THE FATES

7.繋鎖(17)

 天水の砂漠では、時間も方角もない。知るすべは元よりなく、知ろうとする気持ちも芽生えない。人や鳥や花や獣や、そういった垣根を越えた、ただのひとつの存在になれた。
 久暉はあらためて由稀との繋がりに思いを馳せる。
 由稀がこれまでに見て、聞いて、感じてきたことを、久暉は自分の身に起こったことのように覚えている。けれども、それは久暉のものではない。
 できれば由稀のようになりたかった。素直に、自由に、何ものにも囚われず、何ものも拒絶せず、何ものにも流されず、前へ進むことを疑わず、慢心せず、澄み切った心で未来を見つめてみたかった。この空色の瞳は由稀にこそふさわしいとまで思っていた。
 だが久暉は由稀にはなれない。
 また、由稀が久暉になることもできない。
 久暉には久暉の、由稀には由稀の道がある。たとえ誰かに憧れて真似たとしても、影のように寄り添うこの道からは逃れられない。
 そして久暉は久暉の道に誇りをもっていた。
 否、この道を善しとする片腕を信じているのだ。
『だって俺はお前から知ったんだ。青竜の忠心を』
 由稀の言葉を思い出す。彼は正しい。正しいからこそ、何も言えなかった。
 自分はなんと不完全な存在だろう。ひとりで自分自身を保つこともできない。誰かに自分の一部を預けていなければ、足元が覚束ない。
 久暉は顔をあげて、凍馬の横顔を眺めた。かすかに透き通って見える。琉霞の元を長く離れすぎた。彼もまたひとりでは彼自身を保てない。
「似ているな。私たちは」
「そうかな」
「お互い、本当は生きていてはいけない存在かもしれないところが」
「違うよ。本当は生きていないはずの存在だよ」
 凍馬の自嘲めいた軽口に、久暉は思わず頬を緩めた。
「なるほど、そうかもしれないな」
「かも、じゃないと思うけど」
「だが生きている」
 久暉は声を低くして囁いた。
「凍馬。お前もな」
 凍馬は目を丸くして振り返った。
 久暉には、凍馬がどうやってこの世に繋がり続けていられるのか、その仕組みはわからない。だが肉体を失ってまで生にこだわる、その妄執は肌で感じて知っていた。他の者が凍馬と同じことをしたならば、ひどく醜く映るだろう。だが凍馬の抱く執念は、清々しいほど澄んでいるように感じられるのだった。それは仮面のように常に張りついた笑顔のせいではなく、その笑顔と笑顔の隙間に時折あらわれる、孤高の意志によるものだろう。
 世界に溶けてしまいそうな凍馬の肩に、そっと手を置く。凍馬は視線だけを動かしてその手を見遣り、眉を寄せて微笑んだ。
「優しいなあ、久暉は。そうやって俺のことも認めてくれるんだ」
「そうしないと、俺は俺のことも否定することになる」
 不遜な眼差しで微笑み返すと、凍馬は声を出して笑った。
「身勝手だよね!」
 腹を抱えてさんざん笑った凍馬は、唐突に黙り込むと、空を見上げてひとつ息をついた。凍馬はかすれた声で呟く。
「生きるの?」
 短い問いだったが、久暉には凍馬が言外に匂わせる真意がよくわかった。ああと頷いて、同じように空を見上げる。
「俺の理想も志も、もう俺だけのものではない。慶栖が望むなら、俺は生きよう。慶栖が支えてくれるなら、俺は戦おう。たとえどんな困難が立ちはだかっても、生きて、戦って、生き抜いて、再び空を見上げようと思う。奴とともに、な」
 凍馬を見遣ると、彼もまた久暉を横目に見据えていた。
 優しい麦色の眼差しが、不意に身構えた。凍馬の顔から、にこやかな笑みが消える。
「ねえ久暉。君には話しておこうと思う」
 澱みない囁きがむしろ不自然だった。初めて耳にする低い声から、凍馬の緊張が伝わる。
 久暉は凍馬に向き直り、じっと黙って続きを待った。凍馬は俯き、久暉の視線から逃れるように指先で額を押さえた。
「俺のことを知っておいて。だからどうして欲しいなんて望みはないから。ただ知って欲しい。君になら話せる気がする」
 指の隙間から覗かせた目に、凍馬の心からの微笑みが垣間見えた気がして、久暉は心の手綱を強く握った。
「ああ、構わない。話せ」

 五日ぶりに見る天幕は、以前にも増して温かみに溢れているようだった。懐かしさが胸に広がる。
 外に人影はない。だが馬の嘶きが聞こえるので、琉霞も青竜も中にいる。凍馬は久暉に一声かけると、姿かたちを失い流星のようになって、天幕へと吸い込まれていった。
 久暉は短く疎らに生えた芝を踏みしめて、胸元の刻印を服の上から握った。同じものが青竜の背中にもある。これは純血の青竜が斎園で過ごすために施した秘術の痕だ。青竜の受ける負担を久暉にも分けることで、青竜は斎園でも問題なく生活することができた。
「慶栖」
 小振りな天幕を見つめて、吐息で名を呼ぶ。
「気付け、慶栖」
 刻印は二人を繋ぐ証しでもある。
 青竜の苦しみは久暉のものでもあり、久暉の喪失は青竜の死をも意味する。
 久暉は刻印を掴む手に、さらに力を込める。
「慶栖」
 靴裏に感じる砂粒の感触が、落胆を誘う。だが久暉は顔をあげて天幕を見つめた。信じているのではない。必ずそうなるとわかっている。
 青竜は必ず久暉に気付いて出迎えると。
 髪を撫でる風が湿り気を帯びる。地平線を見遣ると、暗雲が滲んでいた。砂嵐の時間が近い。
「……慶栖」
 天幕の入り口にかけられた布が揺れた。中から骨ばった腕が出てきて、布をめくりあげた。一呼吸置いて、青竜が姿を現した。まるで久暉が帰ってくるときを知っていたかのように平然と佇み、丁寧すぎるほどの礼をした。
「久暉様」
 青竜は久暉の元まで歩み寄り、もう一度礼をする代わりに、軽く目を伏せた。
「お待ちしていました」
「そのわりに、気付くのが遅いな」
「申し訳なく存じます」
 深く頭を下げて、青竜は顔をあげようとしなかった。久暉は彼を無視して歩き出す。砂嵐が来る前に、五日前の礼もかねて馬の様子を見ておきたかった。
「慶栖」
 呼びかけると、すぐ後ろから声がした。
「はい」
「もう一度、お前の命を預かるぞ」
 昂りが喉を過ぎても、首の後ろがひりひりとした。絶対に振り返らないと心に決める。ここで不安になびいてはいけない。
 低い、青竜のため息が聞こえた。
「ご冗談を」
 くすくすと笑う声がしたので、久暉はたまらず振り返った。青竜は歪みのない黒い目を細めて、胸元に手を添えた。
「私の命など、あなたに出会ってから一度もここにはありませんよ」
「……狸め」
 久暉は青竜を睨みつけ、吐き捨てるように言った。
「ありがとうございます」
 青竜は再び頭を下げると、腰を曲げたまま顔をあげた。視線の高さがちょうど同じになる。
「おかえりなさい、久暉様」
 不揃いな前髪から、何ものも寄せ付けない真っ直ぐな瞳が覗く。
 ようやく、この体に血が巡る心地がした。
「慶栖。すべて話してもらうぞ」
「すべて、とは」
「無駄な質問に答える気はない。これからどうするかを決める」
 冷たく青竜を一瞥して、久暉は厩へ足を向けた。背中に命の花が咲く。
「はい。仰せのままに」