THE FATES

7.繋鎖(7)

 手元の煙草から灰が落ちた。
 瞬は気付かないまま、ずっと遠くの景色を眺めていた。目を閉じて、さらに景色に近づく。
 まるで鳥のように、瞬は街を見下ろす。
 市街はすでに人で溢れかえっていた。瞬にはまるで盤上にばら撒かれた駒のように見えた。もし世界に神が存在するならこのような気持ちかもしれないと、何度も味わった錯覚をまた抱く。無数にある駒のひとつが傷つき、倒れ、たとえ死んだとしても、何の感慨も湧かない。ひとつ消えれば、どこかでひとつ増える。ひとつひとつの駒の名を知らなければ、世界は意外と平和なのかもしれない。
 瞬は駒の中から羅依を探し出し拾い上げた。すぐ隣を歩く男は羅依の肩に手を回し、顔を近づけ、親しげに話していた。羅依は顔をしかめて迷惑がっていたが、心底から嫌がっているようには見えなかった。二人の会話の内容が気になった。だがさらに羅依に近づこうとして、瞬はひどい頭痛に襲われた。手繰り寄せていた羅依への糸をとっさに緩める。
 龍仰鏡がないせいか、力が安定しなかった。かつては人と話しながらでも出来たことが、今は煙草を口に運ぶことすら難しい。衰えは、瞬に少しの安堵と寂寥感をもたらした。
 羅依が梅詩亭へおりる階段にさしかかった。男も続いておりるのを待って、瞬は梅詩亭の周辺に強力な隔離結界を張った。これでもう誰も、梅詩亭へ立ち入ることはできない。
 扉の向こうから話し声がする。ひとつは羅依のもの。もうひとつは男の笑い声だった。瞬はすっかり短くなった煙草を灰皿に押しつけた。
 溶けた氷が転がるような音がして、扉が開いた。
博路(はくろ)にもこんな雰囲気の店があるとはね。どこも老舗ぶったいけすかない店だとばかり思っていたよ」
「ちょ、くっつくなって言ってるだろ」
「いいじゃないか。炎の灯りは幻惑的で、この機会は捨てがたい」
「捨てろ!」
 羅依は男に抱き取られた腕を引っ張り抜いて、飛びのいた。
「瞬」
 失敗を隠す子供のように落ち着かない素振りで、羅依は瞬を振り向いた。見られたくない思いと気付いてほしい気持ちが混ざり合って、今にも泣き出しそうな顔をしている。瞬は横目に羅依を見て、彼女の泣き顔が見たいと思った。できればその泣き顔を独り占めしたいとも思った。だがそれはひと時の衝動にすぎないことを、瞬は知っていた。
 二人の間に紡がれた無言の会話を断ち切るように、男のため息が店内に響いた。
「つれないなあ」
 男の言葉には、嘘とも本気ともつかない底意が見え隠れした。瞬は肩越しに振り返る。それを待っていたように、男は口元だけで笑った。
「なんて深みのある龍眼だ。生まれつきか。それとも業の深さか」
「さあ」
 冷たく言い放ち、瞬は男の相貌を一瞥した。
「お前が」
「絆清会総統、新屋清路」
 清路は瞬から椅子をひとつあけて立った。
「生きているうちに鬼使に会えるとは、光栄です」
 流れるような手つきで清路は瞬へ手を差し伸べ、握手を求めた。だが瞬はそれを目で追うこともせず、じっと清路を見上げた。清路は出した手のやり場に困って、指を打ち鳴らした。
「早速、嫌われたか。まあ、構わないですよ」
「好かれたかったのか」
 瞬の問いに清路は肩を竦めて答える。
「座っても?」
「ああ」
「ついでに酒をもらってもいいですか」
「どうぞ」
「あ、あたし持ってくる」
 身の置き場に困っていた羅依は、得たりと厨房へ駆け出した。棚にはいくつもの酒瓶が置かれている。羅依は棚の前で立ち尽くした。
「いちばん左の青い瓶を渡してやれ」
「これ?」
 羅依が指差す瓶は、店内の赤い灯りに逆らうように、内から青い光を放っていた。瞬は頷いて、新しい煙草に火をつけた。
 清路の前に青い瓶が置かれた。横に小振りの器が置かれ、清路はあっと声を出した。立ち去りかけた羅依が彼の声に振り返る。
「なんだよ」
「お嬢さん、こいつは瓶のまま飲むものなんだ。器はいいよ」
「そうなのか」
「そう。彼はね、自分はもちろん、君にも酌をさせたくないから、こいつを指名したんだよ。ですよね」
 器を羅依に返し、清路は瞬に同意を求めた。だが瞬はじっと黙って遣り過ごした。それを同意と解したのか、清路は特に言葉を重ねることもなく、羅依に手間を詫びた。
 瓶の蓋を捻り開け、清路は水で渇きを潤すように、喉を鳴らして酒を飲んだ。
 清路は、一見すると良家の子息のような大らかさがあった。話しぶりは軽妙で、笑顔は気安い。だが瞬には、それらが清路の本質を隠すためのものだと、すぐにわかった。どんなにおどけてみせても、彼の目は店に入ってから一度も笑っていない。むしろ、鋭さを増すばかりだ。
 羅依を部屋に帰そうかと考える。清路もそれを望むかもしれない。だが羅依本人が納得しそうになかった。
 空になった瓶を優しく置き、清路は上着から煙草を取り出した。
「火、もらえますかね」
 瞬の方へ身を乗り出して、清路は上目遣いに乞う。瞬は手に持っていた煙草を口にくわえ、火付け具を差し出した。硝子玉を弾くような音がして、火がともる。清路はくわえた煙草を火に近づけて、目顔で礼をした。清路の煙草は、冷たい花の香りがした。
「身内を撒くのに、手間取りましたよ」
 清路は天井へ向けて煙を吐き出し、抑揚なく平然と言った。
「お嬢を使いに立てた、あなたの機転勝ちだ。最初は行き先を疑った身内も、俺の態度を見て、呆れて戻っていきました。まあ、彼女はかなり我慢していたから、あとで労ってあげてください」
「よく、ひとりで来たな」
「この天水の空の下、あなたの掌の上で何を企てても無駄でしょう。素直に応じるべきだ」
 喉の奥でくっと笑い、清路は卓に頬杖をついた。
「表向きは、ですがね」
 青い瓶の腹を指で弾く。瓶は軽く響いて、やや後ろに振れた。
「あなたに会えると思うと興奮して、身内にかまう余裕もなかった。一刻も早くここへ来たかった。それが本当のところですよ。彼女がいなければ、追ってくる配下を撃ち殺してでも来たでしょうね」
 わずかに揺れていた瓶を鷲掴み、清路は笑みをかたどった口元から、行き場を失った昂りを吐き出した。
「ずっと会ってみたかった。絆景に影という形で道を作った、初代総統、鬼使・瞬に」
 瓶が震え、青い光が視界にちらついた。
 ところどころに散らばった闇が、匂いを嗅ぎつけて花を咲かせる。
「私は、あなたが憎くて仕方ないんだ」
 清路は顔を歪めて、絞り出すように呟いた。耳にかけていた髪が頬にかかる。その隙間から清路は瞬を見上げた。苦しげな声音とは裏腹に、彼の瞳はぎらぎらと輝いていた。瞬はそれを正面から受け止め、涼やかに見つめ返す。
 今にも、瓶は割れそうだった。