THE FATES

7.繋鎖(9)

 茜の中に紅が宿っていることを、瞬は染芙が身代わりになるまで知らなかった。琉霞による術式が終わったあと、凍馬が切り出しにくそうに耳打ちした。素直に喜べなかったのは、瞬も同じだった。
 龍羅飛は、天水王家によって迫害を運命づけられた一族だ。王家に正義がなくとも、龍羅飛に罪がなくとも、それはもう覆しがたい歴史の事実となっていた。たとえ王家の血を継いで祝福されたとしても、むやみに事態を混乱させるだけだ。
 生まれてきてはいけない。
 瞬と凍馬の間には、暗黙の了解が出来上がっていた。
 ただ、染芙の力がどのように作用したかもわからない中で、堕胎を口にすることは憚られた。
 混血ならば必ずしも龍眼であるとは限らない。詩桜の例もある。かすかな希望はあった。龍眼さえ隠せたなら、出自を偽ることもできる。それでも胸のざわつきは収まらなかった。
『お前の幻術で、隠してやるしかないだろう』
 それは凍馬の優しさだとわかりながら、無神経だと彼をなじった。できるなら、とっくに自分にかけている、と。
 龍眼を幻術で隠すことはできない。何度も自分の体で試したのだ。龍仰鏡が邪魔をするのかと思い、虜囚の龍羅飛にかけてみたこともある。だが結果は同じだった。髪や肌の色、顔立ちや体つきを変えて見せることはできても、龍眼だけは憎らしいほどに永遠を謳った。
 茜が目を覚まし、腹の子にも問題がないことを確認すると、瞬は琉霞の制止を振り切って茜に詰め寄った。
 鬼使の子を生むのか。
 龍羅飛の子を生むのか、と。
 茜は疑うことを知らない少女の顔で笑った。
『私、瞬の赤ちゃんを生むんだよ』
 それ以上、瞬は何も聞けなくなった。
 全身を脱力感が襲い、すべての思考が停止した。天幕に敷かれた毛の長い絨毯に膝をつき、瞬は呆然と茜の笑顔を見つめ返した。見かねた凍馬が瞬に加勢したが、茜は凍馬の方を見ようとさえしなかった。
 ただずっと、打ち沈む瞬の髪を撫でた。
 瞬はその指を心地よく感じながら、心のどこかでやはり茜は死んでしまったようにも感じていた。
 そうやって瞬の記憶は捩れた。茜が負った傷も、染芙が選んだ死も、瞬の記憶から消え去った。
 紅が生まれ、茜は子供のように喜んだ。瞬は頬を染める茜を見て、陽だまりの中にいるような温もりと、感じたことのない無限の祝福で心が満たされた。名前は、茜が好きな花の色からつけた。
 だがしばらくして顔立ちがはっきりしてくると、紅の瞳が龍眼であることがわかった。詩桜のようにそれとわかりにくいものではない。誰が見てもわかる、萌え立つ新緑の瞳だった。
 龍眼のことは諦めるしかなかった。それでもせめてと思い、濡れたような黒髪を幻術で隠した。
 もしこのことを紅が知ったなら、彼は自らの髪色を忌むだろうか。
 罪悪感が迫りきて、瞬は記憶から逃れた。目を押し開き、使い込まれた卓を見つめた。肘には服越しに木の年輪が感じられた。
 火付け具を握る手に、力を込める。体から漏れ出た感傷が肌にまとわりつき、ひりひりとした。
「生ませるなどと。そんな傲慢な物言いをよくする。紅の生命は、紅だけのものじゃない。もちろん俺のものでもない。そう。あのとき、彼女が……」
 そこまで言って、続きを口にしてはいけないことに思い至った。声に出してしまえば、茜を裏切ることになる。
 彼女を死なせた自分には、彼女を裏切る権利などない。そう思っても、吐き出してしまいたい気持ちが抑えきれない。瞬には清路が神にも悪魔にも見えた。
 ゆっくりと息を吐き出す。それだけでは何も解決しない。わかっていても、避けられない。何か垂れ流していないと、自分自身の制御が利かなくなりそうだった。踏み出せば、あの海を夢見ることも、もうできなくなる。
 瞬は心の内で、否と首を振った。
 海を夢見たのは自分のためだ。彼女への愛ではない。仮に茜への情が潮騒を恋しくさせたとしても、声に出すことを躊躇ったときに、もうすでに裏切っている。続く言葉は、瞬の胸のうちにたしかにあったのだ。たとえこの場から逃れても、瞬自身から隠し通すことはもうできない。
 それとも、この脆弱な心根は、また記憶を捻じ曲げようとするだろうか。そうやって同じことを繰り返して、いったい何を守ろうというのか。
 腕に、茜の体の感触がよみがえる。
 だから彼女は死んだというのか。
 瞬の目の前で、瞬の腕の中で。
 瞬をこの場へ縛りつけるために。
 戦慄が体を駆け抜ける。
 不意に、肩に手が触れた。
「瞬」
 振り返ると、羅依が立っていた。縋るようにして、瞬は思わず彼女の手を握った。羅依は一瞬、驚いて身を引こうとしたが、唇をかたく引き結んで瞬の手を握り返した。
「清路、瞬にいったい何を」
「やめろ、羅依。違うんだ」
 瞬はもう一度ゆっくりと息を吐き出し、懺悔するように囁いた。
「尋宮が、生みたいと言った」
 記憶の中にある、茜の笑顔に剣を突き立てる。本当はもっと前からこの剣は茜を貫いていたのかもしれない。ただ瞬が気付きたくなかった、それだけなのかもしれなかった。
 茜はたしかに瞬を許した。王家の人間として、龍羅飛との和解を望んでいた。だがそれは瞬にとって負い目にもなった。彼女を求めるたび、彼女を疎ましく思った。彼女を見守りながら、彼女を傷つけるときを想像した。
 もしかしたら、茜は気付いていたのかもしれない。
 だから紅を生むと言ったのかもしれない。
 体の奥で何かが崩れていく。押し寄せてくる、ざわめきがある。もう何も聞くまいと、血潮が激しく耳を塞ぐ。肌に触れる風はやわらかく、生温かい。鼻先を掠めるのは、芳しい真昼の名残だった。心地いい。ここから動きたくない。なのに、なぜ壊れていくのだ。
 瞼を優しく濡らす光があった。こわばった瞳をなだめて押し開く。
 そこには、海原があった。
 日暮れ前の海面は、色を忘れたように金色に輝き、波間の影さえ惜しげもなく晒し出されていた。目を細めて、水平線に引きずりおろされていく塊を見つめる。膨張した光は、今にも弾けそうでありながら、ただただ静かに諦めていた。
 歩き出そうとすると、強く引きとめられた。手足からは鎖が垂れ下がり、打ち寄せる波に続いている。波は冷たい。風も冷たい。濡れた素足は痺れて、感覚がなくなっていた。鎖の先は揺らめきの中でよく見えない。どこかに繋がっているようで、どこにも繋がっていないようでもあった。
 潮騒が耳を脅かす。だが呼応する鼓動は、もうなかった。ここにはもう何も残されていない。
 夢から醒めたときのように、倦怠感がよみがえる。醒めた。醒めてしまった。醒めてはいけない夢の淵から。
 触れる風のやわらかさも、ぬくもりも、芳しい残り香も、空から差し込まれた光の矢も、すべてが手触りを失っていく。
 瞬は海原に背を向けて、指先に伝わる温もりに縋った。
 今は、羅依の手の感触だけが瞬のすべてだった。記憶は瞬を蝕む。だが肌に触れる温もりは、それ以上でも以下でもない。瞬が欲したのは、疑いようのない確からしさだった。