THE FATES

7.繋鎖(13)

 アシリカに降り注ぐ、明け透けな南国の日差しは、神殿の石の白さをより一層鮮明なものにした。光が膨張して、色が呑み込まれていく。あのときたしかに、世界は白く染まった。
 まるで熱病に侵されたときのように、自分の体、感覚、思考など、普段は自らの支配下にあると思っているものすべてが、遠く曖昧なものになった。鬼使と戦ったときにも覚えた浮遊感だった。
 風が走る音も、海鳴りも、街の喧騒も、静寂すらも、何もかもが由稀の感覚から抜け落ちたとき、ただ一人の男の声だけが耳に残った。
『ずっと待っていました、この時を』
 青竜の眼差しが、自分に向けられていながら他の何かを見ていることは、思考を飛び越えて理解した。絶望を感じる暇はなかった。むしろ本能的な恐怖を感じた。そこには信心にも似た純粋さと、一分の隙もない狂気があった。
 意志を貫くことは、剣を貫くことと差異がない。切っ先が誰を傷つけようとも怯まない、その心こそが、揺らがない意志になるのだ。
 揺らがない。そのことは美徳だが、いつも正しいとは限らない。悪や醜態ばかりが人を傷つけ、自らを貶め、神に背くものではないのだと由稀は知った。
 これまでに失ったものを思い浮かべてみる。
 そのなかで、青竜に奪われたものを数えてみる。
 だがいま眼前に佇む形相(けいそう)ほど、由稀の喪失感を助長するものはなかった。
 久暉はあの日の由稀のまま、そこにいた。
 胸に突きたてた爪が、服をひっかいた。由稀は強く拳を握って、奥歯を噛みしめた。
「どうして、ここに」
 問いかけてみて、なんと間抜けな質問かと自らを叱責する。本当に訊きたいのは、そんなことではない。本当に知りたいのは、本当のこと、だ。
「どうして」
 気持ちばかりが先走って、うまく言葉が紡げない。由稀はまるで怒られた子供のようにうな垂れた。
 必死に言葉を探そうとするが、思考という激流に足を取られて、立つこともままならない。荒れ狂う波は、由稀自身の感情の表れだ。動揺も焦燥も憤怒も悲哀も、個性を失い、ただのうねりに成り果てて、理性という小船を呑み込んでいく。
「どうして……!」
「由稀」
 強く握りしめた拳に、久暉の手が重ねられた。由稀は息を呑み込んで、肩を震わせた。久暉の眼差しは、過去の自分の眼差しだ。何も知らなかった自分自身から憐れみを受けたように思えて、由稀は久暉の手を払いのけた。目の前に立つ、かつての眼差しが、刹那、悲しみに揺れた。
 罪悪感が指先に広がる。だが、払った手はもう、戻すことができない。今の由稀には謝るだけの余裕もなかった。
 彼は、久暉だ。そうわかっていても、すぐに受け入れられるものではなかった。由稀は壁に凭れかかり、頭を抱えた。体を折って、自分にはあずかり知らない嗚咽をこらえる。涙はない。この嗚咽は、叫びが千切れてこぼれた滓だ。
「由稀」
 もう一度名を呼ばれ、由稀は息を吸い込んで声を閉じ込めた。体は痺れたように動かなかった。
「素直に私を恨めばいい」
 思いがけない言葉に、由稀は顔をあげた。目の前の久暉は、微笑んでいた。それは由稀が初めて目にする、空色の微笑みだった。
 自分にも、こんな表情をするときがあったのだろうかと、由稀は呆然と久暉を見つめ返した。だがどんなに目を凝らしても、当人である由稀にはわかるはずもなかった。ただ、胸に染み入るような懐かしさだけが募った。
 目に映る姿形が問題なのではない。これは魂の形だ。そして由稀はこの魂をよく知っていた。ずっと、一緒に過ごしてきたのだ。
 目の前の存在から、過去の自分が切り離されていく。
 自分とは違う。これは鏡像でも、過去でもない。別個の存在だ。
 気付きは由稀を喜びの海に突き落とした。
 久暉という名を知る前から知っていた存在だ。この中にいた存在だ。誰も近づけない場所で触れ合った存在だ。彼は由稀にとって家族以上の繋がりをもち、あたかも神のような存在だった。
 万能の神の意ではない。常にそこに在る神だ。
 その神が、今また目の前にいる。
 再会の喜びが、じわじわと体に染み渡った。胸が震えた。
「恨むなんて、どうして俺が」
「お前は優しい。だが、今は恨んでいいんだ。恨むべきだ」
 澄んだ久暉の声は、誠意に満ちていた。だが言葉の飛沫のなかに、混ざりものがある。
「私はそれだけのことをしたと思っている」
 どこかに、嘘があるのだ。
 誠意とは相反しない、嘘がある。
 由稀にはそれが、自分のことのようにわかった。
「なあ、久暉。だったら聞くけど、竜族のことも、俺の親のことも、お前自身の体のことも、お前が青竜に命令したのか」
 とっさに久暉の顔色が変わった。
「だから恨めって言うのか」
「それは……」
「違うはずだよな」
 言いよどむ久暉に、由稀は間を与えなかった。
「青竜がやったんだろう。お前は反対したんだろう。だからお前は、ずっと俺のことを守ってくれた。違うか!」
 由稀は久暉の手を取って、自らの胸にあてた。
「この中から、ずっと」
 久暉は弾かれたように顔をあげた。由稀は正面から、久暉の空色の瞳をまっすぐ見つめた。瞳の中に、黒い瞳の男が映る。
 これが自分だ。
「お前が俺を知ってるように、俺だってお前を知ってる」
「私の、何を知っていると……」
「知ってるよ。お前は優しいって。だって、自分のことなんかそっちのけで、俺の孤独を埋めてくれた」
 由稀は久暉の手を強く握りしめた。手の中で久暉の指が束になる。彼の手は小柄な体格のわりに大きく、しっかりしていた。
 この手がいつも触れていた。胸の奥の、爛れそうな壁に、いつも優しく寄り添ってくれた。
「俺たちは傷を舐めあっただけかもしれない。それでも、たしかに繋がっていただろう」
 あの頃の自分たちには、何も言葉はなくとも繋がりあう、わかりあえる実感があったのだ。由稀はそれを夢や錯覚とは思いたくなかった。
 久暉は乾いた笑いを吐き捨てた。
「竜族というやつは、誰もかれも強引で困る」
 久暉は由稀に掴まれた手を軽く振り、離すよう促す。由稀は素直に従った。
「久暉」
「たしかに慶栖の独断だ。だが慶栖の行動の責任はすべて私にある」
「だから、それは」
「私の生命を救うために、奴は手段を選ばなかった。そもそもはそのような状況を招いた私に非がある。天地の杖の正統な継承者ではない慶栖が、あの術を使いこなすには、それなりの代償が必要だったんだ」
「それが竜族だったのか」
 久暉は浅く頷いた。
「詳しいことは私にもわからない。竜族を攻撃したとき、私はもうお前の中にいた。お前の目を通して世界を見ることはできたが、見えることと知ることには大きな隔たりがあった。突きつけられたのは、無力の二文字だけだ」
 苦しみに歪められた久暉の眼差しは、透徹とした空の色をしているのに、由稀には天水の曇り空のように映った。
「何があった」
 考えるより先に、言葉が口からこぼれていた。
 久暉は由稀から視線をそらした。
「慶栖があの神殿で話したとおりだ。私は敵に囲まれ――」
「過ぎたことはいい。俺が聞いてるのは今のことだよ」
「今が、どうした」
「どうしてここにいる。それもひとりきりで」
 由稀は先にも投げた問いを、あらためて口にした。
 頭の隅の利己的な自分が舌打ちをする。ずっと知りたかったのは、過去のことだ。かつて何があって、どうやって今に至ったのかを知りたかった。そのために天水へきた。だがもう、そういったことはどうでもよくなっていた。
 久暉は返す言葉を失って、由稀を振り仰いだ。その動揺から、由稀はひとつの可能性を嗅ぎとった。
「青竜は今、どうしてる」
「私がいつだって慶栖のことを監視しているとでも。まさかそんな、奴とて子供じゃない」
 可能性だったものが、確信に変わる。我執を隠すため、由稀は声を潜めた。
「子供はお前の方だろう。久暉」
「なに」
「あいつが……、青竜がお前から離れるとは思えないよ、俺には」
 久暉の顔に朱が走った。確信など、否、真実ですら間違いであってほしい由稀の願いは、その瞬間に断たれた。
「そんなこと、誰よりもお前がいちばん知ってるんじゃないのか。久暉」
 胸の底から、喉の奥から、湧きあがるものがあった。
「それともお前は、俺がこの身で感じ取った青竜の思いまで否定するのか」
 濁流のように渦巻いていた思考が堰を破った。
「俺の中のお前を見つめる青竜は、疑う余地もないほどに、久暉、お前を求めていた! 信じていた! 誰よりも何よりも、お前のためだけに生きていた! それを俺は、お前にだって否定させない。たとえ青竜が構わないと言っても、俺は許さない! そんなことは……」
 興奮が肌を逆撫でた。指先がみるみる冷えていく。だが耳の奥は熱くてたまらない。
「自分の心を晒せ、久暉! 昔のように、触れるようにして悟らせろ! お前の本意はどこにあるんだ」
「俺の、本意だと」
 久暉は口を歪めて笑った。
「そんなもの、誰が求めてる」
 それは、ひどく悲しい笑みだった。
「久暉……!」
 由稀は久暉の胸倉を掴んで引き寄せた。
 すぐそばで見る空色の瞳は、まるで硝子玉のようだった。厳しい寒さにも似た凛々しさがある。その眼差しが澄み切っていくほどに、由稀は焦燥を覚えた。
 今ここで彼を引き止めなければ、もう二度と会えなくなるような予感がした。
 煙のように、消えてしまいそうだ。少なくとも久暉は、そうなることを望んでいる。
 だが自分の力では、久暉をここへ繋ぎ止められない。この鎖だけでは足りない。もっと決定的なものが必要だった。
 脳裏に、青竜の後ろ姿がよぎる。
「なあ久暉。お前が知らないはずはないんだ。わからないはずはないんだ。だって俺はお前から知ったんだ。青竜の忠心を。この世界に、あれほど強くて揺るぎない願いがあることを」
 自分には手の届かなかったあの広い背中は、ただ久暉だけのものなのだ。
「そして久暉、お前がそれを誰より必要としていることを」