THE FATES

7.繋鎖(10)

 清路は何か言いたげに口を開いたが、腕を組み仰々しくため息を吐き出した。瞬は緩慢な仕草で顔を上げた。
「聞こえなかったか」
「聞こえましたよ」
「そういうことだ」
 瞬は羅依の手を惜しみながら離し、煙草に火をつけた。
「茜が言った。俺の子を生みたいと」
 心がずぶ濡れのまま、砂浜にあがる。だが肌に張り付く服も髪も、耳を塞ぐほどの鼓動も気にならなかった。手足に絡みついていた鎖も、錆びて脆くなり、乾いた泥のように剥がれ落ちていく。悲しみに流されそうな心に鞭打って、過去の塊に手をかける。
 この機にすべて断ち切らねばならない。未練も執着も、羅依のぬくもりだけを抱いて終わらせる。
 瞬はどうしようもなく歪む唇を、笑みの形にかえた。
「龍羅飛は神に愛された一族だ。王家の迫害など、取るに足りないことだと、無知な奴らに教える必要があった。それになにより、天水王家に龍羅飛の血が混じるのは、想像以上に快感だった。俺はその誘惑に抗えなかった」
 今まで守ってきたものを、瞬は最後に自らの手で叩き割った。砕け散った破片を眺めても、羅依の手を離したときほど惜しいとは思わなかった。
 立ちのぼる煙の、甘ったるい香りを嗅ぐ。
「龍眼の流通経路は、王家から内々に頼まれた。絆景と引き換えに、な。あいつらはまるで獣だ。龍羅飛を滅ぼしたその手で、龍眼を奪い合い、狂ったように愛でた。時には俺に人殺しを頼んでまで、手に入れていた」
 踏み出すときは恐ろしくとも、いつだって振り返れば些細なことだ。
「そして天水は神からも見放され、時間の中で置き去りになった」
 脳裏に水輝城の庭がよぎる。
「だから、俺が神になった」
 天水から未来を奪った自分に、未来など許されない。何ごとかを遂げようとする心すら、罪に思えた。捨てることも失うことも慣れている。ただ、始末だけはつけなければいけない。
「これが鬼使・瞬のすべてだ」
 煙草を侵食する小さな炎を見つめ、瞬は波がすっかり引いていくのを感じていた。
「すべて、か」
 清路は顔を伏せ、肩を揺らして笑った。
「結局はあなたも伝説を語るだけなんですね。本人から聞けば何か納得できる理由が得られるかもしれないと思ったが、むしろ余計にわからなくなった」
「それは残念だな」
「ただ、これだけは総統として言わせてもらう。天水の暗部はあなたの揺りかごなんかじゃない。あなたはただ甘えていただけだ。その代償に仲間を売り、紅にまで因果を継がせたんだ」
「因果を、紅に……」
 ひとりごとのように呟いて、瞬は溶けるように理解した。
 だから茜をとめなかったのだ。紅を生むと言った茜を。
 紅にすべての罪業をおしつけ、先延ばしにした。自分たちで解決する勇気のない、それでも捨てきれなかった我執を。
 天水王家に報復を誓った。
 同じ口で、茜に愛を誓った。
 どちらも瞬には真実だった。だが時間が真実を霞ませたのだ。
 曖昧な記憶を罪悪感で上塗りして、大事に抱えていた。自分を守るため、自分の拠る場所を守るため。今を犠牲にしても過去に囚われる必要があると、心から信じていた。
 だが足を一歩引いて、覚悟が決まった。
 過去を、本来あるべき過去として切り離す。長かった「今」という鎖から、ようやく解放された。
 卓の年輪に指を這わせ、瞬は目を閉じた。砂嵐に似た血潮が指先に感じられた。
 静寂の中で、椅子の軋む音が響く。
「俺は、絆景を変える」
 目をひらき清路を振り向くと、彼は両肘を卓につき、組んだ手に顎を乗せていた。
「天水の影であることは変えられない。影であることは絆景の魅力で自負でもある。だがその形は、自由なはずだ」
 痛みをこらえるように眉を寄せ、清路は短く息を吸った。
「そのためなら、あなたの遺産はすべて潰す」
 横目に瞬を睨みつけ、清路は噛みしめるように続けた。
「絆景はもう、過去を生きない。今に根差す」
「いま……」
 呟いて、瞬は目を逸らした。清路は小さく頷いた。
「わかっています。天水の今は、今ではないと」
「それでも今に固執するのか」
「当然。今が過去であろうと、たとえ人の手で作り出された偽りの時間であろうとも、そこで生きる者にとっては、それがすべてです。今は今以外の何ものでもない。そしていつだって、人には今というときしか存在しない」
「哲学か」
「いや、執着だ」
 軽く首を振り、清路は目元だけで笑った。
「理解できないと言いたげだ。そうでしょうね。愛を知らないあなたには、わかるはずもありませんよ」
「そうでもない。憧れが強いだけ、それなりに痛感している」
 瞬は乾いた笑いをこぼし、短くなった煙草を消した。
 清路は卓に置いていた銃を取って、椅子から立った。
「思いのほか、長居してしまった」
 銃を腰にはさみ、上着を整える。
「水路でしたね。いいですよ、今日のように賭場まで連絡をもらえたら、部下に案内させます。その代わりと言ってはなんですが、こちらからもひとつ」
 清路は顔のそばに人差し指を立てた。
「条件か」
「ええ。もしも紅に聞かれたら、すべて話してもいいですか」
「すべて、とは」
 わかりながら、問い返さずにはいられなかった。
「あなたのことですよ、鬼使・瞬」
 薄暗いにこやかさで清路はさらりと言い放つ。
「知られないまま遣り過ごせるとでも。存外に甘い」
「あいつは無関係だ」
「はは。愚鈍な言い訳はよしてください。さっきまでの話をもう忘れましたか。わかっているはずです。紅はあなたの息子として生まれたときから、あなたの罪とは無関係ではいられない。あなたが巻き込んだんだ、紅を」
 瞬には返す言葉がなかった。
「了承ということで、いいですね」
 清路は腰を折って瞬の耳元で囁いた。瞬は黙っているしかできなかった。
「そうだ、忘れるところだった」
 明るい声で呟いて、清路は指をはじいた。背中に腕を回し、鞘に彫りのある短刀を取り出す。
「あ、それ」
 羅依が思わず声をあげて駆け寄った。
「どうして、お前が持ってるんだ」
「すまない。君の友人から預かっていたのを、うちのがうっかり返しそびれてね」
 清路は満面の笑みになって羅依の手を取り、短刀を握らせた。
「ほら、あの日に」
「そうだったのか。え、じゃあ、あいつ今丸腰なのか」
「他に持ってなかったら、そういうことになるね。もしかして、元は君の?」
「ああ」
 受け取った短刀を鞘から抜き、刃の具合を確かめる。炎の灯りでは確かめにくいが、手入れはされていたようだ。
「言い出しにくかったんだよ、きっと。俺ならそうだ」
「あたしは丸腰でいる方が気になる」
「彼に返しておいてくれるかな」
「うん、わかった」
 羅依は清路を見上げて頷き、腰に巻いた革帯に短刀を差し込んだ。清路は羅依を見つめていたが、やがておもむろに彼女の髪を手に取った。
「何かついてるか」
「羅依嬢」
「え、なに」
「寂しくなったら、いつでも絆清会においで。一緒に美味い飯を食おう。このきれいな髪を色とりどりの花で飾ろう。君は今より、もっともっときれいになる。飾るからきれいになるんじゃない。手をかけ、目をかけられることでずっと美しくなる。女の子は愛されるために生まれてきた存在だよ」
 清路は口元に髪を寄せて口づけた。羅依は呆れて髪を払った。
「清路、お前はみんなにそういうことを言うんだろう」
「まさか。これでも偏食でね」
「偏食……って。あたしは食べ物じゃない」
「俺にとっては同じだよ」
 清路は曲がった鼻筋に皺を寄せて微笑むと、羅依の体を引き寄せて額に軽く口づけた。
「清路!」
 羅依は拳を突き出し、手荒く清路を追い払った。清路は気にかける様子もなく、手を振って店の扉へ歩き出した。
 ほんの少し扉を開いて、立ち止まる。
「鬼使」
 俯きがちに振り返り、清路は覗き込むように瞬を見つめた。
「信じてもらえないかもしれないが、あなたは私の英雄だった」
 瞬は肩越しに振り返った。扉の隙間から、清新な空気が流れ込んでくる。
「いつまでも、そうあってほしかった」
「期待に添えなくて、すまないな」
「いつか夢は醒める。あなたのように悪夢に囚われ続けるより、ずっといい」
 清路は鋭い目を細め、少年のように微笑んだ。