THE FATES

7.繋鎖(14)

 青竜は、久暉を守り、生かすためだけにすべてを捧げている。
 他人にもわかるほどの青竜の誠心を、なぜ久暉が受け入れないのか。由稀には疑問を通り越して腹立たしくもあった。
「認めたらどうなんだよ」
 久暉の背中を壁に押しつけ、由稀は彼を見下ろした。
「青竜を頼ったらいいだろ。どうしてそうしない。あいつがいながら孤独へ向かうその真意はなんだ。弱さのつもりか。弱さを振りかざせば許されるとでも思ってるのか!」
 自分でも予想していなかった言葉が、すらすらと口にのぼる。
 下から覗きこむように、久暉が見上げてきた。由稀はそれまで感じていたはずの鎖の存在を信じられなくなった。
「なんとか言えよ!」
 久暉に見つめられると、妙な苛立ちで頭がいっぱいになった。何も語らないせいなのか、空色の瞳が澄み切っているせいなのか、ちりちりと焼けるように胸が痛んだ。
 違う。
 これは羨望だ。
 由稀はたがの外れた自制心を投げ捨てた。久暉の胸倉を掴んだまま、片手を振り上げる。
 封印によって繋がれた鎖は、今ではもう残像にすぎない。だが久暉と青竜の間に結ばれた鎖は、たとえ切ろうとしても切ることのできない、人の手ごときでは左右されることのない、運命に後押しされた繋がりだ。
 不鮮明で不確かだからこそ、その鎖は断ち切れない。
 一瞬は躊躇った拳が、根拠のない自信を得て鋭くしなった。噛みしめた奥歯が、氷を噛み砕くような音を立てた。
 だが、由稀の拳が久暉を打つことはなかった。
 自由のきかない腕をたどって振り返る。
「殴っても後悔するだけだよ。君の場合は、特にね」
 そこにはにこやかな笑顔を浮かべて、凍馬が立っていた。彼は由稀の腕を苦もなく掴んで抑えた。
「凍馬、さん」
「久し振りだね。すっかり元気になったみたいで安心したよ」
 由稀の腕を離すことなく、凍馬はさらににこやかに笑った。
 掴まれた腕は痛くはないが、振りほどこうとしてもびくともしない。何か、腕力とは違った力で抑えられているのだと悟る。
「どうなってるんですか」
「ああ、腕? ごめんね、ちょっとした術を――」
「違います。どうしてあなたがここへ来たんですか」
 思考は冴えた。激昂のあととは思えないほどに、状況を把握することができた。だからこそ、そうやって冷静な自分に失望している自分にも気付いた。
 熱く滾っていた激情の石は、水をかけられ、音を立てて冷えた。再び火を灯そうにも、ひどく濡れていて火がつかない。
 由稀は久暉から手を離した。それと同時に、凍馬に掴まれていた腕が解放される。
「ねえ由稀くん。その問いに、俺はどこから答えればいい」
 凍馬は由稀の思考を読んで微笑む。由稀は肩越しに凍馬を見つめたまま沈黙を貫いた。できればすべてに答えてほしかったからだ。
「その姿の君に会うのは初めてだね。実際に目の前にしてみると、なるほど、なんて自然な存在だろう。君は自然で、自由で、純粋で、実に扱いづらい」
 彼が言わんとしていることは、由稀にも覚えがあった。感情とは純度を増すほどに、相手に恐怖を覚えさせるものだ。たとえば青竜の久暉へ対する思いのように。
「そうだな、まずは君の想像の範囲内から話そう」
 少年のように無邪気に微笑んで、凍馬は空に向けて息を吹きかけた。彼の口から光の塊が流れ出し、風船のように上へとのぼっていく。やがて光は上空で行き場を失い、空にできた水溜りのように波紋を残して消えた。
「瞬が天水のことを感知できるのは、知ってるよね」
「はい」
「その能力が、この天水市街は特に強化されてることも知ってるかな」
「なんとなく、そうじゃないかとは思ってます」
「あたり。市街はあいつの掌の上みたいなものだ。その気になれば、今どこで誰が何をしてるのかなんて、手に取るようにわかる。その気にならなくても、市街を出入りする者のことなんて筒抜けだ。特に俺みたいに面倒なのが通ろうとすると、場合によっては拒絶される」
 凍馬はさきほどの波紋を指差して目を細めた。
「あんな感じでね」
「だったらあなたは、瞬に頼まれてここへ来たんですか」
「何のために」
「え、それは」
 かえって尋ねられ、由稀は言葉につまった。
「だから、その、久暉を捕らえるために……」
「どうしてあいつが俺を頼るの。君たちに言えばいいことだろう。それが面倒なら、自分でここへ来ればいい。そうだろう。だって俺は『部外者』だよ」
 凍馬が言うことは正しかった。由稀は瞬きを繰り返して、自分の考えをもう一度見つめなおす。
「じゃあ、いったい……」
「由稀くん。君が考えている事態は、とても素直で好感が持てるよ。嫌いじゃない。でも、現実はもっと、狡猾で、いびつで、退屈で、ありきたりな言い方をするとね、複雑なんだ」
 朗らかな凍馬の笑みが影を帯びる。
「君はまず、前提から違っている」
「前提?」
「そう。俺がどちら側についているのか」
「どちらって」
 由稀は呟きながら、息を呑んだ。凍馬が由稀の前に踏み出して、久暉をかばうようにして立った。
「凍馬さん、あなたは」
「おかしいと思わないか。あれだけの力を持つ瞬が、どうして久暉と青竜を見つけられないんだろう。天水のことがわかるとか言うくせにね。由稀くん、君はあの鬼使の力を、その身をもって知っている。俺が特別に誇張してるわけじゃないって、わかってくれるよね。だったら奴の怠慢か? それとも君たちには知りえない、何か大人だけの事情が? いいや、そうじゃない。この場合、理由はもっと単純だ」
 少しくせのある黒髪から、真っ赤な綾紐を外す。凍馬はそれを指に巻きつけて、由稀を覗き込むようにして笑った。
「俺がこちら側についているから」
 指先に水晶のような透明感をもった、青い炎を生み出して、凍馬はそれを空へと浮かび上がらせた。
 由稀は炎を目で追わず、じっと凍馬を見つめていた。彼の表情は笑顔という無表情の中に埋もれている。
 久暉らに凍馬が手を貸していると、瞬はいつから気付いていたのだろうか。
 墓守の民を訪れたときの、瞬の言葉を思い出す。
殊来鬼(しゅらき)よりも蓮利朱(れんりしゅ)を中心に頼む』
 瞬は自分が塗り潰した地図を老人に手渡して、たしかにそう言った。地図を作ったのは、龍羅飛跡へ行ったときだ。瞬はその頃から気付いていたということか。
 だが瞬が凍馬の干渉を知っていたとして、それが久暉を見つけられない理由にはならない。
「瞬は、あなたに遠慮を……?」
「まさか。違うね。もっと素直に考えてみてよ。得意だろう」
「素直に、ですか」
 厭味かと勘繰るが、凍馬にその気配はなかった。由稀は頭を切り替えて、知る限りの凍馬のことを思い浮かべた。
 何より思い出されるのは、鬼使との戦いで負った傷を完全に治療したことだ。術式の過程は記憶にないが、どれほど傷ついていたかは自分がいちばんよく知っている。それをあの短時間で治しきるのは、容易なことではない。凍馬はそれほどの術者だということだ。
 由稀は思い至って顔をあげた。凍馬は口元だけを笑みの形に歪めた。
「そう。力が拮抗しているからだよ」
 まるで忌むことのように呟いて、凍馬は空を指差した。促されて見上げると、さきほどの青い炎が輪を形作っているのがわかった。
「ためしに、瞬の結界を焼き切ってみた」
「そんなことが?」
 凍馬の力にも驚かされたが、市街に結界が張ってあることにも一驚した。再び空を見上げて、感嘆にもならない息をもらす。いまだ術らしいものを使えない由稀には、遠い話だった。
 やがて炎の輪が、じわじわと狭まっているようだった。由稀は怪訝に思って凍馬を盗み見た。彼もまた空を見上げていたが、その横顔に笑みはなかった。
 凍馬の指先に絡みついたままだった綾紐が、灰になって風に散る。由稀はその行く先を目で追いかけて灰色の空を仰いだ。炎はもうどこにも、名残すらなかった。
「瞬はたしかに天水の神のような存在かもしれない。だけど、神に抗する力を持つ者はいないなんて、誰が決めたの」
「神……」
「そう。今の天水の均衡は瞬が作り出して、守っている。それを神と言わずに、なんと呼ぶ」
 自嘲気味な凍馬の声が耳について、由稀は彼から視線をそらした。だが久暉に頼ることもできず、ただ俯いた。
 瞬は天水の神。同じような言い回しを前にも聞いたことがある気がした。
『たとえば、神の気まぐれで生き死にが決まっているようなもの』
 脳裏には、絆清会本部の白く明るい部屋が浮かんだ。
『この世界はどこまでも鬼使任せだ』
 言ったのは総統の清路だ。彼は世界の不条理を受け止めながら、薄く笑って話していた。鼻腔に、凛とした花の香りがよみがえる。
 鬼使を悪魔や化け物と形容するのは、由稀にも理解できた。底知れない力と、鬼使の容赦ない人格は、人を恐怖させるものだ。だが決して畏怖させるものではない。なのになぜ、あえて神と呼ばれるのか。
『今の天水の均衡は瞬が作り出して、守っている』
 凍馬の言葉を繰り返してみる。だが思考は泥のように滞り、一瞬の閃きはすぐに濁流の底に沈んだ。
「由稀くん、俺はね、君と対立するつもりはない。もちろん、瞬と対立するつもりも。ただ俺自身の都合を押し通しただけなんだ。だから久暉と青竜を匿った」
「なんのために」
「欲しいものがある。君はすぐ近くで見ただろう。むしろ当事者じゃないか。ほら、青竜が久暉のために施した術式だよ」