THE FATES

7.繋鎖(21)

 なかなか寝付かない那伎をあやし、加依は彼女の家をあとにした。去り際、夢うつつの彼女に口付けをせがまれたが、額の上に唇を寄せるだけでごまかしてきた。上着の袖で唇を拭うと、ようやく解放された心地がした。
 夜はすっかり明けて、外は薄い靄に包まれていた。村のあちらこちらに、一日が動きだす気配があった。じきにひとつ目の鉦が鳴る。
 加依は屋敷へ向かっていた足をとめて、来た道を戻った。出てきたばかりの家の前を通り過ぎ、横道へ入る。細いぬかるんだ道を進むと、前方には石造りの建物が現れた。濃い灰色の石は、民家はもちろん長の屋敷にも使われていない高価なものだった。熱に強く、密閉性があり、何より硬かった。この村でもっとも頑丈な建物だ。
 そこは、鉱石燃料を作り出す作業場だった。
 近づくにつれて、地毒を抜くときに出る腐臭が強くなった。周りには民家もなく、人々が歩くことで出来た道が一本だけあった。石は脇へ取り除かれ、赤土はほんのりと白んでいる。端には石を運ぶための台車の轍が残っていた。
 まるで死へ向かう道だと思った。それは個々人の死ではない。この魔界の死だ。
 扉を開けようとするが、予想通り鍵がかかっていた。村を振り返るが、工員がやってくる様子もない。加依は声に出してため息をつく。遠回りになるが、建物をまわって裏手へ行くことにした。
 風に乗って、潮の香りが運ばれてくる。海はすぐそこだ。耳を澄ませば、唸るような風音に混ざって潮騒が聞こえる。肌を撫でる風は強く、少し重い。
 作業場はなだらかな斜面に建てられていた。そのため一階は面積が半分ほどしかない。裏手までまわってしまうと、二階の窓にも悠々と手が届いた。
 裏は少し先で崖になっており、眼下には突然の海原が広がった。加依は地面のきわまで進み、足元を見下ろす。吹き上げてくる風をまともに吸い込むと、軽い目眩がした。とても濃い、命のにおいがする。
 崖には、人の手で削り出された階段が張り付いていた。手摺りも何もない。潮風に晒され、風化している箇所もある。もう誰も使っていない階段だった。加依はその階段に足を踏み出した。
 明け方の風は冷たい。飛沫を含んだ風は、あとからあとから冷たくなる。
 壁に手をついて、感触を確かめる。波と風に晒され続けた岩肌は、やすりをかけたようになめらかだった。地層の帯が彩りを添え、黒く固い層が残って凹凸をうみだしていた。
 一段おりるごとに、自分の内側が深海のように冷えていく。加依は湿った髪を後ろへ押しやって、じめついた頬を手のひらでこすった。乾いた魔界の空気でも、海水は粘っている。じっとりと染みついて、拭うほどに粘度を増すようだった。
 階段は数十段で終わり、崖にぽっかりと口を開けた横穴へ繋がっていた。
 横穴への入り口は、人がひとり通れるほどの大きさで、階段と同じように人為的に作られたものだ。加依が幼い頃は切り口がもっと尖っていたが、ここも風化し始めている。
 中は入り口ほど狭くはない。天井は高く、おとな数人が円座になって寛げる程度の広さがある。だが灯りも何もなく、入り口から差し込む光だけでは奥まで照らしきれない。加依は那伎の家から拝借してきた蝋燭に火を灯し、そばの壁に近づけた。黒く濡れた壁は炎に淡く色づき、触ると体液に似たぬめりがあった。
 このぬめりが地毒だ。
 元は結晶だが、地表へ染み出すと液体になる。潮風の影響で毒素は弱いが、あまり長く触れていると中毒になる。加依は服の裾で指を拭った。ほんのわずかの間しか触れていなかったというのに、指先はやや染まっていた。
 音が不意に途切れるように、光が翳った。手元の灯りは消えていない。入り口の光が遮られているのだ。潮風にほのかに甘い香りが混じる。加依はこの香りの主に覚えがあった。
「いつ、こちらに」
 振り返らずに尋ねると、近づいてくる気配があった。
「今朝」
 思っていたとおりの、静かで冷たい声が返ってきた。加依は肩越しに振り返る。
 すぐ後ろには、乃重(のえ)が立っていた。
「いつの間に、つけてきていたんですか」
「あなたを探していたの。そうしたら、上の大きな建物のところで、姿を見つけて」
 木々がそよぐような微笑みを浮かべて、乃重は加依の手をとった。
「ここの地毒はずいぶん弱いのね」
「よくわかりますね。触れてもいないのに」
「においで」
「僕には潮の香りしか……」
「それに、あなたが躊躇いなく触れたから」
「へえ。もしかしたら、僕は地毒なんて怖れていないかもしれないのに」
「いいえ。だってあのとき、私の体に触るのを躊躇った」
 加依は思わず言葉に詰まった。彼女の腕を飾る刺青に目を遣って、初めて会ったときのことを思い出す。
 あのとき、汗に濡れた彼女は頬を上気させ、瞳は熱に潤んでいた。声はひどく掠れていたが、強い意志が感じられた。白い肌を這う黒い紋様は、彼女を守る荊のようだった。
 いま目の前にいる、魔族の衣装を身にまとった彼女は美しかった。肩と背中が大きく開いた服は翼のためだが、彼女にとっては美しさを引き立てるために思えた。砕いた貝で染めた服は、海を凝縮したような紺碧で、肌の白さを際立たせた。加依はこの服の下に隠された彼女の肢体を思い出しかけて、目をそらした。
「体調は、もう大丈夫なんですか」
「おかげさまで。先生、いい人ね」
呂灯(ろび)先生は、とても真面目で熱心な人ですから、見放したりはしませんよ。でも、あなたのやり方には呆れていました」
 握られたままの指をそっと抜き取り、加依は後ろに隠した。
「無謀ですよ。地毒を塗りこむなんて」
「でも、とてもいいのよ。自由になれる」
「それは中毒症状です。一時はいい気分になれるかもしれませんが、反動があるでしょう」
「それでもなお、いいのよ」
 乃重は壁を濡らす地毒を見つめて目を細めた。その横顔は微笑みには程遠く、むしろ無表情でもあった。強い執着、陶酔、悦楽の予感。強い光に照らされたときのように、そのそれぞれが色を失っていた。
 加依はこれが恍惚の表情なのだと知った。
 笑顔や泣き顔よりもずっと心が揺さぶられた。
 嫣然とした眼差しで彼女が振り返り、加依は視線をそらせずに歪んだ笑みを浮かべた。
「村へ帰った方がいいですよ。まだ体力が戻っていないでしょう。宿はないので、屋敷の空き部屋を使ってください。これを誰か、村の人に見せれば、案内してもらえますよ」
 加依は人差し指につけていた指輪を外し、乃重の手に握らせた。
「一族の印が刻まれています。これを持っていれば、悪いようにはされませんから」
「若様は」
「僕はまだ……、ここに」
 加依が言いよどむと、乃重は洞窟の奥を見つめ、自分の指に指輪をはめた。
「大きいわ」
「親指でも無理ですか」
「落ちそう」
「そうですか。だったら――」
 加依の横をすり抜けて、乃重が奥へ歩き出した。
「あ、ちょっと」
 追いかけて、肩を掴む。那伎の痩せぎすの肩とは違って、丸みが手に馴染んだ。
「なに?」
「奥はここほど安全じゃありません」
「どういう意味」
「ここは出口に近いからにおいませんが、奥は地毒も強く……、あ」
 加依はとっさに手で口を覆った。心の中で舌打ちをする。この脅しは彼女には通用しない。
「心配ないわ。これを失くしてしまう方が心配。だから一緒にいさせてちょうだい。お屋敷への案内は若様にお願いするわ」
 乃重は加依の手をとり、人差し指に指輪をとおした。
「この指で良かった?」
「ええ。あっていますよ」
 不機嫌な自分を隠しきれず、加依は声を低くした。
「指輪も嬉しそう」
「足元に、気をつけて」
 加依は乃重に手を差し伸べた。乃重は加依の思惑をさぐるように上目遣いに見つめ返し、そっと指を重ねた。
「ありがとう」