THE FATES

7.繋鎖(23)

 元の姿に戻った刺青は、それまでよりも艶めいているようだった。まるで地毒の色を吸い上げたようだ。
「その刺青。地毒と獣族の血を混ぜたというのは、本当なんですか」
「嘘をつく理由なんて」
 疲れが出たのか、乃重の声は掠れていた。
「そうですよね」
 ため息をつくように笑みをこぼして、加依は繋がれた母を見上げた。
「大地と繋がっているというのは、どんな気持ちですか」
 乃重の視線は感じたが、返事はなかった。言いよどむ気配もない。加依は横目に乃重を見遣った。目が、合った。
「最初に私の体に色を刺したのは、私の恋人」
 細い指が加依の腕に触れる。そこは、彼女の刺青と同じ場所だった。
「恋人が地毒を?」
「いいえ。彼は染料で。ここに彼自身の名前を」
「それではまるで所有物じゃないですか」
「そう、私は彼の物だった。それが幸せだった」
 加依の腕に触れていた乃重の指が、力なく離れていく。
「でも彼はいなくなった」
「もしかして亡くなって……?」
 乃重は首を横に振った。それだけで加依にはわかった。
「あのとき、彼は――」
「いいです。その先は」
 思わず口調が強くなった。乃重は不思議そうに加依を見上げたあと、顔を曇らせた。
「ごめんなさい、怒らせてしまって」
「別に怒ったわけじゃありません。それに怒ったとしても、あなたに対してではありませんよ」
 乃重の所作には、彼女だけの時間の流れがあった。優雅だが不規則で、何より自由だ。予測ができない。だから気になった。
 彼女の恋人がそれを知らずに彼女を捨てたなら、彼女にとっては幸せなことだったかもしれない。彼女の魅力を理解してくれる人と、ともに生きるべきだ。そう考えると、加依の中に沸き起こった苛立ちは次第に収まっていった。
 胸にたまった息を深く吐き出し、加依は話を促した。
「では、そのあとは自分でやったんですね」
「そう。彼が寂しがるといけないから」
 恋人の話をする乃重は、まるで少女のようだった。
 否。加依は心の中で首を振った。
 彼女は出会ったときからずっと少女のようだ。純粋で、短絡的で、ごまかすことを知らない。人の気持ちの機微に疎いのかと思えば、息をするように自然に内側を見抜く。
 不安定な、手足の伸びきっていない少女だ。だからこそ彼女の女の部分が一層際立つのだ。
 これ以上そばにいてはいけないと本能が叫んだ。
 だが、彼女をもっと知りたいと欲望がせがんだ。
 加依はせめぎあう内側に揺さぶられ、彼女から一歩離れた。
「でも、どうして地毒に獣族の血を混ぜるなんてことを」
 それでも問いかけをやめることはできなかった。
 乃重は華やぎを脱ぎ去り、目を細めた。
「最高の闇色がほしかったから」
「なぜ」
「だって、私の中には闇より暗い闇があったから」
 彼女は腕の刺青に手を添えて、上目遣いに加依を見た。
「加依、あなたも」
 乃重の指の間から、白い肌に刻まれた刺青が覗く。加依は刺青に見られている気がした。
「僕が、どうしましたか」
「漆黒の翼は、あなたの中の闇色」
「翼の色は生まれもったものです。顔や手と同じように、心のありようで簡単に変わるようなものではありません」
「怖れたのでしょう。私の口から闇がこぼれることを。だからあなたは私の言葉を遮った」
「なんの話です」
「私の彼がどうなったか、知りたくはないですか」
「俺は別にそんな話――」
 加依は彼女から離れて、出口へ向けて歩き出した。
「獣族に食われたのです」
「……え?」
 後ろから聞こえた言葉に、加依は振り返った。
「さっき、亡くなったわけではないと」
「彼を食べた獣族を、私が食べた。彼はいなくなってしまったけど、彼は私の一部になった。そのとき初めて、獣族の血で刺青を入れました」
 乃重はやわらかく微笑んでいた。加依には彼女の笑顔が理解できなかった。悲しみや憎しみを押し殺しているようには見えなかったのだ。
 それは確かに笑顔だった。
 狂気と呼ぶには、あまりにも愛らしい笑顔だった。
「魔界を恨んでいるんですか」
 加依は乃重の笑顔を無視して問うた。
「どうして」
「この土地はあなたの恋人を奪い、あなたの未来を大きく変えた」
「最初の一口だけは、恨んで。でも、そのうちに、恨みだけではなくて、喜びも何も……」
「それはつまり、許したんですか」
「許すも許さないも。ただそうやって、命が繋がっていく。それだけのことだと思うと、飾らない魔界が好きになって。ただ生きている。それが心地よかった」
 地毒の香りが強くなった。少しして、彼女の汗のにおいと知る。
 加依は相槌すら忘れて立ち尽くした。彼女に今すぐにでも聞いて欲しいことがあった。きっと彼女ならわかってくれる。そう思ったのだ。
 本能と欲望がせめぎあう。だがどちらも根元は同じだ。加依は軽く唇を舐めて、口を開いた。
「乃重さん。あなたにならわかりますか。魔界の悲鳴が」
「悲鳴」
「ここは昔、俺が生まれた頃にはまだ山でした。ラ・テス山という名で、さほど高い山ではなかったけれど、おかげで潮風が村まで届くことはなく、乾ききることもなかった。それを鉱石燃料のために削って、削って、最後には地盤が崩れて海に沈むまで削ったんです。それまで山が遮ってくれていた潮風は、貴重な草木を根こそぎ枯らし、力任せに吹きつけ、じわじわと建物を脆くしました。でも、それでも、誰も鉱石燃料を諦めようとはしなかった。鉱脈のためなら山のひとつやふたつ、どうなっても仕方がないと思っている。今でも、掘れば出ると信じている。すでに枯れているかもしれないのに、無為に山を掘り、草をむしり……!」
 口早にそこまで言って、加依は言葉を切った。胸の鼓動の大きさに、耳が聞こえづらい。
「加依……?」
「すみません。今のは聞かなかったことにしてください」
 加依はしばらく外していた心の仮面をそっとつけて、型通りの笑顔を乃重に見せた。
「そろそろ帰りましょう」
 乃重に手を差し出すが、彼女は一瞥しただけで、その手をとろうとはしなかった。加依はすんなりと諦め、彼女に背を向けて歩き出す。
 だが、数歩進んだところで、ひどい目眩がした。天地がひっくり返り、加依は思わず壁に爪を立てて膝をついた。
「加依」
 肩や背中に乃重の手が触れる。大丈夫だと返事をしようにも、舌がもつれて言葉にならない。
 地毒の中毒症状だ。長く居すぎた。
 加依は急激に力が抜けていく体を持て余し、その場にうずくまった。
 苦しくはなかった。体は適度に温まり、打ち付けたはずの膝に痛みはない。目眩の余韻は、穏やかな空を飛んでいるときのような浮遊感に包まれていた。むしろひどく気分がいい。
 乃重の手が触れたところだけが、感覚を取り戻していく。前のめりに座り込んでいた体を、手伝ってもらいながら起こす。肩を借りて歩き、狭い通路まで出る。道は曲がっていて、外の光は入らない。蝋燭の灯りもまたほとんど届いていなかった。爪と指の間に地毒が挟まっているのが、ひどく気にかかる。周囲の地毒は薄くなっていたが、加依自身がすでに地毒まみれになっている。思考に絡みつくような甘い香りは一向に消えない。
 足がふらついたので、ひとまず腰を下ろす。乃重が寄り添った。
「まだ吐き気がないなら、大丈夫」
「すごい、説得、力……ですね」
 加依は胸から押し出すようにして笑った。地毒の滴る音が、いやに耳についた。
 乃重は黒く染まった加依の指を、両手で大事そうに包み込み、やがておもむろに口に含んだ。
「乃重、さん……」
 彼女の小さな歯が爪をこすり、指との間を舌が舐めとって、口全体で吸い上げられる。背筋を這い上がる快感をこらえて、加依は息をとめた。
「こんなこと、して、あなたが……中、毒に」
「このくらいの地毒なら平気」
 手首に伝った地毒を追って、乃重の舌が這う。ぬくもりも、やわらかさも、唾液が粘つく音も、不意のざらつきも、まるで内臓のようだった。皮膚の境界を乗り越え、地毒を介して繋がっていく。
 乃重は加依の手を抱きしめ、乳房に押し当てた。加依は逃れようと肩を揺らしたが、肘から下には力が入らなかった。服越しに潰れる胸の感触が、無抵抗な手のひらに伝わる。
 それはまるで、地毒のようだ。
「ここにあるのは彼だけじゃない。彼を食べた獣族だけでもない。私は私だけれど、私はたくさんの命。大地との繋がりは、私の誇り」
 熱を帯びた乃重の声は、それでも透徹としていた。
「そして、あなたは大地の憧れ」
「抜け駆けしたら、恨まれる……でしょう」
 鼻で笑い飛ばそうとするが、うまく笑えない。
「それでもいい」
 乃重は加依の肩を抱き寄せて、壁から体を引き離した。加依は乃重の腕が導くまま、彼女の膝に頭を置いた。
 真上から乃重が見下ろしてくる。薄闇のなか、ぼんやりと乃重の顔が浮かび上がる。加依は動かない腕をなんとか持ち上げ、乃重の頬に手を伸ばした。
「あつい、ですね」
 彼女の体温が加依の体に染み渡る。加依はもっと感じ取ろうとして、目を閉じた。
 乃重の細い指で、汗ばんだ前髪をかきわけられる。目尻を撫でられて、加依は自分が泣いていたと知った。
「きれいな肌」
 切り揃えられた爪が、加依の喉から鎖骨をなぞる。
「お願い、いつか彫らせて」
 乃重は覆いかぶさるように加依を抱きしめ、肌に浮いた汗を吸い上げた。

7章:繋鎖・終