手を伸ばそうとして、逡巡ののち鼻をつまんだ。羅依はすぐに顔を上げて鼻を押さえた。構わずに瞬は言った。
「だったら羅依。お前が俺を守ればいい」
「え」
「その男を梅詩亭へ連れてきて、そのあとお前も同席するといい。何があっても俺を守れる範囲にいろ」
 抑え込んだ声は掠れて、言いくるめるための方便は悲壮感を伴った。
「まだ不安か」
 羅依は髪が乱れるのも厭わず、首を振った。
「いいよ、わかった。それならあたしが、守ってやる」
 淡紫色の彼女の瞳には、喜びと緊張が折り重なっていた。
「頼りにしてるよ」
 瞬は静かに微笑み、羅依でなければならない理由を見つけてやれたらいいのにと、他人事のように思った。