THE FATES

7.繋鎖(16)

 はぐれないようにと、強く肩を抱かれた。不意に触れた凍馬の肌に体温はなく、久暉は思わずたじろいだ。その隙に、移動法で市街から連れ出される。瞬きする間に、砂漠のただ中へ降り立っていた。
 突然の砂の感触に足元が覚束なくなり、久暉は膝を崩した。
「気をつけて」
 片腕を引っ張られて踏みとどまる。久暉は体勢を整えると、用済みとばかりに凍馬の手を振り払った。
「なぜだ……なぜ」
 いくつもの思いが錯綜して、言葉にならない。凍馬はそれを見透かしたように、首を傾げて微笑むだけだった。
 砂漠に立つと、市街へ忍び入るまでの数日が思い出された。隊商は無事に目的地へ着いただろうか。彼らも天水市街へ行く予定だったのだろうか。もしそうならば、解放した馬と再会できたかもしれない。そうなっていればいいと願う。
 たった数日のことが、久暉には何十日にも及ぶ長旅だったように思えた。そして同時に、この旅が子供の我儘と変わらないことを思い知る。
「凍馬。ひとつ、確認したいことがある」
 久暉の問いかけに、凍馬は眉を上げて先を促す。
「なぜすぐに私を連れ戻さなかった」
 口の中が乾いて、隠すべき棘が言葉から突き出る。
「五日ものあいだ、何をしていた」
 その棘は、自分自身へ向けられた棘であり、この我儘を許容した者への苛立ちにもなった。
 死に憧れた。それですべてを終わらせられると思った。希望も罪も絆も、何もかもを捨てられると。
 しかし、潔い死を選び取ろうとしていたにも関わらず、気がつくと生き延びることを必死に考えていた。
 久暉は目の前に立つ男を睨みつける。
『もう、君の中では終わってしまったんじゃないのか』
 彼はそこまでわかっていたのだろうか。わかっていて、自分を焚きつけたのだろうか。
『自分の志のために死にたいの。それとも、あの片腕のために生きたいの』
 だとしたら、一体、何のために。
 射抜くような空色の眼差しをさらりとかわし、凍馬は歌うように答えた。
「なにって、君を見守ってたんだよ」
「平然と……!」
 凍馬に怒りを向けても無意味なことはよくわかっていた。だが今は甘えたかった。凍馬はそれを許している気がしたのだ。
 そうだねと呟き、凍馬は息をついた。
「知るべきだと思ったんだ。いま君が置かれている状況を。君がいかに無力なのか。君がいかに罪深いのか。そして、どんなに足掻いても、君が君から逃げられないってことをね」
 いつもと変わらない、穏やかでにこやかな微笑みを湛えて、凍馬は砂漠の先を見つめていた。
「青竜には五日待つよう言って出てきた。でも正直、たった五日で君を連れ戻せる自信なんてなかったんだ。市街まで君を追っていって、さてどうしようかと途方に暮れた」
 凍馬の言葉に誇張は感じられなかった。久暉は黙って続きを待った。凍馬は肩を竦めると、珍しく眩しい笑みを浮かべた。
「でも、君には幸運が味方している。それだけは計算外だった」
「幸運?」
「由稀くんのことだよ。彼は、君にとって幸運と幸福の象徴だ。彼の中は、心地よかっただろう。たとえ自分の体に戻れるのだとしても、彼と離れるのが惜しいくらいに。違うかな」
 違わなかった。久暉は静かに頷いた。
「だが私は、由稀を傷つけてばかりだ」
 強い風が吹き、砂が頬を打った。掠めていくような感触を惜しんで、久暉は頬に指を滑らせた。紛れもなく自分の体であるのに、今もまだ戸惑いが消えない。これが由稀の頬ならば、華奢すぎる。
 自分の肉体を感じるたび、由稀への罪悪感が膨らんだ。彼から家族を奪い、帰る場所を壊し、体を理不尽なまでに利用し、用済みとばかりに捨て置いた。ただ久暉が生き残るためだけに、多くのものが犠牲になった。久暉が指示したことでも望んだことでもないとはいえ、久暉の罪でもあるのだ。
 あまりの仕打ちに、罪悪感を抱くことすらおこがましいとも思った。負い目などという言葉では足りないほどの荷を背負った。償うすべなど浮かばない。どうしても償えないのだから。
 重い。
 その重さに潰されそうになる。久暉には、死に安住を求めた己の心を惰弱と罵ることはできなかった。
 頬に触れる指先を、空色の髪がくすぐる。指の間に髪を掴んで、久暉は強く握った。
 ただ由稀に会いたかった気持ちに気付く。昔のように彼の言葉を聞いていたかったのだ。
『俺はまだ何も許してねえ』
 白い神殿で、由稀から投げられた言葉を思い出す。自分の耳で聞く由稀の声は、内側から聞いていたものより凛として、久暉はなぜか誇らしかった。
 もしもこのまま許されないままならば、たとえ肉体は別になっても、魂を繋いでいた鎖は断ち切られずに済むのではないかと夢想した。
 身勝手であることは百も承知だった。だが由稀なら最後には許してくれると知っていた。
 由稀は激情を嫌った。激情がもたらす虚しさを本能的に知っていた。そのせいか、激情が形をもった瞬間に、由稀はいつも我にかえる。ぶつかり合うことよりも、包み込むことを選ぼうとするのだ。そしてすぐに許そうとする。
 まるで底を感じさせない由稀の愛情は、久暉の憧れだった。だからこそ、愛情だけでは乗り切れないこともあると、いつだって内から訴え続けた。そうしないといつか由稀が壊れてしまいそうで怖かった。由稀の意識を乗っ取ってまで鬼使と戦ったのもそのためだ。
 だがもう、その季節は過ぎた。
 早々に許してはいけないことがあると、由稀はもう知っていた。優しさの袖を引くのは、今や久暉の仕事ではない。由稀の理性だ。
 嬉しさと寂しさが綯い交ぜになる。隙間に、憧憬の悪意が生まれる。由稀の理性がどこまで耐えられるのか、試してみたくなる。
 久暉は心の中で首を振った。
「傷つけたくなどないのにな」
 由稀は久暉を責めはしなかった。責めはしたが、それは由稀自身のことではない。青竜のことだった。
 すでに自分は許されているのだろう。
 いまさら、自分の姿が由稀の目にどう映っていたのかが、ひどく気にかかった。惨めだっただろうか。ずるかっただろうか。それとも、何の感慨もわかなかっただろうか。
「考えるほど、何もわからなくなる」
 久暉は肩を落として鼻で笑った。かつては近すぎた距離が、今はむしろもどかしい。
「それは、好きだからだよ」
 透き通るような声だった。あまりの儚さに、久暉は顔をあげた。凍馬は麦色の瞳を細めた。
「好きだから傍にいたいと思う。好きだから知りたいと思う。でも近づきすぎるとお互いの棘が触れ合って、傷つけてしまう。相手の心も、自分の願望で見えなくなる」
 風にあおられ、結わえた綾紐が髪のようになびく。
「でも、それでも傍にいたいと思う。だって、好きだから」
 凍馬はまるで自分のことを告白しているようだった。言葉とともに吐き出される吐息には、彼の懊悩が滲んでいた。
「離れるなんて選択肢は、無意味だから。そうだろう。傷ついたり傷つけたりを怖がって離れても、最後はひとりきりになって、寂しくて死んでしまうだけだよ。それなら傷つく隙間もないほどに、近づいたらいい。お互いの棘が根元まで刺さりきって、身動きがとれなくなるくらいに」
 人懐っこい口元から熱がこぼれる。それはいまにも擦り切れてしまいそうだった。だが立ち消えそうになるのを、凍馬が必死で繋いでいる。その焦燥すらも手に取るように伝わってきて、久暉は返す言葉に詰まった。凍馬もまた、久暉の相槌を待っている様子ではなかった。