THE FATES

7.繋鎖(12)

 スウィッグで大通りを走るのは、時間帯によって厳しく規制されていた。由稀と紅は裏道にスウィッグを停め、徒歩で通りに出た。
 街の中心地はすでに人で溢れている。とくに食料品を扱う店はひどく混み合っていた。飲食店の仕入れは今が佳境だ。由稀は朝食の店を探すふりをして詩桜の後ろ姿を探していた。だがそれらしい人影は見つけられなかった。もしいたとしても、彼女の背丈では街に埋もれてしまいそうだった。
 通りにあるのは、飲食店だけではない。たとえば、薬や小間物などを扱う店から、鍛冶、彫金、染物、仕立て、果ては占いまで、様々な職人も集まっていた。
 由稀は市場の活気が好きだった。毎日が祭りのようなこの威勢の良さが心地よかった。
 そこかしこの露店から声をかけられる。味見をしていけと引き止められ、作りたての料理を差し出される。断る理由はなかったが、そのたび行く先に迷って時間ばかりが過ぎた。
「どうする。どこも混んでるし、博路まで行くか。ほら、梅詩亭の二軒隣なんか、どうだよ」
 斜め前を歩いていた紅が、疲れた声で提案した。由稀はさほど混んでいるように思わなかったが、待つことが嫌いな紅には拷問だろう。
「いいよ、俺はどこだって。じゃあ、スウィッグの――」
 そこまで言って、由稀は続く言葉を失った。雑踏の中を見つめて立ち止まる。行き交う人々が、突然立ち尽くした由稀を軽く睨みつけていった。
 会話が途切れたことを不審に思って振り返った紅が、慌てて由稀の元へ駆け戻った。
「おい、由稀。そんなところで立ち止まるなよ」
 引っ張ろうとする紅の手を、由稀は無意識に振り払った。
「由稀?」
 紅が呼びかけても由稀は人波の向こうを見つめるだけで、返事すらしない。仕方なく紅は由稀の視線を追ったが、彼の背丈では由稀が見ているものに届かない。
「どうしたんだよ、由稀」
「紅、ちょっと先に行ってて」
 由稀は紅を振り返ることなく、人の流れに飛び込んだ。
「行くって、どこに」
 紅もすぐに追いかけようとしたが、裏道に停めたスウィッグが気になった。あまり長いあいだ停車していると、部品を盗まれたり、機関を壊されたりする。紅は人波から頭半分突き出た由稀と、路地のスウィッグを交互に見遣って、地団駄を踏んだ。
「あー、もう!」
 派手な色をした髪を掻き乱して、紅は由稀に背を向けてスウィッグの方へ走り出した。

 人込みの中にそれを見つけたとき、由稀は自分の目を疑った。見間違いだと言い聞かせて、何度も瞬きを繰り返した。通りを行く人々に遮られ、はっきりと見えたわけではなかった。別人かもしれないと、落ち込まないように自分に釘をさしておいた。だが不意にめくれた外套から空色が覗いて、制御を失った。由稀は思わず走り出していた。
 久暉が、いた。
 見間違えるはずがない。彼は過去の自分と瓜二つだ。まるで鏡を見ているようだった。
 後ろから紅の呼び止める声が聞こえたが、振り返って何かを告げるのももどかしかった。怒らせたかもしれないが、あとで謝れば済む。それより今は、久暉の姿を見失わないようにする方が優先された。
 昼前の大通りは、一日の中でもっとも人出が多い。名を呼んで引き止めようとするが、喉がつかえて声が出ない。胸の奥がきりりと痛んだ。
 さきほどまで辺りに満ち溢れていた、日常という時間の流れから切り離されていく。通りを歩く人々から、個が消える。由稀と久暉を隔てるのは、人の形をした何ものかだった。由稀は体を右に左に捻りながら、人形の間をすり抜けていく。それでも久暉との距離は縮まらない。
 由稀は人波に埋もれそうな久暉の後ろ姿を追って、大きく踏み出した。直後に人形と肩がぶつかった。
「おい」
 振り返った先では、年配の男が由稀を睨みつけていた。
「あ、ごめんなさい」
 覚えたての言葉でたどたどしく謝ると、男は顔をしかめて由稀に背を向けた。男はまた人形の流れの中に溶け込んでいく。
 由稀は再び久暉を追おうと振り返ったが、すでに彼の姿は見えなかった。
「どこに……」
 諦めるなど、できなかった。由稀は刻印があった場所を服の上から掴む。乾ききったはずの傷口が疼くようだった。無理矢理引き千切られた鎖は、今もまだ繋がっている。だから痛むのだ。
 由稀は人を掻き分けるようにして、強引に走り出した。誰かとぶつかっても、もう気に留めなかった。
 目には見えない鎖を辿る。その先は、必ず彼に続いているはずだった。
 由稀は大通りから逸れて横道へ入った。人通りは途端に少なくなり、見通しはよくなった。立ち止まって見渡すが、それらしい姿はない。店番をしている女性に尋ねようかと思ったが、挨拶以外の言葉にはまだ自信がなかった。
 乱れる呼吸を整えて、じっと路地への角を見つめる。
 三つ目の筋が、不思議と気になった。
 由稀は導かれるように歩き出した。近づくほどに、直観が確信へと変わっていく。いつしか由稀は走っていた。
 角を曲がり、細い路地に差し掛かる。体を斜めにしながら進むと、交叉する路地があった。道幅はやや広くなり、由稀は息をついて更に先を目指した。
「由稀」
 後ろから声がして、由稀は金縛りに遭ったように立ち止まった。
 声はすぐに久暉のものだとわかった。張り詰めた糸のような、湖面に張った薄氷のような、危うさを内包した声だった。
 ずっと胸のうちに響いていた声だ。忘れるはずもなかった。まるで神の声のように感じながら、十数年間をともにしてきたのだ。
 振り返るのが怖かった。その瞬間に久暉が消えてしまうような気がした。
「由稀……」
 だが、もう一度名を呼ばれると、懐かしさがこみ上げた。由稀は逸る気持ちを抑えてゆっくりと振り返った。
 交叉する路地の角に、彼はいた。天水の空にはない、青天の髪をなびかせ、それより少し濃く輝く空色の瞳を由稀に向けて、彼は立っていた。
「久暉」
 由稀は彼の名を呼びながら、疼く胸に爪を立てた。