THE FATES

7.繋鎖(22)

 洞窟は奥へ進むと幅が狭くなり、通路のようになった。外の光はすでに届かず、灯りは手元の蝋燭だけが頼りだった。
 もう片方の手には、夜露のように冷たい感触があった。加依は肩越しに振り返って乃重の顔を見遣ると、握った手に軽く力を込めた。
「冷たいですね」
 乃重はただ、瞼を閉じて頷くだけだった。
「こういうのは、体のどこかが悪いからなんですよ」
「そうなの?」
「腕とか足とかではなく、臓腑の問題です。もっと単純に言えば、体中の血の巡りが悪いんです」
「詳しい。どなたかが?」
 加依は一瞬、この手を思いきり乱暴に振り払いたくなった。だが息をとめてやり過ごす。
 衝動の余波は蝋燭を持つ手に伝わり、溶けた蝋が手の甲を掠めていった。
「母が」
「そう」
 それきり、乃重は何も言わなかった。加依は歩く速度をはやめた。
 地毒のにおいが濃くなった。地毒を抜く工程では腐った肉のようなにおいがするが、地毒そのものは花の蜜のように甘い香りがする。
 その香りは、乃重の香りでもあった。
 やがて通路が途切れて、ひときわ大きな空間に出る。ここがこの洞穴の行き止まりだった。
 風が吹きぬけることもなく、潮に洗われることもなく、そこには地毒のにおいが充満していた。息をとめていられるはずもなく、この濃密な地毒から逃れるすべはない。
 洞窟内は寒いくらいだが、体中にじわじわと汗が滲んだ。胸を打つ鼓動もはやくなって、首の後ろには熱がたまった。
「若様、大丈夫」
 繋いだ手を軽く握られ、加依は我に返った。手のひらにもひどく汗をかいている。
「あ、すみません」
 加依は慌てて手を離した。蝋燭の灯りに照らされた乃重は、汗を気にした様子でもなかった。
「私は平気だけれど、若様には強いでしょう」
「地毒、ですか。少しの間なら。あの、それとひとついいですか」
 乃重は小さく首を傾げて先を促した。
「その、若様っていうのは、やめてくれませんか」
「でもみんな、若って呼んで」
「そうなんですが……」
「それとも、私はお名前でもいいの?」
「はい。その方が、気が楽です」
「わかりました。では、加依様」
「いや。様もいらないです」
「加依」
 乃重は加依の声に重なるように、妙にはっきりと加依の名を口にした。加依はなぜか、大きな猛禽のたぐいに爪を立てられたような衝撃を覚えた。
「ありがとうございます」
 かろうじて礼を言って、加依は壁際へ歩み寄った。爪先が、壁とは違ったかたい感触をとらえる。加依はそちらに蝋燭を翳した。灰色の石材で組まれた祭壇の上に、二対の燭台が置かれていた。加依は持っていた蝋燭をそのうちのひとつに立て、持ち出してきたもう一本の蝋燭に火を移して、残る燭台にさした。
 炎が地毒の毒気を吸って、盛んに燃える。闇が一気に払拭される。
 加依は、祭壇の向こうに繋がれた影を見つめた。
 そこには女がいた。
 壁に穿たれた鉄の鎖が、女の白く細い体をがんじがらめに捕らえていた。頭の重さに首をもたげて、動く気配はまったくない。生きているのか、死んでいるのかもわからない。窺おうにも、長い髪が邪魔をして顔が見えない。服はあちこち破れて、地毒の色に染まっていた。髪は地毒の露に濡れ、輝いている。
 加依は祭壇に寄りかかるようにして手を伸ばし、女の頬に触れた。冷たい。だがその奥には確かな温もりがある。
「母さん」
 名を呼んでも、母が応えることはない。首筋に触れると、弱々しい脈が感じられた。顔にかかった髪を、かきあげてやる。
「よく似ておいでね」
 後ろで乃重が呟いた。加依はしばらく間をあけてから頷いた。
「そうですね。俺もそう思います」
茅音(かやね)様ですね」
「なぜ母の名を……。ああ、そうか。あなたは」
 乃重は加依に会ったときに、すでに加依のことを知っていた。彼女はそれを大地と繋がっている証しだと言った。本当にそうならば、大地に繋ぎとめられた母のことを知らないはずがない。
 加依は母の顔を見上げた。美しい女だった。髪も顔も体も地毒で汚れながら、彼女は輝きを失っていない。むしろ増しているようにも思えた。いつ訪れても、凛として美しい。母が愛した白い花のように、母自身もまた白く清々しい。
「眠ってるの」
「ええ。ですが普通の眠りとは少し違います。一種の呪いのようなものです」
「呪い……」
「父が東部の術者を呼んで、地毒を媒介にした呪いをかけさせました。母が、俗界へ逃げ出さないように」
 体の芯が冷えていく。加依は母を見上げて、氷の塊のような憎しみを握りしめた。思考も、記憶も、感覚も、痛みも、加依を構成するあらゆるものが凍りついていく。
 ただ、花の蜜のように甘い香りだけが、加依の意識を優しく抱いた。

 加依が茅音から、七色に光る鉱石をもらった日のことだった。
 母に仕えていた下女が、地毒の剣と羅依をつれて魔界を出て、すでに数年が経っていた。
『母さんのとっておきの宝物、加依にあげるわ。大事にしてね』
 そう言って、抱きしめられた。幼い頃から聡かった加依には、母に二度と会えなくなることが考えずともわかってしまった。
 そしてそれが、父の意志であることも、悲しいほど理解できていた。ならばせめて母に心配をかけまいと、加依は笑顔を振りまいた。
『ありがとうございます、母様。那伎に見せてきてもいいですか』
 無邪気を装って、母の横をすり抜けた。背中で感じた母は、静かに泣いていた。母はきっと殺されてしまうのだ。そう思うと涙が溢れそうになり、加依は持っていた鉱石を握りしめた。鉱石は、まだ小さな手には大きく、両手に持って叔父の家まで走った。やわらかな手のひらにささる剥き出しの鉱石は、痛みと引き換えにしてもいいほど美しく、母を恋しくさせた。
「母は純血の人間だったためか地毒に耐性があり、それだけではなく鉱脈を掘り当てる才能にも恵まれていました。夜空の星のように地中の鉱石が見えると話していたそうです。父は更なる正確さを求めて、地毒の剣を作らせ、母に与えました。実際に使われているところは見たことがありませんが、それはもう、まるで女神のごとき業だったとか」
 叔父は酔うといつも茅音の話をした。どれほどの能力だったのか。どれほどの器量があったのか。どれほどの美しさだったのか。酔いつぶれて眠る前には、茅音と名を呼ばれたこともあった。
「ですが地毒の剣を盗まれ、娘を奪われ、母はもう、鉱脈を見つけられなくなりました。人を疑うことをしなかった母には、仕えてくれていた使用人の裏切りが、耐えられなかったのでしょう。ぼんやりと覚えています。その頃の母を。まるで幽鬼のようだった。抜け殻のようになって、庭の花に毎日話しかけていました。羅依、羅依、と」
 加依はずっと母のそばにいた。母が寂しくないように、悲しくないようにと手を尽くした。それでも母は嘆き続けた。下女はなぜ羅依を連れていったのか。なぜ自分ではなかったのか。もし連れ去られたのが加依だったならば、母はここまで悲しまなくても済んだかもしれないのに。
 そうではないと否定する理性はあったが、当事者である加依には醜い自己保身と大差がなかった。
 記憶も残っていないような幼い頃でも、愛されていたのはいつも羅依だった。体がそう覚えている。
「それが、以前のように溌剌と振る舞うようになったんです。俺が生えかけの翼を見せたときから」
 素直に嬉しかったのは束の間だった。
 滅多に屋敷にいない父が突然帰ってきて、加依の目の前から母を奪っていった。父は、立ち直った母が魔界を去ることを怖れたのだ。
 母は父の目をかいくぐって、鉱石を渡しにきてくれた。
「すべては父です。父が母をがんじがらめに……」
 そしてそのきっかけを作ったのは、他でもない自分自身だ。加依は周りの大人が気遣って口を噤むのを見て、さらにその思いを強めていった。
 翼があるからいけない。そう思って何度も毟り取ろうとした。それで母が帰ってくるわけではないとわかっていても、そうすることをやめられなかった。
 だが加依の翼は折れることなく、誰もが羨むような漆黒の艶めきを帯びるようになった。
「もしも父の手に再び地毒の剣が戻れば、おそらく母は解放されるんでしょう。また、利用するために。ですが、これだけの呪いをかけられて、母が以前のような成果をあげられるかどうか。それは誰にもわかりません。できない可能性は、高い。そうなれば父にとっての母は、もう用済みの駒です」
「それは違う」
 揺るぎのない声だった。加依はあまりの苛立ちに、乃重を振り返ることもしなかった。顔を見ると、手を上げてしまいそうだった。
「あなたに何がわかるんですか」
「だって茅音様は自ら呪いを受けたから」
「ふざけたことを。何を根拠に、そんな……」
 加依は乃重を振り返って、思わず言葉を失った。乃重の肌に黒い刺青が広がっていく。その姿は、以前も救護棟で見たものだ。
 蝋燭の灯りで照らし出された乃重の肌は、火照ったように染まっていた。そのやわらかな肌を這う、生きた刺青は、さらに濃く深い闇色を誇っていた。
 刺青の舌先が乃重の頬を舐める。加依はなぜか、見てはいけないものを見た気がした。あまり見すぎてはいけないと思いながら、彼女を目で追ってしまう欲望をどうしても抑えられなかった。
 闇色の刺青は蔦のように彼女の全身に絡みつき、さらに虫が飛び跳ねるようにして指先から飛び出した。
 地毒に濡れた足元や、灰色の祭壇を、糸状のものが這い回る。嗅ぎまわされているようでいい気はしなかったが、加依には彼女をとめることはできなかった。はじめて彼女の刺青を見たときは、ただ驚くばかりだったが、今は純粋に興味があった。
 乃重はじっと刺青の行方を見守って、静かに口を開いた。
「茅音様は、魔界を守っている」
 薄く開いた乃重の瞳は、焦点を失っていた。もとから浮世離れした彼女の存在が、さらにこの世の者ならざるものへ近づいていく。
 しかし加依にとって、彼女の言葉はなんの説得力ももたない。
「まさか。母は少し術に長けていたものの、普通の人間だったと聞いています。そんな、魔界を守るすべなんて持ち合わせていなかったと思います」
 希望や慰めは、飽きるほど聞いてきた。だがこれまでに救われたことはなかった。夢を見ても、現実という檻は揺らがない。ならば加依は、現実だけでよかった。
 乃重は無表情のまま首を振った。
「特別な人。いいえ、ここで特別な人になった」
「なった? つまり、こうやって繋がれることで、ですか」
「彼女は魔界を守っている。そして魔界は彼女に応えている。だから魔界はあなたにも優しい」
 優しい。その一言で加依は返す言葉を奪われた。
「茅音様は魔界の特別。だから子供のあなたも魔界の特別。大地と繋がる獣族にとっても特別」
「僕には使役している獣族はいませんよ。むしろ、なつかれたことがありません」
 獣族を意のままに操ることは誰よりも上手だった。だが、特定の獣族がそばにいたことはなかった。羅依が使役している真小太でさえ、加依に対しては一線を引いていた。
「特別だから。誰も近づけない。あなたの特別には誰もなれない」
「そんな面倒な事情が?」
「みんながあなたの役に立ちたいと思ってる。みんな、みんな」
「抜け駆けはできないということですか」
 加依が苦笑まじりに呟くと、乃重は小さく頷いた。
「だから私は、最近少し憎まれてる」
 乃重の体から溢れていた刺青が、小刻みに震えながら縮んでいく。全身に広がっていた模様は、巣へ帰っていく蛇のように肌の上をすべり、二の腕へと収束していった。