THE FATES

7.繋鎖(11)

 由稀が目覚めると、卓の横に真小太がいた。だが主である羅依の姿がない。真小太はすっくと立ち上がり寄ってきた。
「おはよう真小太。ご主人はどうした」
 問いかけに、真小太は鼻を鳴らした。遊んでくれと言っているようだった。由稀は真小太の首を撫でて落ち着かせる。
「ちょっと待ってろよ。とりあえず事態を」
 呟きながら辺りを見渡すと、卓の上の書き置きが目に入った。瞬の字だった。文字から意味を推測することはできたが、自信が持てない。
 由稀は起き上がり、真向かいにある長椅子のそばに立った。そこでは紅が静かな寝息を立てて眠っていた。脇に真小太が寄り添ってくる。由稀が振り返ると、真小太は目を輝かせて舌を見せた。
「よし、行け。真小太」
 かけ声とともに、真小太が紅の腹に飛び込んだ。紅は踏み潰された蛙のような声を上げて、跳ね起きた。
「おい、由稀! お前か」
「おはよう、紅。なあ、これ読んでくれないか」
「はあ? 何言って……真小太、重い!」
 怒鳴られた真小太は、尾を振りながら床に降り、満足げに部屋の隅で丸くなった。由稀は真小太の引き際の良さに感服した。
 背後で鈍い音がしたので振り返ると、紅が再び長椅子に寝転んでいた。由稀は紅の腕を掴んで引きずり起こす。
「二度寝するなって。するなら、これ読んでから」
 紅の顔に書き置きを押しつけて、由稀は隣に座った。
「なんだ、あいつの字か。寝覚めの悪いもの見せるなよ」
 口ではそう言うものの、紅の声音は以前ほど不機嫌ではなかった。
「えっと、梅詩亭にはしばらく行くなって。なんだそれ。飯どうするんだよ」
「どこに行くとか書いてないのか」
「残念ながら」
 書き置きを由稀に突きかえして、紅は肘掛けにだらりと凭れかかった。
「そもそも興味ないし」
「羅依もいないんだよ。もしかしてあいつら二人でどこか」
「気持ち悪いこと言うな」
「あれ、意外。やっぱり父親のそういう話は聞きたくないか」
 由稀はにやりと笑って、紅の足を軽く蹴った。
「そっちじゃねえよ。身内の女子のそういう話って、生々しくて聞きたくないだろ」
 紅は足を蹴り返して、くぐもった声で呟いた。由稀は眉を上げ、感嘆した。
「羅依のこと、身内って言った」
「それがなんだよ」
「だってお前さ、羅依のことも嫌ってたじゃねえか。瞬と近いから。なのに身内の女子って。むしろ俺が嬉しい」
「相変わらず意味不明だな」
 紅は長い嘆息をもらして、渋々起き上がった。
「ま、話を元に戻して、梅詩亭に行くなって言うなら、理由ぐらい書いてあってもいいと思うけどな」
 卓の上に置いた小さな鞄から煙草入れを掴み出し、紅は煙草に火をつけた。
「どこまでも勝手な奴だよ」
 紫煙とともに吐き出される愚痴に、棘はない。由稀は紅に見つからないよう微笑んだ。
「何か飲むか」
「あ、よろしく」
 まだ半分寝ている声で応えて、紅はあくびをした。
 ゆっくりと時間をかけて二人分の茶を淹れて、ゆっくりと時間をかけて優雅な心持ちで飲み干したが、それでも瞬と羅依は帰ってこなかった。由稀と紅は軽く着替え、街へ出ることにした。
 部屋を出ようとすると、真小太が由稀の足元にすり寄ってきた。
「ごめんな、真小太。お前の飯も調達してきてやるから」
 押しつけてくる鼻先を両手で包みこむ。掌は真小太の鼻息で湿り気を帯びた。
 真小太は承諾すると言うように由稀の手を舐めて、一声吠えた。
「今日も留守番、よろしくな」
 頭を撫でてやると、真小太はその場に座って尾を床に滑らせた。扉が閉まる前に振り返ると、まだ同じ場所で尾を振っていた。由稀は、誰もいない部屋でのんびりとくつろぐ真小太の日常を想像して笑った。
 玄関から続く真っ暗な通路を歩く。前を行く紅の姿を見失うと、この場所に取り残される気がして、早足になった。
 建物から抜け出て、街の中に飛び込む。霧のように細かな光が降り注いだ。見上げた空が灰色であることを確認して、由稀は歩きながら大きく伸びをする。あちらこちらに潜む気配も、今ではほとんど気にならなくなった。日々が重ねられていく中で、その視線が危害を加えるわけでも、また気にしたところでなくなるわけでもないと実感したからだ。
 何も変わらない。
 昨日も、今日も、そして明日も、こうやって日々が続いていく。
 続いていくのだ。
 由稀は不意に立ち止まり、愕然とした。
 当たり前のように日常を過ごしている自分に気付いて、戦慄する。
 青竜の欺瞞も、久暉との別離も、どこか遠い夢のように感じていた。一体何のために天水へきたのかを、まったく失念していた。
 それは明るく振る舞うことからはじまった。周りに気遣われるのが苦しかった。胸に開いた穴を誰にも見せたくなかった。そうやって演技をしているうちに、やがて由稀自身も錯覚することが増えた。自分には傷も悩みもないのだと。
 だが平気になったつもりでいても、ときおり思い出したように不安が押し寄せた。どうしようもない痛みや孤独に苛まれた。
 あえてそうすることで、由稀は自分が自分であることをどこかで確認していた。
 過去の自分と今の自分を結びつけるものを、久暉の抜けた穴に求めていた。
 しかしその渇望も、もう過去のことだ。
 事実としての認識はある。自分たちがここにいる目的もはっきりしている。だがそれを体感できなかった。
 事実と実感を繋げられない。
 詩桜に触発されて激情を自覚しかけたが、持続することはなかった。むしろ彼女と共有することで、報われたような気になっていた。記憶は血肉をともなわず、昔見た人形劇のように自分とは違う世界のことのようだった。
 肌で風を感じるように、目で光を感じるように、耳で背後を感じるようには、あの日胸に穿たれた穴を感じることなどもうできなかった。
 由稀は掌を開いてじっと見つめた。群青色の血管が、手首に浮かび上がる。握りしめると、汗ばんでいた。その拳を胸に押し当てる。服の上から、かつてあった刻印に爪を立てる。
 頭の隅に、もういいのではないかという思いが去来した。何がいいのだと自問しても虚しいだけだった。
「おい、由稀」
 紅の呼びかけに顔をあげる。
「何ぼんやりしてんだよ」
「悪い。ぼんやりしてた」
 由稀は取り繕って自然に微笑む。紅は眉を寄せて、停めてあったスウィッグに足をかけた。
「自分で言うかな、普通」
「なんかちょっと、生きてるって素晴らしいぜ的な、そういう感動してた」
「いいから早く乗れよ」
「おう」
 軽く返事をし、戸惑いを脱ぎ捨てて紅に駆け寄った。後ろに乗り込んで、紅の肩に片手をかける。スウィッグはそれを待っていたように、一気に加速した。
 肩越しに振り返った道端には、未練の抜け殻が見えた気がした。